第十四話 早川の水
小田原の陣は、二十万の町だった。
石垣山の麓から見渡すと、平野一面に陣屋が並んでいる。
その一つ一つに、どこの誰が入っているかが決まっている。
俺は割り当ての図面を借りて、それを写した。
癖である。新しい現場に入ったら、まず全体の配置を頭に入れる。
筆を走らせているうちに、指が止まった。
早川の右岸。海に近い、低い土地。
そこに、こう書いてあった。
――堀左衛門督秀政。
背中が、冷たくなった。
堀秀政。
織田信長の側近から、秀吉の懐刀になった男。
「名人久太郎」と呼ばれた。軍事も、政務も、検地も、なんでもこなした。越前北ノ庄十八万石。
そして。
――この男は、小田原で死ぬ。
城好きが高じて、俺は戦国武将の生没を無駄に覚えている。
堀秀政は、小田原の陣中で病死する。享年三十八。
城が落ちる前だ。
だから「小田原征伐で活躍した」という話には、この人の名がほとんど出てこない。
(……いつだ)
俺は必死に思い出そうとした。
覚えていなかった。
日付までは、覚えていない。
だが、確か――梅雨の前だ。
俺は空を見上げた。
*
五月半ば。
伊豆の山には、もう雲が低く垂れ始めていた。
――で。
どうする。
俺は自分の陣幕に戻って、床几に座り込んだ。
堀秀政は十八万石の大大名で、関白の懐刀で、三十八歳である。
俺は五百石の小姓で、十六歳で、韮山を落としたばかりの新参だ。
その俺が、いきなり陣へ乗り込んで「水を沸かせ」と言う。
(……追い返されて終わりだ)
いや、それどころではない。無礼者として叩き出される。下手をすれば斬られる。
しかも、だ。
俺が「あなたはこのままだと死にます」と言えば――なぜ知っているのか、と必ず聞かれる。
答えられない。
俺は、帳面を開いた。
小田原に来てから、陣の配置と、誰が誰と近しいかを書き留めてある。
指で名前をなぞっていって、一つのところで止まった。
――脇坂中務少輔安治。
淡路洲本の三万石。賤ヶ岳の七本槍の一人。
そして、この陣で船手衆を預かっている。
海路の兵糧を回しているのは、この男だ。
(……接点は、ある)
京と大坂で三成の下について兵糧を回していたとき、船の割り付けで何度も揉めた。
揉めた相手の一つが、脇坂の家中だった。
しかも――脇坂の陣は、早川口にある。
堀秀政の、すぐ隣だ。
俺は、京から持ってきた最後の上等な酒を一樽、荷から引っ張り出した。
「祝いにでも使え」と三成が押し付けてきたものである。
(……使いどきだ)
脇坂安治は、意外にあっさり会ってくれた。
「おお、小出殿か! 韮山の!」
開口一番、それだった。
日に焼けた、がっしりした男である。三十半ば。声が大きい。海の男だ。
「四百で天ヶ岳を取ったと聞いたぞ。どうやった」
「――中務少輔様。まずは、こちらを」
俺は酒樽を差し出した。
「京の伏見の酒にございます。……船手のご一同で、お召し上がりくださいませ」
脇坂の眉が、ぴくりと動いた。
「……何が望みじゃ、若いの」
――やはり分かるか。
俺は畳に手をついて、深く頭を下げた。
「折り入って、中務少輔様のお知恵をお借りしたく参上いたしました」
「――お知恵、とな」
「はい」
俺は顔を上げた。
「某は、関白様より陣中の水と厠の差配を仰せつかっております」
「聞いておる。厠奉行であろう」
脇坂が、にやりとした。俺の渾名は、もうこの陣まで広まっているらしい。
「その厠奉行が、困っております」
俺は言った。
「船手衆の皆様は、海の上で長く過ごされます。……水が腐る。飯が傷む。真水は限られる。陸の陣より、よほど厳しい」
脇坂の顔から、笑いが引いた。
「――その中で、どうやって病を出さずに保っておられるのか。それを、お教えいただきたいのです」
これは、嘘ではない。
本当に聞きたいことだった。
水軍というのは、閉じた船の中で数十人が何日も過ごす。衛生の知恵が、必ず溜まっている。
そして――
人は、教えを乞われると、断りにくい。
自分が二十年かけて覚えたことを「教えてください」と若い者に頭を下げられて、突っぱねる職人を、俺は前世でほとんど見たことがない。
脇坂安治は、腕を組んで唸った。
「……ふむ。難しいことは考えておらんがな」
男は指を折り始めた。
「まず、水は港で汲まん。川を遡って、山の際で汲む。港の水は臭う」
「はい」
「樽は、使う前に湯で洗う。それと、船底の水は絶対に飲ません」
「――湯で洗う」
俺は身を乗り出した。
「なぜ、湯でございますか」
「そりゃあ……冷えた水で洗った樽は、すぐ臭くなるからよ」
脇坂は、あっさり言った。
「湯で洗った樽は、しばらく保つ。……昔から、船ではそうしておる」
――ある。
俺は内心で拳を握った。
この時代にも、経験則としてはあるのだ。
