第十二話 死装束
翌朝は、深い靄だった。
伊豆の谷から白いものが湧き上がって、尾根の下半分を沈めていた。
天ヶ岳の砦から見下ろすと、韮山城は雲海に浮かぶ島のように見えた。
俺は柵の際に立って、それを眺めていた。
夜のうちに、こちらの傷病者は麓へ下ろした。死んだ十七人も、昨日のうちに焼いて埋めた。
砦に残っているのは三百人ほどである。柵を直し、湯を沸かし、飯を炊いている。
誰も、攻める話をしなかった。
*
朝五つを過ぎたころ。
「――殿」
伊賀者の声が、すぐ後ろでした。
「城の門が、開きまする」
俺は柵を掴んだ。
靄の中で、韮山城の大門が、ゆっくりと開いていく。
兵は出てこなかった。
旗も、太鼓も、鬨の声もない。
出てきたのは、一つの影だった。
白かった。
靄の中で、それは異様に白かった。
男が一人、白い装束を着て、ゆっくりと尾根の道を登ってくる。
供はいない。
馬にも乗っていない。
両手には何も持っていない。
――死装束だ。
俺の背中を、冷たいものが走った。
「て、鉄砲――」
誰かが慌てて言った。柵の上で、火縄の匂いが動いた。
「――撃つな」
俺は言った。
「一人だ。武器も持っておらん」
俺は柵に手をかけたまま、その白い影を見ていた。
砦の中が、静まり返っていた。
昨日まで喚き散らして崖を登っていた四百の荒くれが、誰も口をきかなかった。
この連中は、戦場のことは分かる。
――あれが、何を意味するかも。
男は、ゆっくりと登ってきた。
急がなかった。転びもしなかった。
六十近い年だと聞いていたが、背筋は真っ直ぐだった。
やがて、砦の柵の前まで来た。
俺は、門を開けさせた。
男が入ってくる。
三百人が、道を空けた。誰も、槍を向けなかった。
男は、砦の中央まで進み、そこで立ち止まった。
白髪。日に焼けた顔。深い皺。
そして、静かな目をしていた。
俺は床几から立ち上がろうとして――やめた。
(……座っていろ)
自分に言い聞かせた。
これから起きることは、儀式だ。
受ける側が中途半端に動けば、この人の覚悟を汚す。
俺は床几に座り直した。
男が、まっすぐ俺を見た。
「――北条美濃守氏規」
低く、よく通る声だった。
「韮山の城主にござる」
そして、その場に膝を折った。
死装束のまま、土の上に両手をつき、深く頭を下げた。
「……小出俊定殿、と申されたか」
「はい」
「見事なる、お手並みにござった」
男の声は、震えていなかった。
「天ヶ岳を取られ申した。あそこを抑えられれば、我が城は丸裸。……子供の時分から、この山を見て育った身にござれば、それが何を意味するかは、言われるまでもござらぬ」
俺は黙って聞いていた。
「昨日、貴殿の手勢は砦を取ってから、一歩も動かれなんだ」
男が、わずかに顔を上げた。
「柵を直し、土を積み、湯を沸かし、飯を炊いておられた。……あれを一日見せられて、耐えられる城はござらぬ」
――ああ。
伝わっていた。
「攻めてくれれば、まだ戦えた。……あれは、戦ではござらぬ。普請でござる」
男は、また深く頭を下げた。
「――お願いの儀がござる」
白い背中が、土の上で丸くなった。
「城内には、兵が三千五百。城下と近在の百姓が、逃げ込んだ者を含めて千余り。……女子供もおり申す」
声が、そこで初めて掠れた。
「某の命と引き換えに、あの者どもの命を、お救いいただきたい」
*
砦が、静まり返っていた。
俺は、しばらく動かなかった。
――この人は、それだけのために来たのだ。
供も連れず。刀も持たず。白い装束を着て、たった一人で、敵の砦の真ん中まで歩いてきた。
自分の首を、四千五百人分の値札として差し出すために。
(……本当に、いるんだな)
こういう人が。
俺は、ゆっくりと床几から立ち上がった。
土を踏んで、その前まで行った。
膝をついて、白い装束の肩に手をかけた。
そして、力を込めて、起こした。
「――お顔を、お上げくだされ」
男の体が、こわばった。
「美濃守殿」
俺は言った。
「お命を捨てる必要など、どこにもございません」
北条氏規の顔が上がった。
その目が、初めて揺れた。
何を言われたのか分からない、という顔だった。
「……何と」
「城をお開けくださるなら、それで結構でございます。城兵にも、百姓にも、指一本触れさせませぬ」
俺は、まっすぐ男を見た。
「そして――あなたにも」
男は、しばらく口をきけなかった。
「……何ゆえ」
やがて、掠れた声で言った。
「某は、貴殿の敵にござる。一月余り、豊臣の大軍を釘付けにし申した。……某の首は、天下への見せしめとして、これ以上ないものにござろう」
――その通りだ。
この人の首を取れば、俺の手柄はもっと大きくなる。関白は喜ぶだろう。
俺は答えた。
「某が求めましたのは、北条の誇りを砕くことではございません」
言葉を、慎重に選んだ。
「無駄な血を、止めることでございます」
「――昨日、天ヶ岳を取ったとき」
俺は続けた。
「某の隊で、十七人が死にました」
男の眉が、動いた。
「東の道を上がって、上から石を落とされて死んだ者。北の崖を登って、落ちた者。……全員、名を知っております。某が自分で帳面に書いた名でございます」
俺は、砦の下の韮山城を指した。
「あの城を力で落とせば、あと何十人死にますか。何百人ですか」
「――そして、その後」
俺は言った。
