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第十話 即決

 崩れた膝を、江川英吉はすぐに立て直した。

 さすがだと思った。

 あれだけのことを言われて、呼吸一つで戻してくる。

「……その図」

 男が、掠れた声で言った。

「どこで手に入れた」

「作りました」

 俺は答えた。

「この十日、沼を歩き、山に登り、村で聞いて回りました。……水がどこから来て、どこへ抜けるか。どの道が繋がっているか」

 江川の目が、じっと図に落ちていた。

「百姓に聞いたか」

「はい」

 男は、深く息を吐いた。

「……堀の内ばかり固めておったわ」


          *


 俺は、ここで一段、声の調子を変えた。

 交渉には、順番がある。

 まず相手の足元を崩す。次に逃げ道を全部見せる。それから、一つだけ扉を開ける。

「江川殿。白状せよとは申しませぬ」

 俺は言った。

「あなたが美濃守様に隠れて徳川殿と通じておられること――関白様は、とうにご存じにございます」

 江川の顔が、また白くなった。

 ――嘘だ。

 俺は内心で舌を出した。

 関白秀吉が江川英吉の内通を知っているなど、俺は一度も聞いていない。知る由もない。

 だが。

 俺はこの半刻で、三つの本当のことを言った。

 息子が駿河にいること。城の縄張りを正確に知っていること。明日、天ヶ岳を落とすこと。

 三つ本当を並べてから、四つ目に嘘を混ぜる。

 それは本当に聞こえる。

 ――前世で、施主に工期の言い訳をするたびに使った手だ。

「ご存じであるからこそ」

 俺は続けた。

「関白様は、甥である某を、この韮山へ遣わされたのです」

 江川英吉の喉が、ごくりと鳴った。

「……甥」

「木下家定が四男。北政所様の甥にあたります」

 男の目が、初めて俺の顔を正面から見た。

 ――値踏みが変わった。

 いままでこの男は、俺を「首を刎ねる若い武将」として見ていた。

 今は「豊臣の血につながる者」として見ている。

「よろしいか、江川殿」

 俺は畳みかけた。

「伊豆国の次の国主は、某です」

 言い切った。

 これも、確かめたわけではない。

 関白は「韮山を落とせ」と言っただけだ。伊豆をやるとは一言も言っていない。

 だが、そう読んだ。

 読んだから、断言する。

 迷いを一分でも見せれば、この男は嗅ぎつける。

「関白様の甥である、まだ元服して間もない小僧が、北条の象徴たる韮山城を落とす。……その意味を、お考えください」

 俺は指を折った。

「北条は、四万四千に一月囲まれてびくともせなんだ。天下に鳴り響く堅城でございます。……その城を、四百の小僧が落とす」

 江川の唇が、かすかに動いた。

「豊臣の武威の前に、北条の力など霞む」

 俺は言った。

「関白様がお望みなのは、韮山の首ではございません。天下への見世物でございます。……そして某は、その見世物の役者として、ここへ寄越された」

 江川英吉は、長いこと黙っていた。

 篝火が爆ぜる音だけがしていた。

「……徳川殿は」

 やがて、男が言った。

「徳川殿は、動かれぬのか」

 ――ああ。

 まだ、そこに縋っているのか。

 俺は、少し哀れになった。

 この男は、息子を駿河へやった。それで最悪の場合の保険は打った。

 だが、心のどこかで期待していたのだ。ぎりぎりのところで徳川が動いて、北条と豊臣の間を取り持ってくれるのではないか、と。

「――動かれませぬ」

 俺は言った。

「動く暇が、ございません」

 俺はもう一度、図の天ヶ岳を指した。

「明日の朝、あそこが落ちます。昼前には本丸まで道が通ります。……徳川殿が駿河から使者を立てたとして、その使者はどこへ着きます。焼け跡でございます」

 江川の顔が歪んだ。

 ――さて。

 ここまでで、逃げ道は全部塞いだ。

 あとは、扉を一つだけ開ける。

「江川殿」

 俺は、声を戻した。

 脅す声から、話す声へ。

「某に従っていただきたい」

 男が顔を上げた。

「今すぐ城へ戻り、北条美濃守様を説得していただきたい。天ヶ岳が落ちる前に城を開けと」

「……某に、主家を売れと申すか」

「売れとは申しておりませぬ」

 俺は首を振った。

「――残せと申しております」

 江川の動きが止まった。

「城が落ちれば、城兵は死にます。城下の百姓も、いくらかは巻き込まれて死にます。江川の家も、あなたと共に消えます。……それで、何が残りますか」

 俺は身を乗り出した。

「開ければ、残ります。人が残る。田が残る。あなたの家が残る」

「――某に従うなら」

 俺は、はっきりと言った。

「江川の本領は、某が責任をもって安堵いたします」

 男の目が、大きく開いた。

「代官職も、そのままお続けいただきたい。……いや、そのままでは困ります。伊豆を治めるにあたり、某には、この土地を知る者が要る。あなたに、頼りたい」

 江川英吉は、しばらく口をきけなかった。

「……某は、北条の者ぞ」

「今日までは」

 俺は言った。

「明日からは、伊豆の者でございます」

 そして俺は、最後の札を切った。

「――返事は、今、この場で決めていただきたい」

 男の顔が引き攣った。

「な……今すぐ、とは」

「今すぐです」

 俺は立ち上がった。

「明日の払暁、天ヶ岳へ動きます。段取りは組み終えております。……夜が明ければ、もう止まりませぬ」

 俺は男を見下ろした。

「城へ戻る刻限を考えれば、返事は今しかございません。……お断りになるなら、それでも結構。明朝、あなたごと、本丸まですりつぶします」

 ――即答を迫るのは、こちらの都合ではない。

