第十一話 天ヶ岳
夜明けまで、二刻しかなかった。
俺は陣幕に組頭を全員集めて、地面に図を描いた。
「天ヶ岳の砦だ」
韮山城の背後、南に伸びた尾根の上。
城本体より高い。
「ここを取る」
原孫兵衛が、白い眉の下から図を覗き込んだ。
「守りは」
「三百から四百。……四万四千に囲まれて一月、誰もここを攻めておらん」
俺は指で尾根をなぞった。
「攻めなかったのは、攻めにくいからだ。北と西は切岸。ほとんど崖だ。まともに登れるのは東の細い道だけで、そこは上から丸見えになる」
組頭たちが顔を見合わせた。
「――だが」
俺は言った。
「取れば、この城は終わる」
俺は図の上に、指で線を引いた。
天ヶ岳から、本丸まで。
「ここを取られたら、尾根伝いに本丸まで一本道になる。上から見下ろされ、上から撃たれ、上から押し込まれる」
誰も口をきかなかった。
「城の中の人間は、それを誰よりよく知っている。伊豆の地侍なら、子供の頃から知っている」
――だから、あの男は膝を崩したのだ。
「いいか。俺たちがやるのは、城を落とすことじゃない」
俺は図を叩いた。
「この城はもう終わっている、と城の中の人間に分からせることだ」
段取りを詰めた。
第一、伊賀者が先に登る。
北の切岸から。誰も登れないと思っている場所から。見張りを、音を立てずに片付ける。
第二、岩室の鉄砲四十二挺を、夜のうちに東の斜面の中腹まで上げる。
夜明けと同時に一斉に撃つ。この一発目が、全部を決める。
第三、原孫兵衛の槍隊が東の細い道を押し上がる。
これは正面。一番死ぬ。
第四、佐田新九郎と若手が、北の切岸を登る。
伊賀者が縄を垂らしておく。
「――殿」
佐田新九郎が言った。
「北の切岸は、垂直に近うございます。縄一本で登れと」
「登れ」
「……登れる者と、登れぬ者がおりまする」
もっともだった。
「登れる者を選べ。無理な者は東へ回せ。落ちて死ぬのは、俺が一番嫌いな死に方だ」
佐田が、少し笑った。
「承知いたしました」
まだ暗いうちに、四百十六人が集まった。
冷えた空気の中で、白い息が立ち上っている。
俺は、その前に立った。
――さて。
ここで、何を言うか。
前世でも、朝礼というものが嫌いだった。
「安全第一で頑張りましょう」と言って、誰の心も動かなかった。
人を動かすのは、綺麗事じゃない。
「――聞け」
俺は声を張った。
「京の河原で、俺はお前たちに言った。城を落としたら、伊豆七万石の家臣にしてやると」
誰も動かない。
「そして、あれは空手形だと言った。城が落ちなければ全部消えると」
白い息が、四百人分、揺れている。
「――今日だ」
俺は東の空を指した。
「今日、あの砦を取れば、空手形が証文になる」
ざわ、と何かが動いた。
「俺は嘘は言わん。だから正直に言うぞ。今日、死ぬ者が出る。東の道を上がる者は、上から撃たれる。北の崖を登る者は、落ちる者が出る」
俺は隊列を見渡した。
「それでも登れと言っている。……俺は、そういうことを言う男だ」
誰も、目を逸らさなかった。
「だがな」
俺は続けた。
「お前たちは、この一月、飯を食った。銭を握った。草鞋を履いた。腹を下さなかった。……それは、今日のためだ」
声を張った。
「体力を残してある。足が潰れていない。病んでいない。この陣で、今日一番動ける四百人は、お前たちだ」
どこかで、誰かが低く唸った。
「乞食と呼ばれた。無宿と呼ばれた。危なくて使えんと言われた」
俺は、腹の底から怒鳴った。
「――今日、名を取れ!」
四百人が、地を揺らした。
俺は最後に、一つだけ付け加えた。
「法度は、今日も生きている。城を取っても、砦を取っても、女子供に手を出した奴は――」
言い終わる前に、どこかから声が飛んだ。
「――松に掛かるんだろ!」
どっと笑いが起きた。
俺は思わず口の端を上げた。
「分かってるなら結構だ。……行くぞ」
*
夜明け前の空が、東から白み始めた。
尾根の輪郭が、藍色の中に浮かび上がってくる。
俺は東の斜面の中腹で、岩室の隣に座っていた。
鉄砲四十二挺が、砦の柵に狙いをつけて並んでいる。
「――若ぇの」
岩室が、火縄の匂いの中で言った。
「あんた、震えてるぞ」
俺は自分の手を見た。
確かに、震えていた。
「寒いんだ」
「そうかい」
男は笑わなかった。
「――撃つぞ」
空が、白くなった。
四十二挺が、一斉に鳴った。
音が、伊豆の山にぶつかって返ってきた。
砦の柵の上で、人影が二つ、三つと消えた。
悲鳴が上がる。慌てた声が飛び交う。誰かが太鼓を叩き始めた。
二発目。
三発目。
岩室の隊は、狙って撃たなかった。撃ち続けた。
柵の上から誰も顔を出せないように、切れ目なく鉛を送り込む。
その下を、原孫兵衛の槍隊が登り始めた。
東の道は狭い。三人並べば詰まる。
老人はそれを承知で、二人ずつ、間隔を開けて上げていった。詰まらせない。詰まった隊列は上から狙い撃ちにされる。
