第九話 江川英吉
江川という名を、俺は知っていた。
正確には、後の世で知っていた。
江戸時代を通じて、伊豆韮山には代々「江川太郎左衛門」を名乗る幕府の代官がいる。三百年近く同じ土地の代官を世襲した、極めて珍しい家だ。幕末には反射炉を築いた当主が出る。
城好きが高じて資料を漁っていた俺は、その名を何度も目にしていた。
――つまり、この家は徳川の世で生き延びる。
今、この城に籠っている北条方の重臣が、である。
その事実が意味することは、一つしかない。
*
噂が流れ始めたのは、四月の終わりごろだった。
韮山城の重臣、江川英吉。伊豆の地侍で、この土地の代官。北条美濃守氏規がもっとも信を置く男。
――その男が、徳川と通じているらしい。
包囲陣の中で、それは半分冗談のように語られていた。籠城が長引くと、この手の噂はいくらでも生える。
だが俺は、村へ行った。
井戸端の婆さんは、こう言った。
「江川様のご子息はな、去年の秋から駿河におられるそうな」
「駿河」
「徳川様のところじゃと聞いたが。……戦になる前じゃで、留学のようなものであろうよ」
俺は礼を言って、村を出た。
――留学、じゃないな。
息子を徳川の陣に置く。
北条が負けたときのための、保険だ。
そして。
その手を打っている男は、もう北条が負けると思っている。
*
その晩、俺は伊賀者を呼んだ。
名無しの男は、いつものように音もなく現れた。
「江川の屋敷を見てきてくれ。場所と、守りの数と、当人がどこで寝ているか」
「……いつまでに」
「明日の夜明けまで」
男は表情を変えずに消えた。
翌朝、戻ってきた男は、地面に木の枝で図を描いた。
江川屋敷は、韮山城の南、丘の裾の平地にあった。
本丸ではない。城の外郭に接した、代官の屋敷である。
――届く。
俺は図を見つめた。
本丸なら無理だ。四百人では話にならない。
だが、外郭の屋敷一つなら。
*
念のため、総大将のところへ行った。
織田信雄。かつての天下人・織田信長の次男である。
包囲陣の本陣で、扇を弄びながら、退屈そうに座っていた。
「――申し上げます。城の南の外郭を、少々突いてみとうございます」
信雄は俺を一瞥して、興味を失った顔をした。
「四百であろう」
「はい」
「好きにせよ」
それだけだった。
俺は平伏して下がった。
――許可は、取った。
軍というのは組織である。組織の中で勝手に動けば、成果が出ても潰される。
これも前世で覚えたことだ。話を通す。判子をもらう。それだけで、後の面倒の八割は消える。
*
その夜、俺は四百十六人を集めた。
「――明日の払暁、南の外郭を突く」
ざわめいた。
「城を落とすのではない。人を、一人捕る」
全員が黙った。
「江川英吉。城の南の屋敷にいる。……こいつを、生きたまま連れてくる」
「――殺してはならぬ、と」
原孫兵衛が確かめた。
「殺したら、この作戦は失敗だ」
俺は言い切った。
「聞け。俺たちは四百だ。この城を落とせる数じゃない。城の外の四万四千も、一月やって落とせていない」
俺は地面の図を指した。
「なら、どうやって落とす。……中の人間に、開けさせる」
*
段取りを詰めた。
払暁。夜が明けきる直前。
他の陣が夜番と朝番を交代する、あの一番だらける刻限を狙う。
岩室の鉄砲四十二挺。
これを二手に分け、屋敷の東と北から撃ち込む。狙って当てなくていい。音を出せと言った。守兵を頭上に釘付けにするのが仕事だ。
原孫兵衛の槍隊。
東から派手に押す。これは陽動である。喚け、旗を振れ、大きく見せろ。
そして本命。
佐田新九郎と、若い五十人。
沼の浅瀬から回り込む。
――浅瀬は、村の爺さんが教えてくれた。
「あそこは葦が生えとるゆえ深そうに見えるが、腰までじゃ。子供が渡っておるわ」
誰も百姓に聞かないから、誰もそれを知らない。
「新九郎」
俺は若い男を呼んだ。
「はっ」
「お前が屋敷に入る。俺も行く」
佐田の目が丸くなった。
「殿が、でございますか」
「江川の顔を知っているのは俺だけだ。……それに」
俺は、少し声を落とした。
「――お前に、斬るなと言い続ける役がいる」
佐田新九郎は、豊前城井の生き残りである。
黒田父子に一族を騙し討ちにされた男だ。腹の底に、まだ火がある。
この男に「生け捕れ」とだけ言って放り込むのは、危ない。
佐田はしばらく黙って、それから深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
*
翌朝。
鉄砲の音が、まだ暗い伊豆の空気を裂いた。
東で喚声が上がる。原孫兵衛の隊が、旗を振り立てて押し込んでいる。
屋敷の櫓から、慌てた声が飛んだ。人が東へ走る音がする。
俺たちは、腰まで水に浸かって葦の中を渡っていた。
冷たかった。四月の水は、まだ冬の名残がある。
――こっちを見るな。
俺は北の空を見上げた。岩室の鉄砲が、絶え間なく鳴っている。狙わず、ただ音を出し続けている。