理屈は誰も知らない。だが「そうすると保つ」ということは、現場が知っている。
なら、話は早い。
「中務少輔様」
俺は言った。
「その知恵を、陸の陣でも使うべきかと存じます」
「陸で?」
「はい。……お隣の、堀左衛門督様の陣で、病が出ていると伺いました」
脇坂の顔が、曇った。
「……よう知っておるな」
「厠奉行にございますゆえ」
男は、深く息を吐いた。
「出ておる。……ひどい」
声が低くなった。
「腹を下して、水のようなものを出し続ける。それが止まらん。半日で見る影もなく痩せる。……もう五十人は倒れておる」
「……堀様ご自身は」
脇坂の目が、こちらを見た。
しばらく、答えがなかった。
「――熱が出ておられる」
俺は、床几から腰を浮かせた。
(――間に合わないかもしれない)
「中務少輔様!」
声が上ずった。
「お願いがございます。……某を、堀様の陣へお連れください」
「なんじゃ、いきなり」
「間に合わなくなります」
脇坂が眉をひそめた。
「間に合わぬ、とは」
「堀様が、亡くなられます」
言ってしまってから、しまったと思った。
だが、脇坂安治は笑わなかった。
この男は、海の上で人が死ぬのを何度も見ている。
「……根拠は」
低い声だった。
「三つ」
俺は指を立てた。
「一つ。早川の右岸は低地でございます。上流に二十万の陣があり、その糞尿が雨で流れ込みます」
「うむ」
「二つ。倒れているのは、川の水を飲んでいる陣ばかりでございます。……某の陣は、京を出てから一日も欠かさず湯を沸かしております。一人も倒れておりませぬ」
脇坂の目が、鋭くなった。
「三つ。梅雨が来ます」
俺は空を指した。
「雨が降れば、水が動きます。今の倍は倒れます」
脇坂安治は、しばらく黙っていた。
それから、突然立ち上がった。
「――船を出すぞ」
「は?」
「大鍋じゃ。船手の大鍋を全部下ろす。それと、水樽と、薪と」
男は幕の外へ怒鳴った。
「誰ぞ! 堀様の陣へ使いを出せ! 脇坂中務、火急の用にて罷り越すと!」
俺は呆気にとられた。
「……よろしいのですか」
「よいも悪いもあるか」
脇坂は俺を振り返った。
「堀左衛門督は、この陣の柱の一本ぞ。……あのお方が倒れたら、関白様がどれほど落胆なさるか」
男は、大股で歩き出した。
「それに、若いの」
振り返らずに言った。
「――わしは、船で病を出したことがある」
堀秀政の陣は、ひどい有様だった。
幕の外に、莚が並んでいた。その上に人が寝かされている。数え切れなかった。
臭いがした。汚物と、汗と、病の臭いだ。
厠は、陣屋のすぐ脇にあった。
しかも、その先が川へ流れていた。
――最悪だ。
自分の陣から出た糞尿が、下流で汲む水に混ざっている。
二十万のうちの、たった一つの陣が、自分で自分を殺している。
本陣の幕を上げると、男が床几に座っていた。
痩せた男だった。
顔は白く、額に汗が浮いている。
だが、背筋が伸びていた。
――この人が。
「……脇坂殿。火急とは」
声に、張りがなかった。
それでも、目だけは動いていた。俺の顔を、一度で捉えた。
「――そちらは」
「小出俊定と申します」
俺は平伏した。
「関白様より、陣中の水と厠の差配を仰せつかっております」
「――ああ」
堀秀政は、かすかに笑った。
「韮山の。……四百で天ヶ岳を取った小僧か」
「左衛門督様」
俺は顔を上げた。
時間がない。前置きを捨てた。
「――この陣の水を、今日から変えていただきたく存じます」
幕の中の空気が、張った。
堀の家臣たちが、色をなして立ち上がった。
「無礼であろう! 小姓風情が――」
「――待て」
止めたのは、秀政だった。
男は、額の汗を拭いもせずに、俺を見ていた。
「……申せ」
俺は、一息に言った。
「一つ。飲む水を、川から汲むのをおやめください。上流に二十万の陣がございます。谷の上、人の住まぬところから汲ませてくださいませ」
誰も遮らなかった。
「二つ。汲んだ水は、必ず大鍋で煮立たせてください。飯の水も、器を洗う水も、傷を洗う水も、すべてでございます。……器は、湯に入れて煮ていただきたい」
「三つ。厠を、今の場所から動かしてくださいませ。今のままでは、この陣の汚穢が、そのまま下流に流れております」
俺は指で床に線を引いた。
「川から離し、風下へ。深く掘って、用を足すごとに竈の灰をかけまする」
「――四つ」
俺は、ここで一度、頭を下げた。
これが一番、言いにくい。
「左衛門督様のお寝間を、今の場所から動かしていただきたく存じます」
家臣たちがざわめいた。
「なんじゃと。陣立てを変えよと申すか。軍法を何と心得ておる」
「陣立ては変えませぬ」
俺は言った。
「陣の内の、寝所だけにございます。今のお寝間は、川に近く、地面が湿っております。……そこから半町、南の高みへ。それだけでございます」
