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第十五話 暇な陣中

 小田原の陣は、退屈だった。

 これは、比喩ではない。

 六月に入っても、誰も攻めなかった。

 小田原城は総構えで囲まれていて、力攻めをすれば何万人死ぬか分からない。だから関白は攻めない。

 ただ、囲んでいる。

 二十万で、囲み続けている。

 その結果、何が起きたか。

 ――町ができた。

 街道沿いに市が立った。小田原まで米や酒や布を運んでくる商人がいて、そいつらが陣の外れで店を開いた。

 湯屋ができた。芝居小屋ができた。女を置く小屋もできた(あれは何度も追い立てられていたが、追い立てるたびに場所を変えて復活していた)。

 諸大名は、京から妻子を呼び寄せた。

 これは冗談ではない。本当に呼んでいる。

 陣屋の奥から、子供の泣き声が聞こえてくる陣がいくつもあった。

 そして毎日、どこかで茶会が開かれていた。

 俺は、それを遠くから眺めていた。

 (……これは、戦じゃない)

 俺は思った。

 (現場だ)

 しかも、たちの悪い現場だ。

 ――工期未定の現場。

 前世で、俺はこれを何度もやった。

 役所の認可待ちで止まった現場。施主の金繰りが詰まって止まった現場。近隣との協議が長引いて止まった現場。

 あれが、一番人を腐らせる。

 やることがない。だが帰れない。いつ終わるかも分からない。

 そうなると、人間は必ず、同じ壊れ方をする。

 酒を飲む。博打をする。喧嘩をする。よその現場のものを盗む。

 そして――規律が、音を立てて崩れる。

 現に、崩れていた。

 六月の頭に、隣の陣の足軽が二人、俺の隊の水汲み場を荒らした。

 その次の週には、街道で百姓が殴られたという話が入ってきた。

 関白の禁令はある。「乱取り(略奪)を禁ず」と、口を酸っぱくして出ている。

 だが、二十万を全部は見張れない。

 俺は、自分の四百十六人を集めた。

「――今日から、普請をする」

 全員が、ぽかんとした。

「殿、普請とは。……城でも建てまするか」

 岩室弥七が聞いた。

「道だ」

 俺は指を差した。

「うちの陣から早川の水汲み場まで、雨のたびにぬかるむ。あれを直す。砂利を入れて、両脇に溝を掘って、水を逃がす」

 誰かが、露骨に嫌な顔をした。

「……戦は」

「まだしない」

「では、なにゆえ道を」

 俺は答えた。

「暇だからだ」

 これは、半分だけ本当のことである。

 残り半分は、口に出さなかった。

 ――暇な兵は、必ず悪さをする。

 訓練でもいい。だが、訓練は身体が疲れるだけで、頭が疲れない。

 頭が空いていると、余計なことを考える。

 普請は違う。

 寸法を測る。土を運ぶ。傾きを見る。終わりに、目に見えるものが残る。

 そして何より――手を動かした分だけ、飯がうまくなる。

 前世で、俺は現場が止まったときに部下を遊ばせて、ひどい目に遭ったことがある。

 二度と、やらない。

 佐田新九郎が、手を挙げた。

 河原で拾った、算術のできる若造である。

「殿。……道を直せば、うちの陣は得をいたしますか」

「する」

 俺は即答した。

「水汲みが早くなる。飯が早く炊ける。雨の日に足を取られて足首を挫く者が減る。……足を挫いた男は、戦の日に走れん」

 俺は続けた。

「それから、隣の陣もうちの道を使うようになる」

「それは……損では」

「得だ」

 俺は言った。

「うちの道を毎日使う陣が、うちの水汲み場を荒らすと思うか」

 新九郎が、口を開けた。

 それから、すごい勢いで帳面に何か書き始めた。

 ――で。

 道はできた。

 三日で、砂利を敷いた真っ直ぐな道が、陣から水汲み場まで通った。両脇に溝を切って、雨が降っても水が抜けるようにした。

 四日目に、隣の陣の連中が使い始めた。

 五日目に、その隣も使い始めた。

 六日目に、隣の陣の足軽組頭が酒を一升持ってきて、「先日は、うちの者が水場で無礼を働いたそうで」と頭を下げた。

 俺は酒を受け取って、笑って返した。

 (……ほらな)

