第十五話 全部勝つ話は、だいたい嘘だ。現実はケチだ。釣り銭みたいな勝ち方しかしない
判決は、完全な勝利ではなかった。
市法院は、聖マルタ橋の所有権返還を認めなかった。
橋は引き続き、市参事会の管理下に置かれる。通行税の徴収権も市に残る。
だが、別紙乙二号については、印影および成立過程に疑義あり、と記録された。
聖マルタ橋の建設に、メラン家が主要な資金と石材を拠出したことも、祭礼記録と通行税台帳に基づき、市の沿革記録へ追記されることになった。
さらに、通行税の一部は、聖マルタ・メラン基金として、病院、孤児院、非常時避難路の維持に充てると定められた。
橋は返らなかった。
けれど、橋に刻まれるべき名は戻った。
数日後、聖マルタ橋の欄干に新しい銘板が嵌め込まれた。
銘板といっても、豪華なものではない。小さな石板だった。そこには、市の塔と秤の下に、斜帯三つ星と聖女の鍵が刻まれている。
文字は短かった。
聖マルタ橋
包囲戦の年、メラン家アードルフ卿、町人避難のため石橋を築く
以後、市民の往来と救済のために供す
アンネロッテは、その銘板の前に立っていた。
冬に近い風が吹き、川面には細い光が散っている。
橋の上を、いつものように人々が渡っていた。
魚売り、徒弟、商人、母親に手を引かれた子供。誰も長く銘板を見ない。けれど、何人かは足を止め、刻まれた名を読んでいった。
メラン。
その音が、百年ぶりに橋の上で人の口に戻った。
エルマーは欄干にもたれ、退屈そうにしていた。
「ひどい顔だな」
アンネロッテは銘板を見たまま言った。
「わたしが?」
「そうだ。勝った奴の顔じゃない」
「勝ったのでしょうか」
「少しな」
「少し」
「全部勝つ話は、だいたい嘘だ。現実はけちだ。釣り銭みたいな勝ち方しかしない」
アンネロッテは、小さく笑った。
「あなたらしい慰めですね」
「慰めてない。事実だ」
「でも、今はその事実で十分です」
彼女は銘板に指を近づけた。触れはしなかった。
「父にも、見せたかった」
「死人は目が悪い」
「また、そういうことを」
「だが、紙は残る。石も残る。人間よりは少し長生きする」
アンネロッテは彼を見た。
「あなたは、なぜ最後まで付き合ってくれたのですか」
「仕事だ」
「報酬は、まだ払えていません」
「そうだな。ひどい客だ」
「では、なぜ」
エルマーは、川を見た。
水は灰色で、橋脚に当たって白く乱れている。
「下手な嘘が嫌いなんだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
「本当に?」
「お嬢様、人間の心を掘るな。汚いものが出る」
「あなたの場合、もう見えています」
「なら聞くな」
アンネロッテは、少し黙った。
それから言った。
「わたしは、橋が返らなかったことを、たぶん一生どこかで惜しみます」
「だろうな」
「でも、橋が町の人々を支え続けることを、たぶん一生どこかでよかったと思います」
「人間は面倒だな」
「ええ」
「そこは否定しろ」
「しません」
エルマーは、少しだけ笑った。
「嫌な女になったな」
「あなたのせいです」
「最悪の教育だ」
風が吹いた。
聖マルタ像の足元に、枯れ葉が一枚引っかかっていた。子供が走ってきて、それを拾い、銘板の文字を声に出して読もうとした。
「メ、ラン……」
母親がそばで教える。
「メラン家よ。昔、この橋を造ったお家だって」
アンネロッテは、その声を聞いていた。
何も言わなかった。
ただ、目を伏せた。
その横顔を、エルマーは見ないふりをした。
「泣くなよ」
「泣いていません」
「ならいい。涙は石に効かない」
「紙にも効かないのでしょう」
「少しは学んだな」
アンネロッテは橋の向こうを見た。
「これから、どうするのですか」
「俺か」
「はい」
「代書屋に戻る。借用証、嘆願書、遺言書、婚姻契約、その他人生の失敗全般。世の中は失敗に困らない。安定した商売だ」
「市法院に戻る気は?」
「ない」
「戻れるとしても?」
「戻れない。戻れるとしても、戻らない。あそこは紙の墓場だ。俺は墓守には向いてない。死体を掘り返す方が性に合ってる」
「では、また誰かの嘘を?」
「古い嘘は割増だ」
アンネロッテは彼を見た。
「それ、看板に書けばよいのでは」
エルマーは、少し考えた。
「悪くない」
「珍しく採用するのですね」
「たまには、お嬢様にも役に立つことがある」
「その呼び方は、もうやめてください」
「嫌だね」
「なぜ」
「消えたら、寂しいだろ」
アンネロッテは、返す言葉を失った。
エルマーは、彼女が何か言う前に橋を歩き出した。
「行くぞ」
「どこへ」
「俺の机だ。看板を書き直す」
「わたしも?」
「言い出した責任を取れ。貴族の名誉ってやつだ」
「あなたは名誉を嫌っていたのでは?」
「嫌いだ。だから人に押しつける」
アンネロッテは、少し遅れて歩き出した。
橋の中央で、彼女は一度だけ振り返った。
新しい銘板に、冬の光が当たっていた。
聖マルタ橋。
メラン家アードルフ卿。
町人避難のため石橋を築く。
短い文字だった。
百年を埋めるには、あまりに短い。
失われたものを返すには、あまりに軽い。
それでも、名はそこにあった。