葦を抜けた。
屋敷の裏塀まで、二十間。
*
塀を越えるのに、縄も梯子も要らなかった。
伊賀者が、いつの間にか塀の上にいて、内側から閂を外していた。
この男は本当に人間なのだろうか。
裏門から雪崩れ込んだ。
庭で、槍を持った男が三人、慌てて振り返った。
「――斬るな! 叩き伏せろ!」
俺は怒鳴った。
佐田の隊が、槍の柄で殴りかかった。斬るより難しいが、そう命じてある。
悲鳴と、鈍い音が続いた。
母屋へ走った。
*
板張りの広間で、その男は立っていた。
五十がらみ。羽織も着ずに、小袖のまま、抜き身の太刀を下げている。
逃げようとした様子はなかった。
顔に、恐怖はなかった。
あるのは、覚悟だった。
――ああ。
俺は一目で分かった。
この男は、死ぬ気で立っている。
自分がここで暴れて時間を稼げば、家人が裏から逃げられると計算している。
(……こういう人が、一番厄介なんだ)
「江川太郎左衛門英吉殿と、お見受けする」
俺は言った。
男の眉が、わずかに動いた。
「――いかにも。何者じゃ」
「豊臣の陣、小出俊定」
名乗った瞬間、男が動いた。
速かった。五十を過ぎているとは思えない踏み込みだった。
だが俺は、その一撃を待っていた。
――正面から来るなら、対処できる。
俺は横に流れながら、鞘ごと抜いた刀を男の膝の裏に叩き込んだ。
斬るより、崩す。
男が体勢を崩したところへ、佐田新九郎と三人が飛びかかった。太刀を弾き飛ばし、腕を極め、床に押さえつける。
「――貴様ら、卑怯な」
「江川殿」
俺は、押さえつけられた男の前にしゃがみ込んだ。
「屋敷の者には、指一本触れさせておりませぬ。……確かめられたければ、後で好きなだけ見て回っていただいて結構」
男の目が、初めて揺れた。
*
俺の陣に戻ったのは、日が高くなってからだった。
東で暴れていた原孫兵衛の隊も、頃合いを見て引いてきた。
死人は、こちら三人。向こうは五人。四百人で城の外郭を突いた戦としては、少ない方だ。
江川英吉は、縄を打たれて陣幕の前に座らされていた。
膝を崩さない。背筋も曲げない。
縄を打たれてなお、この男は代官の姿勢のままだった。
俺は床几に腰を下ろした。
周りの者は、すべて下がらせた。
残したのは、伊賀者だけである。この男は、いてもいないのと同じだ。
篝火が爆ぜた。
*
「――煮るなり焼くなり、好きにせい」
江川が、先に口を開いた。
「某は北条美濃守様の家臣。何を聞かれても答えぬ」
立派なものだ、と思った。
俺は少し黙ってから、こう言った。
「――江川殿。駿河へお送りになった文は、首尾よく届きましたか」
*
男の顔から、音を立てて血が引いた。
俺は、それを見た。
目が泳ぐ。呼吸が浅くなる。喉が動く。
――当たりだ。
「な……何の、ことか」
「ご子息が、去年の秋から駿河におられるとか」
江川の唇が、わずかに震えた。
「留学であると、村では申しておりました。……この戦の前に、伊豆の地侍が息子を駿河へやる。留学、でございますか」
「……っ」
「江川殿。隠すな、とは申しません。……ただ、某は知っている。それだけをお伝えしております」
俺は前に身を乗り出した。
「あなたは、北条が負けると思っておられる」
男が、初めて目を伏せた。
「思っておられるから、息子を徳川へ預けた。北条が滅んでも、江川の家と、この土地の百姓が残るように。……美濃守様には、口が裂けても言えぬ形で」
*
俺は、静かに続けた。
ここからが、本番だ。
「江川殿。あなたが徳川殿を頼りにしておられるのは、よく分かります」
男は答えなかった。
「――ですが」
俺は言った。
「徳川殿は、来ませんよ」
江川の顔が上がった。
「なぜ、と思われますか」
俺は懐から、一枚の図を出した。
この十日、村を歩き、沼を測り、山を登って作った、韮山城の縄張り図である。
男の目が、それに落ちた。
そして、大きく見開かれた。
――当然だ。
この図には、城の中の道が、正確に描いてある。
「明日」
俺は、図の一点を指で叩いた。
城の南の、丘の上。
「明日の早朝、天ヶ岳の砦を落とします」
*
その瞬間、江川英吉の顔から、あらゆる表情が消えた。
俺は指を止めなかった。
「――この意味は、お分かりですな」
男は、答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
伊豆の地侍として、この城を知り尽くしている男だ。
言われるまでもない。
天ヶ岳の砦は、韮山城の背中を守っている。
あそこを取られれば、本丸までは尾根伝いの一本道になる。高いところを押さえられ、上から見下ろされ、後ろから押し込まれる。
――半日で終わる。
俺は、江川英吉の目を見た。
「明日の朝、天ヶ岳が落ちる。昼前には、本丸へ道が通る」
篝火が、ぱちりと爆ぜた。
「徳川殿が動く暇など、一刻もございません」
男の膝が、初めて崩れた。




