第十三話 大納言の礼
韮山城の受け取りに、三日かかった。
武具を検め、蔵を検め、人数を数える。
城兵三千五百は、武器を置いて城を出た。近在に身寄りのある者はそこへ帰し、行き場のない者には三日分の米を持たせた。
これは俺が勝手にやったことで、後で織田信雄の家臣に「そこまでする必要はない」と言われた。
「腹の減った三千五百人を、伊豆の野に放つのでございますか」
俺が聞くと、その家臣は黙った。
――飢えた元兵士が、街道で何をするか。
考えなくても分かる。そうなれば、結局こちらが討伐に出る羽目になる。米三日分の方が安い。
江川英吉には、二度会った。
一度目は開城の日。あの男は、俺の顔を見るなり深く頭を下げて、それきり何も言わなかった。
二度目は、俺が伊豆を発つ前日である。
「本領のこと、しかとお約束いただけますな」
「約束いたします」
俺は答えた。
「――ただし、某が伊豆をいただけたら、でございます」
江川が、目を丸くした。
「まだ、決まっておらぬので」
「一言も」
俺は正直に言った。
「関白様は『韮山を落とせ』と仰せになっただけです。伊豆をやるとは、一度も」
江川英吉は、しばらく口を開けたまま俺を見ていた。
それから、心底呆れたように天を仰いだ。
「……よくもまあ、あれだけ堂々と『伊豆の次の国主は某だ』と」
「そう申し上げねば、あなたは動かれなかったでしょう」
「動きませなんだな」
男は笑った。この人が笑うのを、俺は初めて見た。
「……小出殿。伊豆をお取りなされ」
江川は真顔に戻った。
「他の誰が来ても、この土地は治まりませぬ。……某は、そう申し上げて回りまする」
*
小田原へ着いたのは、五月の半ばだった。
箱根を越えて相模へ下りると、視界が開けた。
――なんだ、これは。
俺は思わず馬を止めた。
平野が、埋まっていた。
陣屋と旗と柵で、地面が見えないほど埋まっていた。
二十万。
帳面の上でも、東海道の行軍でも見たはずの数字が、ここでは別の意味を持っていた。
その向こうに、小田原城の総構えが横たわっている。
城というより、囲まれた町だった。
そして――
俺は、笠懸山を見上げた。
山の上に、白い城が建ちかけていた。
――石垣山だ。
(……本当に建ててるのか)
この城が完成した瞬間、小田原城から見上げた北条方は絶望する。一夜にして城が現れたように見えるからだ。
だが俺の目に映ったのは、伝説ではなかった。
斜面を這う人夫の列。石を運ぶ修羅。組み上がっていく足場。切り出したばかりの木の白さ。
資材の置き場が工区ごとに分けられ、荷が滞りなく上がっている。
(……段取りが、いい)
俺は少し、鳥肌が立った。
*
俺の隊に割り当てられたのは、笠懸山の麓、早川に近い一角だった。
例によって隅である。だが今度は、隣の陣の連中がこちらを見る目が違った。
――韮山を落とした四百。
その噂は、俺たちより先に着いていた。
陣を張って、いつも通り厠を掘らせ、水の採り場を決めた。
石垣山への報告は、翌々日と決まった。関白は多忙である。
*
その晩。
俺が帳面をつけていると、幕の外で伊賀者の声がした。
「――殿。客人にございます」
「こんな刻限に」
もう亥の刻を回っていた。
「五人。……ただし、四人は外に残っておりまする」
伊賀者の声が、わずかに固かった。
この男が固くなるのを、俺は初めて聞いた。
「誰だ」
少しの間があって、答えが返ってきた。
「――徳川家の御紋にございます」
*
幕を上げて外へ出ると、男が一人、立っていた。
小袖に羽織。旅装のような、飾り気のない格好である。
背は低い。少し太っている。
だが、こちらを見た瞬間に分かった。
――目が違う。
俺は膝を折った。
「……徳川大納言様と、お見受けいたします」
男は、少し驚いた顔をした。
「よう分かったな」
「畏れ入ります」
徳川家康は、ふ、と口の端を上げた。
