第十六話 一夜城
笠懸山を登りながら、俺は妙な気分になっていた。
石垣山城。
前世で、一度だけ来たことがある。
小田原からタクシーで上がって、駐車場に車を停めて、藪の中の遊歩道を歩いた。
石垣が崩れかけたまま残っていて、井戸曲輪の底に水が溜まっていて、蚊がひどかった。
説明板を読んで、うろついて、二時間ほどで帰った。
(……その場所を、今、登っている)
石垣は崩れていなかった。
積まれている最中だった。
登り道は、道になっていなかった。
斜面を削って、丸太を横に渡して段にしただけの、急な坂だ。
そこを、石を載せた修羅が引き上げられていく。人夫が十人がかりで綱を引き、掛け声を合わせている。
道の脇に材木が積んである。竹が積んである。俵が積んである。
置き場が分けられていて、荷が混ざっていない。
(……やっぱり、段取りはいい)
俺は感心した。
これだけの数の資材を、これだけの傾斜の上へ、順番に上げている。
これは、素人にはできない。
だが。
――人が、遅い。
俺は足を止めた。
修羅を引く人夫の足取りが、重い。
綱を引いては、休む。引いては、休む。
休みの間隔が、明らかに短くなっていた。
山上に着くと、そこは平らに削られていた。
曲輪の形が、もう出来ていた。
その縁に、石垣が立ち上がりつつあった。
俺は、思わず立ち止まった。
――野面積みだ。
自然石を、そのまま積んでいる。切っていない。
大きさも形もばらばらの石が、噛み合って、面を作っている。
石工が、石を持ち上げて、置いて、外して、向きを変えて、また置いていた。
(……見てる)
俺は、口の中で呟いた。
(俺は、石垣が積まれるところを、見てる)
四百年後に藪の中で崩れかけていたあの石垣が、今、目の前で組み上げられている。
どの石をどこに置くか、髭の生えた男が黙って決めている。
(……最高だ)
俺は、危うく涙が出そうになった。
城好きの前世を四十年やって、こんな役得があるとは思わなかった。
「――小出俊定か」
声を掛けられて、俺は我に返った。
肩衣をつけた、五十がらみの男が立っていた。目の下に濃い隈がある。
普請奉行だった。
「はっ」
「早川口の病を止めたと聞いた」
「……差し出がましいことをいたしました」
「差し出がましくてよい」
男は、疲れ切った声で言った。
「――人夫が、減っておる」
数字を聞いた。
動員は、延べ四万。
常時、山にいるのが一万五千前後。
それが、この十日で二千近く減っていた。
内訳を聞いて、俺は眉をひそめた。
「病で伏せっている者が、八百」
「逃げた者が、千二百」
俺は顔を上げた。
「――逃げた方が、多いのでございますか」
「多い」
奉行は吐き捨てた。
「近在から集めた百姓じゃ。夜のうちに山を下りて、そのまま帰りおる」
「捕らえて、罰しておられますか」
「罰しておる。……罰しても、逃げる」
(――ああ、それは)
俺は、内心で頷いた。
罰で止まる逃亡なら、とっくに止まっている。
止まらないということは、罰より、ここにいる方が辛いということだ。
「奉行様」
俺は聞いた。
「人夫は、一日に何刻働きますか」
「明け六つから暮れ六つ。……足りぬときは、松明を焚いて夜も」
「飯は」
「朝と夕の二度じゃ」
「――水は」
奉行が、うんざりした顔をした。
「それよ」
男は、山の下を指した。
「山の上には水がない。谷まで下りて汲ませておる。……往復で、二刻」
俺は、頭の中で数えた。
一万五千人が、一日に飲む水。
それを、往復二刻の谷から、桶で運び上げている。
水汲みに割いている人数を聞いた。
千五百人だという。
――十人に一人が、水汲みだけをやっている。
しかも、その水は。
「谷のどこで汲んでおられますか」
「早川の……上流の、沢じゃ」
「その沢の上に、陣はございますか」
奉行が、黙った。
俺は、その場に膝をついて、地面に指で図を描いた。
「奉行様。……お聞きください」
「うむ」
「この普請場が抱えている厄介ごとは、三つに見えて、一つでございます」
俺は指を三本立てた。
「一つ、病人が出る。二つ、人夫が逃げる。三つ、工期が延びる」
そして、その三本を一本にまとめた。
「――すべて、水でございます」
俺は説明した。
「水が山の上にないゆえ、千五百人が水汲みに取られております。この千五百は、石を一つも積みませぬ。働き手の十人に一人が、工事をしておらぬということでございます」
「うむ」