 人間関係の九割は、動線で決まる。


          *


 その頃、俺は一度だけ、遠くから淀の方を見た。

 石垣山の普請場へ荷を届けに上がったときだ。

 輿が下りてきて、道を空けさせられた。

 俺は他の連中と一緒に道端に膝をついた。

 輿の簾が、風で少し動いた。

 白い横顔が、一瞬だけ見えた。

 ――浅井の娘。

 俺は、地面を見たまま考えた。

 この人が誰で、この先どうなるかは、知っている。

 二十五年後、大坂の城が焼けるとき、山里丸で息子と一緒に死ぬ女だ。

 (……遠いな)

 俺は思った。

 俺は五百石の小姓で、あの人は関白の側室だ。

 顔を上げることすら許されない。

 (今は、俺には関係がない)

 輿が行ってしまってから、俺は立ち上がって、埃を払った。

 そう思っておくのが、一番いい。

 手の届かないものを数えても、腹が減るだけだ。


          *


 六月の半ば。

 俺の陣に、輿が来た。

 ――輿である。馬ではない。

 俺は帳面を投げ出して駆け出した。

「――左衛門督様!」

 輿から下りてきたのは、堀秀政だった。

 家臣二人に肩を借りていた。

 まだ、痩せていた。

「よい。……騒ぐな」

 男は手を上げた。

「歩けるようになったのでな。……歩けるうちに、来ておこうと思うた」

 俺は床几を出し、日陰を作らせ、白湯を出した。

 堀秀政は白湯を飲んで、目を細めた。

「……この湯を飲むと、生き返った日を思い出すわ」

 それから、後ろを振り返った。

「――秀治。前へ出よ」

 少年が、進み出た。

 背は、俺と同じくらいだった。

 顔立ちは父に似ている。だが、目つきが違った。

 ――固い。

 真面目そうな、固い目をしていた。

「――堀左衛門督が嫡男、久太郎秀治にございます」

 そう名乗って、深く頭を下げた。

 所作が、綺麗だった。綺麗すぎた。

 教えられた通りを、寸分違えずやっている。

「小出俊定にございます」

 俺も頭を下げた。

「……歳は」

「十五にございます」

 二つ下か。

 その後ろから、もう一人が進み出た。

 四十半ばの、恰幅のいい男である。目が、恐ろしく良かった。

「――堀監物直政にござる」

 俺は、内心で背筋を伸ばした。

 堀直政。

 主家の堀家を、実質的に切り盛りしている家老だ。

 後の世で「天下の三陪臣」と呼ばれる。陪臣――つまり家臣の家臣でありながら、天下に名の通った男。

「小出俊定にございます」

 直政は、俺をじっと見た。

 値踏みされている、と思った。

 だが、不快ではなかった。この目は、仕事の目だ。

「……水の一件、家中一同、御礼の申しようもござらぬ」

 男は、深く頭を下げた。

「殿がおられねば、堀家は終わっておりました」

「――さて」

 堀秀政が、白湯の椀を置いた。

「小出。今日は、頼みがあって参った」

「はっ」

「――この、頼りない倅と、仲良うしてやってくれぬか」

 俺は、顔を上げた。

 秀治が、びくりと肩を震わせたのが見えた。

 ――ああ。

 いつも言われているんだな、と思った。

「なにを申されます」

 俺は言った。

「某こそ、まだ何一つ持たぬ身にございます」

「持たぬ者が、韮山を落とすか」

 秀政が笑った。

「よいか、小出。……戦は、いずれ終わる」

 男の声が、少し変わった。

「終わった後に残るのは、誰と誰が繋がっておるか、それだけよ」

 俺は、この人が何を言っているのかを、正確に理解した。

 ――これは、遺言の準備だ。

 この人は、自分の身体を分かっている。

 熱は下がった。粥も食えるようになった。

 だが、輿で来た。馬に乗れない。三十八の男が、家臣に肩を借りて歩いている。

 (……この人は、自分がもう長くないかもしれないと思っている)