「夜分にすまぬ。……人払いをしてもらえるか」
*
陣幕の中に、二人きりになった。
俺は床几を勧めた。家康はそれに腰を下ろすと、しばらく黙って幕の中を見回した。
豪華なものは何もない。帳面と、地図と、湯の入った土瓶があるだけだ。
「……ずいぶん、殺風景じゃな」
「戦の陣にございますゆえ」
「他家の陣は、これほど殺風景ではないぞ」
家康は、土瓶を指した。
「あれは何じゃ」
「湯にございます。……水は、必ず煮立たせてから飲ませております」
男の眉が、わずかに動いた。
「なるほど。……そなたの陣から病人が出ぬ、というのはそれか」
俺は少し驚いた。
――見られている。
「一つ、いただけるか」
「はっ」
俺は湯呑みに白湯を注いで差し出した。
家康はそれを両手で受け取り、一口飲んで、息を吐いた。
「……うまい」
「――今日は、礼を言いに来た」
家康は、湯呑みを膝に置いて言った。
「北条美濃守のことじゃ」
俺は頭を下げた。
「――あれはな」
家康の声が、少し低くなった。
「わしが、まだ竹千代と呼ばれておった頃からの、知り合いでの」
俺は黙っていた。
「駿府におった。……人質じゃ」
男は、湯呑みの中を見ていた。
「六つで岡崎を出されて、織田に売られて、それから今川に引き取られて。……気づけば十九まで、他人の家におった」
――ああ。
俺は、少しだけ胸が痛んだ。
この人は、自分の家に居場所がなかった時期が、十三年ある。
「その駿府に、氏規もおった。あれも人質じゃ。……歳も近うてな。よう、二人で城の裏の川へ行った」
家康は、そこで少しだけ笑った。
「……あれから、五十年近うなる」
「――此度」
家康の声が、元に戻った。
「わしは、あれを助けてやれなんだ」
俺は顔を上げた。
「関白様の御下命で、北条を攻めておる。氏規は敵じゃ。……わしが『助けてくれ』などと申せば、徳川に二心ありと取られる」
男は、じっと湯呑みを見ていた。
「動けなんだ。……ただ、韮山が力攻めで落ちる報せを、待っておった」
――そうか。
この人は、旧友が死ぬのを、黙って待っていたのだ。
「そこへ、そなたが」
家康が顔を上げた。
「城兵三千五百、一人も殺さず。城下も焼かず。……氏規を、生かした」
そして、床几から降りた。
――え。
俺が反応するより早く、天下の大納言は、俺の陣幕の土の上に膝をついていた。
「大納言様!」
「礼を言う」
家康は頭を下げた。
「――この家康、終生、忘れぬ」
「お、お顔をお上げくだされ!」
俺は慌てた。本気で慌てた。
「某は五百石の小姓にございます。大納言様に頭を下げられるような身では――」
「身分の話をしておるのではない」
家康は顔を上げた。
「わしが助けられなんだ男を、そなたが助けた。それだけの話じゃ」
その目には、演技がなかった。
少なくとも、俺には見抜けなかった。
家康は床几に戻った。
俺は白湯を注ぎ足した。手が少し震えていて、また少しこぼれた。
「――一つ、聞いてよいか」
男が言った。
「なぜ、氏規を生かした。……あの首は、そなたの手柄をさらに大きくしたはずじゃ」
俺は答えた。
「焼けた田は、三年戻りませぬ。恨みは、もっと長く残ります」
家康の目が、細くなった。
「……そなた、伊豆を貰う気じゃな」
「貰えるものなら」
俺は正直に言った。
「ですが、まだ何も決まっておりませぬ」
――さて。
ここからだ。
俺は、腹の底に力を入れた。
この話を出すかどうか、三日考えていた。
出せば、この人に一生の借りを作らせることになる。出さなければ、俺はいずれ関白から「なぜ黙っていた」と問われるかもしれない。
どちらが危ないか。
(……出す)
「大納言様」
俺は言った。
「一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
「うむ」