「汲んでくる水は、陣の下流の沢のものでございます。ゆえに、飲んだ者が腹を下す。八百人が伏せております」
「うむ」
「そして――山を下りた者は、そのまま帰れます」
奉行が、顔を上げた。
「毎日、千五百人が、山を下りる用を与えられております。……逃げるなという方が、無理でございましょう」
奉行は、しばらく口を開けていた。
それから、額を押さえた。
「……気づかなんだ」
「気づけませぬ」
俺は言った。これは本心である。
「奉行様は、石垣と櫓と工期を見ておられます。それが奉行様のお仕事でございます。……水汲みは、下の下の仕事にございますゆえ」
俺は頭を下げた。
「某は、厠と水しか任されておりませぬ。だから、そこしか見ておりませぬ」
「――して」
奉行が身を乗り出した。
「どうする」
「二つ、お願いがございます」
俺は指を立てた。
「一つ。汲む場所を、沢のもっと上へ移してくださいませ。人の陣より上へ。……それと、汲んだ水は必ず煮立たせること」
「よし」
「二つ」
俺は、山上を指した。
「――井戸曲輪の掘削を、一番先にやってくださいませ」
「――待たれよ」
横から、太い声が飛んだ。
振り向くと、髭の男が立っていた。
さっき、石の向きを決めていた男である。
背は低い。だが腕が丸太のようだった。
「――穴太の、粟田市兵衛にござる」
男は名乗った。
俺は、内心で「うわ」と言った。
穴太衆。近江の石工集団。
この国の石垣を積んできた連中の、本家本元だ。
「井戸曲輪は、後回しと決まっておる」
粟田市兵衛は、地面を指した。
「あれは深う掘る。掘った土を上げねばならん。人が要る。……その人を先に井戸へ回せば、石垣が止まる」
男は俺を睨んだ。
「関白様は六月中に城を見せると仰せじゃ。石垣が止まれば、城にならん」
――正論だ。
完璧な正論である。
この人は間違っていない。工期の一番の隘路が石垣なら、石垣に人を集めるのが定石だ。
俺は、前世でこの手の議論を、たぶん千回やった。
だから、答えは決まっている。
「粟田殿」
俺は頭を下げた。
「――某は、石の積み方を存じません」
男の眉が動いた。
「野面の目利きも、飼石の入れようも、一つも分かりませぬ。今日、初めて見ました」
俺は顔を上げた。
「ですが、一つだけ存じております」
「――人が減れば、石は積み上がりませぬ」
俺は続けた。
「この十日で、二千減りました。次の十日で、また二千減ります。梅雨に入れば、病はもっと出ます。三千かもしれませぬ」
俺は指を折った。
「石垣に人を張り付けたまま二十日進めば、月末には人夫が一万を切っておりましょう。……その一万で、残りの石垣が積み上がりますか」
粟田市兵衛が、黙った。
「井戸に人を割けば、五日ほど石垣は遅れましょう。……ですが、水が上がれば、水汲みの千五百がそっくり手空きになります」
俺は言った。
「五日を捨てて、千五百を買います」
長い、沈黙があった。
石工の頭は、俺の顔をじろじろ見ていた。
やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「……小僧」
「はっ」
「歳は」
「十六にございます」
「ふん」
男は、山の上を見た。
「――十六の言うことじゃねえな」
粟田市兵衛は、奉行を振り返った。
「奉行様。……この小僧の申す通りにいたしましょう」
奉行が、目を見開いた。
「粟田、よいのか」
「よかござんせん」
男は、渋い顔のまま言った。
「石垣が五日遅れるのは、腹が立ちまさぁ。……ですが」
石工は、俺を指した。
「こいつは、うちの若いのが減るのを心配しとる」
男は、初めて少しだけ笑った。
「……そういう奴の言うことを聞かんと、後で碌なことになりません」
*
その日から、俺は普請場に張り付いた。
やったことは、地味である。
一つ。井戸曲輪の掘削に三千人を回した。掘った土は、そのまま曲輪の盛土に使わせた(捨てる土を運ぶな。使え)。
二つ。沢の採水地点を半里上げた。大鍋を二十据えて、昼夜煮立てさせた。
三つ。人夫を三つの組に分けて、休みを回した。ぶっ通しで働かせるのをやめさせた。
――これで奉行に食ってかかられた。「働く刻が減るではないか」
俺は答えた。「疲れた男は、石を落とします。石を落とせば人が死にます。人が死ねば、その日は仕事になりませぬ」
実際、その前の月に石の落下で三人死んでいた。奉行は黙った。
四つ。厠を掘り直した。これは俺の本職である。
五つ。帳面をつけさせた。