「城が焼ければ、伊豆の百姓は田を捨てて逃げます。逃げた田は荒れます。荒れた田は、三年は元に戻りませぬ」
男の目が、こちらを見ていた。
「その三年、誰が食えませぬか。……伊豆の民でございます」
俺は、少し声を落とした。
「某は、この土地をいずれ預かるかもしれぬ身にございます。焼け跡と、恨みだけが残った国を預かって、どうやって治めまするか」
――前世の言葉で言えば。
(客を全部焼き殺してから店を開ける阿呆が、どこにいる)
だが、それは言わない。
「――ゆえに、某は城を焼きませぬ。城兵も殺しませぬ」
俺は言った。
「そして、美濃守殿。あなたを死なせるのも、無駄でございます」
北条氏規は、目を伏せた。
白い装束の肩が、わずかに震えていた。
「……無駄、と」
「はい」
俺は頷いた。
「あなたは、伊豆の民に慕われておられる。この一月、村を歩いて回って、それだけはよく分かりました」
男が、はっと顔を上げた。
「――村を、歩かれたか」
「毎日、歩きました。水を測り、道を測り、百姓の話を聞きました」
俺は言った。
「どこの井戸が夏に濁るか。どこの田が沼になるか。……そして、美濃守様は年貢の取り立てで無理を仰らぬ、と。それも聞きました」
男の顔が、くしゃりと歪んだ。
「そういう方に死なれては、伊豆が困ります」
――ただ。
俺は、ここで一度、言葉を切った。
言わなければならないことがある。
「――美濃守殿。一つだけ、正直に申し上げます」
男が顔を上げた。
「あなたのお命をどうなさるかは、関白様がお決めになることでございます」
空気が、少し張った。
「某には、その力がございません。某は五百石の小姓にございます。……ですから、『必ず助かる』とは、お約束できませぬ」
俺は頭を下げた。
「できぬことを、できると申し上げるわけには参りません」
「――ですが」
顔を上げた。
「某は、あなたを死なせたくございません」
言い切った。
「そのために、できることは全部やります。関白様に申し上げます。総大将の織田様にも申し上げます。……嫌がられても、何度でも申し上げます」
俺は、まっすぐ男の目を見た。
「――生きて、この先の泰平を見ていただきたい」
北条氏規は、長いこと、何も言わなかった。
やがて、震える手で自分の顔を覆った。
声は出さなかった。
白い装束の背中が、一度、大きく上下した。それだけだった。
六十近い男が、敵の砦の真ん中で、それ以上は崩れなかった。
俺は、待った。
「……江川が」
やがて、男が言った。
「江川英吉が、昨夜、某に申した」
俺は黙っていた。
「『あの若い将は、化け物にござる』と。……『されど、悪い化け物ではござらぬ』と」
俺は、思わず苦笑した。
「褒められているのか、けなされているのか」
「褒めており申す」
氏規は、初めて口の端を上げた。
「江川は、人を褒めぬ男にござる」
男は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、白い装束の埃を払って、俺を見た。
「……小出殿。歳は、いくつになられる」
「十六にございます」
氏規は、静かに首を振った。
「――そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
そして、ふと、思い出したように聞いた。
「時に。……この陣に、徳川殿はおられるか」
俺は答えた。
「大納言様は、小田原の本陣におられます」
「そうか」
男は、東の空を見た。
「……お変わりないか」
俺は、その横顔を見た。
この人と徳川家康は、今川の人質だった少年のころからの知り合いだと聞いている。
四十年、五十年前の話だ。
「――お元気にあられます」
俺は言った。
氏規は、小さく頷いた。
「そうか。……よかった」
*
俺は、氏規を陣の下へ案内させた。
「――某の陣ではございません」
俺は言った。
「韮山攻めの総大将は、織田信雄様にございます。開城の儀は、織田様の御前でなさいませ」
氏規が、少し驚いた顔をした。
「……貴殿が受けられぬのか」
「某は、末席の小姓にございます」
俺は頭を下げた。
「筋は、通しませぬと」
男は、しばらく俺を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
「……重ねて、かたじけない」
白い背中が、靄の中へ下りていった。
それを見送って、俺は柵に手をついた。
膝が、また笑い出していた。
――終わった。
韮山城が、開く。
落ちない城が、落ちた。
俺は、腹を切らずに済む。
(……終わった)
急に、全身から力が抜けた。
俺は柵に背中を預けて、そのままずるずると座り込んだ。
「――若ぇの」
岩室が、いつの間にか隣にいた。
湯呑みを差し出してきた。中身は白湯だった。
「証文に、なったな」
俺は、それを受け取った。
手が震えていて、少しこぼれた。
「……ああ」
俺は、掠れた声で言った。
「――なった」
*
その日の午後、韮山城は開いた。
四万四千が一月余り動かせなかった城が、一滴の血も流さずに門を開けた。
城兵三千五百は、武器を置いて、一人も殺されずに城を出た。
城下の百姓は、家を焼かれなかった。
そして俺は、その報せを持って、小田原の石垣山へ向かうことになる。
――関白豊臣秀吉が、待っている陣へ。