それでも、落ちた。
石が転がってきた。丸太が落ちてきた。
二人が転がり落ちて、動かなくなった。
――くそ。
俺は歯を食いしばった。
半刻ほど、その状態が続いた。
東の道は詰まりかけ、鉄砲は火薬を食い、砦は落ちない。
――遅い。
俺は北の崖を見た。
まだ、旗が上がらない。
(……新九郎)
北の切岸は、縄一本で二十間を登る。
鎧を着て、槍を背負って、暗いうちから取り付いている。
登り切れるのか。
途中で見つかれば、上から石を落とされて終わりだ。
(頼む)
俺は拳を握った。
そのとき。
砦の中から、悲鳴が上がった。
北側だ。
柵の上の人影が、一斉に北を向いた。
鉄砲を構えていた腕が下がる。太鼓の音が乱れる。
――上がった。
「岩室!」
「見えてる!」
男が怒鳴り返した。
「――東へ撃て! 今だ!」
四十二挺が、また鳴った。
柵の上から、人が消えた。
その隙に、原孫兵衛の槍隊が、東の道を一気に駆け上がった。
あとは、早かった。
北から入った佐田の隊が内側から柵を開け、東から槍隊が雪崩れ込む。
挟まれた守兵は、半刻も持たなかった。
俺が砦に着いたときには、もう終わっていた。
土塁の内側に、人が転がっていた。
こちらの者も、向こうの者も。
「――殿!」
佐田新九郎が駆けてきた。
全身泥だらけで、片方の耳から血を流していた。
「北、取りましてございます!」
「怪我は」
「かすり傷でございます」
嘘だ、と思ったが、言わなかった。
「損害は」
佐田の顔が、少し曇った。
「……こちら、死者十七。手負い四十余」
十七人。
俺は目を閉じた。
――十七。
昨日まで飯を食い、銭を握り、笑っていた十七人。
帳面に、俺が自分で名を書いた十七人。
「――名を、全部拾え」
俺は言った。
「誰が、どこで、どう死んだか。全部だ。分からんものは無理に決めるな。分からんと書け」
「……はっ」
「向こうの死人もだ。人数を数えて、まとめて葬れ。放っておくな」
*
俺は、砦の一番高いところへ登った。
朝日が、伊豆の山を照らし始めていた。
そこから、韮山城が見えた。
――見える。
本丸が、丸見えだった。
尾根が、そのまま城まで下っている。遮るものが何もない。
ここに鉄砲を並べれば、本丸の中を撃てる。ここから兵を下ろせば、半日で門に取り付ける。
城の中の人間からも、こちらが見えているはずだった。
俺は、旗を立てさせた。
俺の隊の、粗末な旗である。
「――殿。このまま、押しまするか」
原孫兵衛が言った。
老人の目は、まだ戦の目をしていた。
「押さん」
俺は言った。
「え」
「ここで止める。一歩も動くな」
組頭たちが顔を見合わせた。
「……なぜでございます。道は通っております。今なら」
「今なら本丸に取り付ける。取り付けるが、落とせん」
俺は答えた。
「四百だぞ。城には三千五百いる。取り付いたところで押し返される。……そして、押し返された瞬間に、この砦を取った意味が消える」
俺は城を見下ろした。
「今、城の中の連中が何を見ていると思う」
誰も答えなかった。
「明日にも殺せる位置に、俺たちが立っているのを見ている」
俺は旗を指した。
「押し込めば、そこから先は殺し合いだ。殺し合いが始まれば、向こうも死ぬ気になる。死ぬ気になった三千五百は、絶対に降りん」
俺は、原孫兵衛を見た。
「――抜けることを見せるためには、抜かないことだ」
老人が、白い眉の下で目を細めた。
「……なるほど」
*
その日、俺の隊は天ヶ岳を動かなかった。
鉄砲も撃たなかった。
ただ、砦の柵を直し、土塁を積み直し、水を汲んで湯を沸かし、飯を炊いた。
城からは、それが全部見えている。
――攻めもせず、退きもせず、平然と飯を食っている四百人。
それが、どれほど気味の悪いものか。
*
昼過ぎ、包囲陣の方が騒がしくなった。
俺の陣へ、他家の使番が次々にやってきた。
「天ヶ岳が落ちたというのはまことか」
「四百で、か」
「小出俊定とは何者じゃ」
*
夕方には、総大将・織田信雄からの使いが来た。
朝、俺のことなど覚えてもいなかったであろう男が、今度は名を呼んでいた。
俺は、砦の縁に腰を下ろした。
足が、ようやく震え止まっていた。
懐から帳面を出して、開いた。
四百十六の名が並んでいる。
佐田が拾ってきた十七の名を、俺は一人ずつ探して、朱で線を引いた。
名前の分からない者はいなかった。
全員、分かった。組頭が覚えていた。
(……よかった)
誰にも弔われずに消える者は、一人も出なかった。
俺は筆を置いて、韮山城を見下ろした。
本丸の屋根が、夕日で赤くなっていた。
あの中に、江川英吉がいる。
俺が言った通りの刻限に、天ヶ岳が落ちるのを、あの男は城の中から見たはずだ。
そして今、北条美濃守氏規に、必死で説いているはずだ。
(……さあ)
俺は膝を抱えた。
(どうする、美濃守殿)