 俺は、それに気づいてしまった。

 俺は、堀秀治を見た。

 少年は、下を向いていた。

 膝の上で、拳を握っていた。

 ――「頼りない倅」と、父の恩人の前で言われて。

 (……この子は)

 俺は思った。

 (頼りないんじゃない)

 この子は、たぶん、真面目すぎるだけだ。

 父親が「名人」と呼ばれる男で、家老が天下の三陪臣で、周りの全員が自分より仕事ができる。

 その中で、間違えないことだけを覚えた。

 所作が綺麗すぎる。

 あれは、叱られないための綺麗さだ。

 ――俺は、この顔を知っている。

 実家にいた頃、俺がしていた顔だ。

「――左衛門督様」

 俺は言った。

「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」

「うむ」

「久太郎殿は、間違えたことがございますか」

 堀秀政が、きょとんとした。

「……なんじゃと」

「大きな失敗を、なさったことがおありでしょうか」

 秀政は、考え込んだ。

「……いや。ない、な」

 男は言った。

「これは、しくじらん。言われたことは、寸分違えずやる。……そこは、感心しておる」

「では」

 俺は言った。

「頼りないのではのうて、まだ一度も、転ばせてもらっておられぬだけかと存じます」

 幕の中が、静かになった。

 堀秀治が、顔を上げた。

 俺と目が合った。

 ――怒られると思っている顔だ。

「小出殿」

 堀直政の声が、鋭く飛んだ。

「言葉が過ぎましょう」

「監物」

 止めたのは、秀政だった。

 男は、俺を見ていた。

 それから、ゆっくりと自分の息子を見た。

「……ふむ」

「――久太郎」

「は、はい」

「明日から、小出の陣へ通え」

 秀治が、目を丸くした。

「え」

「厠を掘れ。水を汲め。道を直せ。……この者がやっておることを、全部やってみよ」

「ち、父上――」

「小出」

 秀政が、俺を見た。

「――転ばせてやってくれ」

 俺は平伏した。

「……畏まりました」

 言ってしまってから、腹の底が重くなった。

 これは、預かる、ということだ。

 人の家の跡取りを、預かる。

 この子が怪我をすれば俺の責任だし、この子が育たなければ俺の落ち度になる。

 (……胃が痛い)

 だが、断る理由が思いつかなかった。

 輿を見送りながら、俺の隣で岩室弥七がぼそりと言った。

「殿。……お人好しにも程がございますぞ」

「うるさい」

「あの若様、明日から毎日来られるので」

「来る」

「うちの厠は、ただでさえ手が足りませぬ」

 俺は弥七を見た。

「――手が増えるじゃないか」

 弥七が、いい顔で笑った。


          *


 その晩、俺は帳面に一行だけ書いた。

 ――堀久太郎秀治。十五。預かる。

 筆を置いて、しばらくそれを見ていた。

 (……この子が、いつか、これを覚えていてくれればいい)

 俺は、ろうそくを消した。


          *


 翌朝。

 夜が明ける前に、陣の外で誰かが立っているのが見えた。

 堀秀治だった。

 供も連れず、木綿の小袖に襷をかけて、鍬を担いで立っていた。

 まだ、暗かった。

「……早いな」

 俺が言うと、少年は緊張した顔で頭を下げた。

「一番に参らねば、と思いまして」

 ――ああ、これだ。

 俺は笑ってしまった。

「久太郎殿」

「はい」

「今日から、一番には来なくていい」

 少年が、きょとんとした。

「早く来ても、飯が炊けておらん。腹が減った男は、昼までもたん」

 俺は鍬を受け取ってやった。

「――まず、飯を食え」


          *


 その日から、俺の陣に一人増えた。

 そして三日後、石垣山から使いが来た。

 ――普請場へ出よ、との関白様のお声掛かりにござる。

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