「――江川英吉殿のご子息は、駿河におられます」
家康の顔から、表情が消えた。
完全に、消えた。
湯呑みを持つ手は、微動だにしなかった。
「……ほう」
声だけが返ってきた。
「某は、それを承知の上で、江川殿を生け捕りにいたしました。そして、その一事をもって、江川殿を降伏の使者に仕立てました」
俺は続けた。
「江川殿が動いたゆえ、美濃守様が城を開かれました」
家康は、何も言わなかった。
「――して」
やがて、男が言った。
声が、冷たかった。
「その話、関白様には」
「――申し上げておりませぬ」
空気が、止まった。
「今後も、申し上げるつもりはございません」
家康は、長いこと黙っていた。
俺は、その間、ずっと平伏していた。
背中に、じっとりと汗が伝っていた。
――これは、賭けだ。
この人が「脅す気か」と取れば、俺は今夜ここで死ぬかもしれない。
この人は、そういうことができる人だ。
「……なぜじゃ」
家康が言った。
俺は顔を上げた。
「二つございます」
俺は指を立てた。
「一つ。申し上げれば、江川殿が死にます。……江川の家がなくなれば、伊豆は治まりませぬ。某が困ります」
家康の眉が動いた。
「二つ」
俺は、まっすぐ男を見た。
「――申し上げれば、大納言様が困られます」
「……ふ」
家康の口から、息が漏れた。
「困る、か」
「はい」
「そなた、わしが困ると、そなたが得をするとは思わぬのか」
――来た。
これが本題だ。
俺は、迷わず答えた。
「思いませぬ」
「なぜ」
「大納言様が困られて、某に何の得がございましょう」
俺は言った。
「某は伊豆をいただけるかもしれぬ身にございます。伊豆の東は、箱根を挟んで相模。……大納言様と隣り合わせになるかもしれませぬ」
俺は頭を下げた。
「隣人と揉めて得をした者を、某は見たことがございません」
しばらく、幕の中は静かだった。
やがて、家康が低く笑った。
「――くく」
それから、腹の底から笑い出した。声を殺した、奇妙な笑い方だった。
「隣人、と申したか」
「はい」
「天下の大納言を捕まえて、隣人と」
俺は答えに窮した。
家康は笑いを収めると、湯呑みの残りを飲み干した。
「……よい。よいわ」
そして、こちらを見た。
「小出俊定。歳はいくつじゃ」
――今日は、よく歳を聞かれる日だ。
「十六にございます」
家康は、しばらく俺を見ていた。
その目は、もう笑っていなかった。
値踏みでもなかった。
――何か、別のものだった。
「そうか」
男は立ち上がった。
「……そなた、わしの若い頃に似ておる」
俺は顔を上げた。
「畏れ多うございます」
「褒めてはおらぬ」
家康は幕へ向かいながら言った。
「他人の顔色を読んで、腹の中を隠して、要らぬ揉め事を全部先回りして潰す。……そういう生き方は、身に悪い」
男は、幕の前で足を止めた。
「――わしは、それで胃を壊した」
俺は、思わず顔を上げた。
家康は、こちらを見ずに言った。
「そなた、腹は痛まぬか」
(……痛いです)
喉まで出かかった。
この一月、ずっと痛い。首を刎ねてから、ずっと。
「……大事ございません」
俺は答えた。
家康は、ふん、と鼻を鳴らした。
「嘘が下手じゃな」
幕をくぐる直前、男は振り返った。
「――俊定」
初めて、名を呼ばれた。
「はい」
「困ったことがあれば、わしのところへ参れ」
家康は言った。
「……隣人であろう」
*
闇の中へ、五つの影が消えていった。
俺は、その場にへたり込んだ。
(……生きてる)
全身から、汗が引いていくのが分かった。
賭けには勝った。
徳川家康に、一生返せない借りを一つ、作らせた。
(……いや)
俺は自分の胸を押さえた。
――借りを作らせた気になっているのは、俺の方かもしれない。
あの人は、たぶん、俺よりずっと先まで数えている。
俺は震える手で湯呑みを取って、白湯を飲んだ。
ぬるくなっていた。




