第十六話 傍らには――
橋のたもとの机は、相変わらず脚の一本が短かった。
看板も相変わらず色褪せている。炭で書かれた落書きは、雨でさらに滲んでいた。
口は悪い。
エルマーはそれを眺め、炭を取った。
「消さないのですか」
アンネロッテが聞いた。
「消してもまた書かれる。町の人間は暇だ」
「事実だからでは?」
「最近、刺し方が雑になったな」
「あなたの教育です」
エルマーは看板の下に、一行を書き足した。
古い嘘は割増
それを見て、アンネロッテは笑った。
「本当に書くとは思いませんでした」
「俺もだ。人生は予想外に落ちぶれる」
「でも、少し楽しそうです」
「目が腐ったか」
「いいえ」
エルマーは炭を机に置いた。
そこへ、初老の男が一人、おずおずと近づいてきた。服は職人風で、手に古い紙包みを持っている。
「あの、クラウゼさん」
「何だ。借金か、相続か、浮気か」
「いえ、その……祖父の土地のことで。昔の境界杭が、隣の畑に移されたらしく」
エルマーは、男の紙包みを見た。
「古いのか」
「ええ。かなり」
エルマーは看板を親指で指した。
「読めるか」
男は看板を見た。
「古い嘘は割増……」
「そういうことだ」
「いくらで?」
「まず紙を見せろ。値段は嘘の腐り具合で決める」
男は困惑しながら紙包みを差し出した。
アンネロッテは少し離れたところに立っていた。町の風が、彼女の外套の裾を揺らしていた。もう、橋のたもとの机が昨日ほど場違いには見えなかった。
エルマーは紙を開き、三行読んだ。
そして、いつものように顔をしかめた。
「ひどいな」
男が青ざめた。
「駄目ですか」
「駄目だ。だが、駄目な紙ほど喋る。座れ」
男は慌てて椅子に座った。
エルマーは羽根ペンを取った。
アンネロッテは、彼の横顔を見ていた。
口が悪く、礼儀がなく、落ちぶれていて、どこまでも人間を信じていない男。
だが、紙の中に塞がれた声だけは、どうしても聞き捨てられない男。
「アンネロッテ」
不意に、エルマーが言った。
彼女は少し驚いた。
お嬢様ではなかった。
「何ですか」
「そこにいるなら、邪魔だ。座るか帰るかしろ」
アンネロッテは、しばらく彼を見た。
それから、机の端に置かれていた予備の椅子を引いた。
「では、少しだけ」
「少しで済むと思うな。人生の失敗は長い」
「知っています」
「ならいい」
エルマーは紙に向かった。
橋の上を、人々が渡っていく。
聖マルタ橋の欄干には、新しい銘文があった。誰もがそれを読むわけではない。明日には忘れる者もいる。けれど、石に刻まれた名は、雨に濡れてもそこに残る。
人間は嘘をつく。
紙も嘘をつく。
石も、時には沈黙する。
それでも、沈黙の底に指を入れて、何かを引きずり出そうとする者がいる。
エルマー・クラウゼは、羽根ペンを紙に置いた。
「さて」
彼は、初老の男に言った。
「まず嘘を数えるぞ。あんたの嘘、隣人の嘘、死んだ祖父の嘘。遠慮するな。どうせ全員、少しずつ汚い」
男は目を丸くした。
アンネロッテは、静かに笑った。
橋の下では、川が流れていた。
古いものも、新しいものも、同じ水音の中で少しずつ遠ざかっていく。
それでも橋は、そこに架かっていた。
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