沈黙が落ちた。
堀秀政は、しばらく何も言わなかった。
やがて、掠れた声で聞いた。
「――なぜじゃ」
俺は、覚悟して答えた。
「……分かりませぬ」
家臣の一人が「貴様」と腰を浮かせた。
「分かりませぬ」
俺は繰り返した。
「水に何がおるのか。なぜ湯にすると人が死なぬのか。……某には、理屈が分かりませぬ」
俺は顔を上げた。
「ですが、そうなるのでございます」
「某の陣は、京を出てから一日も欠かさず湯を沸かしております」
声を張った。
「四百十六人。東海道を下って、伊豆で一月戦って、今日まで――腹を下した者が、一人もおりませぬ」
堀秀政の目が、動いた。
「一日も、欠かさずか」
「一日も」
男は、口の中で何かを繰り返した。
――一日も、欠かさず。
この人は、そこに食いついた。
俺は、それで分かった。
――理屈じゃない。
この人が信じたのは、目に見えぬ毒の話ではない。
四百人が、一月以上、一日も欠かさず同じことをやり続けて、一人も倒れていないという事実だ。
名人と呼ばれる人間は、理屈より先に、その手の数字を信じる。
堀秀政は、床几の肘掛けを掴んで、体を起こした。
「――藤井」
「はっ」
「今、聞いた通りにせよ」
家臣が息を呑んだ。
「し、しかし殿。この者は五百石の――」
「石高で水は沸かん」
秀政は、遮った。
「陣中の兵が五十人倒れておる。手当ての法は何一つ効いておらん。祈祷も薬も試した。……試しておらぬのは、これだけじゃ」
男は、俺を見た。
「試して損はあるか」
「ございません」
「うむ」
堀秀政は頷いた。
「――やる」
*
その日から、三日。
脇坂の船手が下ろした大鍋が、堀の陣で昼夜となく火にかけられた。
水汲みの隊が谷の上へ登り、厠が掘り直され、灰がかけられた。
器という器が、片端から湯に放り込まれた。
俺は自分の隊から三十人を出して、やり方を教えさせた。
うちの連中は、この一月半、毎日やっている。教えるのが一番早い。
四日目に、新たに倒れる者の数が減った。
六日目には、ほとんど止まった。
そして、堀秀政の熱が、下がった。
俺がその報せを聞いたのは、自分の陣で厠の穴を検分している最中だった。
脇坂の使いが、息を切らして駆けてきた。
「――堀様が! 堀様が、粥をお召し上がりになった!」
俺は、そのまま穴の縁にへたり込んだ。
(……間に合った)
*
それから数日後、堀秀政に呼ばれた。
まだ痩せてはいたが、床几に座って、目に光が戻っていた。
「――小出俊定」
「はっ」
「礼を言う」
男は、まっすぐこちらを見た。
「わしは、死ぬかと思うておった」
俺は頭を下げた。
「……いや」
秀政は、首を振った。
「死ぬと、分かっておった」
俺は顔を上げた。
「あの熱の出方は、前に何度か見ておる。陣で。……あれが出た者は、大抵、十日で死ぬ」
男は、自分の手を見た。骨の浮いた、痩せた手だった。
「そなたが来なんだら、わしは今ごろ、あの莚の上におる」
堀秀政は、それからしばらく黙っていた。
そして、こう言った。
「――小出。そなた、なぜ、わしの陣へ来た」
俺は答えた。
「厠奉行にございますゆえ」
「その答えは、二度目じゃな」
秀政は、目を細めた。
「……まあ、よい」
男は、追及しなかった。
「一つだけ、覚えておけ」
そして、こう言った。
「――わしは、そなたに借りがある」
自分の陣に戻って、俺は帳面を開いた。
書くことは、いくらでもあった。厠の位置。水汲みの人数。翌日の飯の数。
だが、筆が動かなかった。
(……変えた)
俺は、それを考えていた。
韮山で城を落としたのは、まだいい。あれは戦だ。誰が落とすかが変わっただけで、いずれ落ちる城だった。
だが、今日は違う。
死ぬはずだった人間が、生きている。
俺の知っている歴史では、堀秀政は今年の五月に小田原で死ぬ。
その男が、今、粥を食っている。
(……これで、何が変わる)
分からなかった。
この人が生きていれば、この先の何かが変わる。
どこかで、誰かの生き死にが入れ替わる。
俺には、その先が読めない。
俺は筆を置いて、天を仰いだ。
(……いや)
考えても仕方がない、と思った。
目の前で人が死にかけていて、止める方法を知っていて、それをやらない理由が、俺には一つも思いつかなかった。
それだけだ。
――ただ。
後になって思い返せば、このとき俺は、一つだけ見落としていた。
堀秀政の熱は下がった。粥も食えるようになった。
だが、あの人の体は、元には戻らなかった。
立って歩けるようになるまでに、ひと月かかった。
馬に乗れるようになったのは、小田原が落ちた後だった。
俺が救ったのは、あの夏の病だけだ。
削られたものは、戻らない。
――それを俺が思い知るのは、まだ二年ほど先の話である。