 迷う時間を与えると、人は必ず「もう少し様子を見よう」を選ぶ。

 様子を見て得をした人間を、俺は前世でほとんど見たことがない。

 この男は、頭がいい。

 頭がいい人間ほど、考える時間を与えると、考えて動かなくなる。

 だから、切る。

 江川英吉は、目を閉じた。

 長い、長い沈黙だった。

 そして、目を開けた。

「――一つだけ」

 男の声は、震えていなかった。

「一つだけ、お約束いただきたいことがござる」

 俺は待った。

「某の屋敷には」

 喉が動いた。

「――妻と、嫁と、孫がおり申す」

 男の背が、そこで初めて曲がった。

「家人も、下女も、下男も。……戦のことなど何一つ知らぬ者ばかりでござる。今朝方、貴殿の手勢が押し入った折、某は、あれらを裏から逃がすつもりで立ち塞がった」

 俺は、朝のことを思い出した。

 この男は、逃げなかった。抜き身を下げて、広間で待っていた。

 ――家人を逃がす時間を稼ぐためだった。

「あの者どもに」

 江川英吉は、俺を見上げた。

「危害を加えぬと、お約束いただけますか」

「――勿論です」

 俺は即答した。

「某は、江川殿をこれから頼りにしたいと申し上げました。その家人を傷つけて、どうして頼りにできましょう」

 だが、男の目は動かなかった。

 ――足りない。

 当然だ。

 言葉など、いくらでも言える。城を開けた途端に約束を破る例など、この時代には掃いて捨てるほどある。

 だから俺は、続けた。

「もし――」

 声を落とした。

「もし、某の軍の者が、江川殿の屋敷の者に手を出したならば」

 俺は、腰の刀に手をかけた。

「その者の首は、某自らの手で刎ねて、江川殿に差し出しましょう」

 江川英吉の顔が、変わった。

 驚きではなかった。

 もっと別の、背筋の冷えるようなものが、その顔に走った。

「……貴殿」

 男の声が、掠れた。

「貴殿が、あの高札場の松に首を掛けた者か」

 俺は答えなかった。

「三日前、村に首が二つ晒された。……豊臣の陣の、若い侍が、自分の手勢を斬ったのだと聞いた」

 江川の喉が鳴った。

「――自分の兵を、だ」

 この男は、伊豆の代官である。

 村で何が起きたかは、俺の陣より早く耳に入っている。

 そして、この男は理解したのだ。

 目の前の若い侍が言っているのは、たとえ話ではない。

 すでに、やったことの話だ。

 鶏一羽で首を刎ねた。

 村の娘に手を出した二人を、自分の手で斬って、松に掛けた。

 それを知っている人間にとって、「首を刎ねて差し出す」という言葉は、比喩ではない。

 江川英吉は、ゆっくりと、床に額をつけた。

 縄を打たれたまま、体を折って、額を板に押し付けた。

「……承知、いたしました」

 声が濡れていた。

「某、これより韮山城へ戻り、美濃守様をお説き申し上げまする」

「――かたじけない」

 俺は頭を下げた。

 縄を解かせた。

 男は、しびれた手首をさすりながら立ち上がり、そして、ふと足を止めた。

「……小出殿」

「はい」

「歳は、いくつになられる」

 俺は答えた。

「十六にございます」

 江川英吉は、しばらく俺の顔を見ていた。

「……十六」

 そう繰り返して、首を振った。

「化け物じゃ」


          *


 男が去る前に、一つだけ言われた。

「――美濃守様のお命は、いかがなりまするか」

 俺は、少し黙った。

 嘘をつけば、この場は通る。

 だが、後で必ず破綻する。

「約束できませぬ」

 俺は言った。

 江川の顔が強張った。

「美濃守様のお命をどうなさるかは、関白様がお決めになること。某には、口を出す力がございません」

 俺は、まっすぐ男を見た。

「――ですが、某は、美濃守様を死なせたくはございません。それだけは、本当です」

 男はしばらく俺を見つめ、それから頷いた。

「……安堵いたした」

「安堵、でございますか」

「できぬことを、できると仰らなんだ」

 江川英吉は、闇の中へ歩き出した。

「約束を守る御方は、守れぬ約束をなさらぬ」


          *


 男の背が、韮山の丘の闇に消えた。

 伊賀者が、いつの間にか隣に立っていた。

「――追いまするか」

「いらん」

 俺は床几に、どすんと腰を落とした。

 そして、両手で顔を覆った。

「……はぁぁぁ」

 手が、湿っていた。

 握りしめていた掌が、汗でぐしょぐしょになっていた。

 (……危なかった)

 全身から力が抜けた。

 ――関白様は、とうにご存じにございます。

 ――伊豆国の次の国主は、某です。

 (……全部、ハッタリだよ)

 関白は江川の内通など知らない。

 伊豆をもらえる保証も、どこにもない。

 俺が言えた本当のことは、三つだけだ。

 息子が駿河にいる。縄張り図がある。明日、天ヶ岳を落とす。

 その三つに、嘘を二つ混ぜて押し切った。

 (……もし、あの人が一言でも「関白様に確かめる」と言っていたら)

 終わりだった。


          *


 俺は顔を上げて、東の空を見た。

 まだ暗い。

 だが、あと二刻もすれば、白み始める。

 ――嘘を、本当にしなきゃならん。

 俺は立ち上がった。

 三つの本当のうち、最後の一つ。

 明日の朝、天ヶ岳を落とす。

 あれだけは、絶対にやらなければならない。

 やらなければ、俺が言ったこと全部が嘘になる。

 そして江川英吉は、城の中で北条氏規に噓を吹き込んだ裏切り者として、殺される。

「――全軍、起こせ」

 俺は言った。

「夜明けまでに、支度を終える」

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