五つ目が、一番効いた。
俺は、山上を工区に分けた。
本丸の石垣、二の丸の石垣、井戸曲輪、櫓の木組み、道の普請、荷揚げ。
そのそれぞれについて、毎日、三つの数字を書かせた。
――今日、何人が入ったか。今日、どこまで進んだか。明日、何が足りぬか。
佐田新九郎と、堀秀治にやらせた。
二人は毎日、朝と夕に工区を回って、数字を集めた。
*
「――殿」
三日目の夕方、新九郎が帳面を持って走ってきた。
「荷揚げが、詰まっております」
「どこだ」
「中腹の、曲がり角にございます。……朝、修羅が四つ。昼は七つ。夕は十一つ、待っておりました」
俺は帳面を覗き込んだ。
「日に日に増えとるな」
「はい」
「なぜ増える」
新九郎は、少し考えた。
「……上で使う分より、下から上げる分の方が、多うございます」
「そうだ」
俺は言った。
「上げすぎだ。中腹に荷が溜まって、道を塞いでおる」
――どこの現場にもある話だ。
資材を早めに手配しすぎて、置き場がなくなって、今度は資材が動線を潰す。
「新九郎。荷揚げの数を、上の使う数に合わせろ。……上が食う分だけ上げる」
「はっ」
「それから、中腹に置き場を切れ。曲がり角の外側だ。修羅を待たせるなら、道の外で待たせろ」
*
翌々日、荷揚げの待ちが、ゼロになった。
その報告を持ってきたのは、堀秀治だった。
顔が、泥だらけだった。
朝から中腹に張り付いて、修羅を数えていたらしい。
「……小出殿」
少年が言った。
「詰まりが、消えました」
「うむ」
「石は、一つも増やしておりませぬ。人も増やしておりませぬ」
秀治は、自分の帳面を見ていた。
「なのに、上がる石が増えました」
俺は、その顔を見て、少し嬉しくなった。
(――気づいたな)
「久太郎殿」
「はい」
「今、あなたが見たものが、普請の一番大事なところです」
俺は言った。
「石を運ぶ力でもなく、積む腕でもない。……流れが、どこで詰まっているか。それを見つけて、そこだけ直す」
少年が、顔を上げた。
「詰まりを直すのは、たいてい、新しく何かを増やすことではありません。順番を変えるか、置き場を作るか、それだけです」
俺は、山を指した。
「そして、それは、帳面をつけねば見えません」
堀秀治は、その場で膝をついた。
「――小出殿」
「なんです」
「……某は、これまで、人に指図をしたことが一度もございませなんだ」
少年の声が震えていた。
「父上も、監物も、皆、某より遥かにできまする。某が何か申せば、間違うと思うておりました」
秀治は、泥だらけの帳面を握りしめていた。
「されど、今日、某が『置き場を切りませぬか』と申しましたら……人足の頭が、その通りにいたしました」
俺は、少しの間、何も言わなかった。
(……ああ)
この子は、生まれて初めて、自分の言葉で人を動かしたのだ。
十五で。名人の息子で。
俺は、その頭に手を置きたくなったが、やめておいた。
それは、たぶん、この子には要らない。
代わりに、こう言った。
「久太郎殿。明日は、荷揚げをあなたに任せます」
秀治が、跳ね上がった。
「そ、某に――」
「間違えてください」
俺は言った。
「間違えたら、某が謝りに行きます。……そのために、某がおります」
*
六月二十六日。
その日の朝、山上に集まった全員に、命が下った。
――山の木を、伐り倒せ。
これが、この城の仕掛けだった。
笠懸山の木は、着工から一本も伐られていない。
城は、木立の中で組み上げられてきた。
小田原城からは、山の上で何かをしているのは分かっても、それが何かは見えない。
――今日まで。
俺は、山の縁に立っていた。
斧が入る音が、あちこちで響いた。
伐り倒された木が、斜面を滑り落ちていった。
一本、また一本。
やがて、視界が抜けた。
――小田原が、見えた。
真下に、総構えが横たわっていた。
堀と土塁で囲まれた、巨大な町。三か月、誰も落とせなかった城。
その城の、櫓の上に、人がいるのが見えた。
こちらを、見上げていた。
俺は、振り返った。
背後に、白い城が立っていた。
白漆喰の壁が、朝日を反射していた。
総石垣の上に、櫓と天守が乗っていた。
――昨日まで、そこには山があった。
小田原の城兵の目には、そう映るはずだった。
*
その日、小田原城から鬨の声は上がらなかった。
矢も、鉄砲も、飛んでこなかった。
ただ、静かだった。
俺は、その静けさを聞きながら、少し寒くなった。
(……これは、ひどいな)
城を建てて、見せる。それだけだ。
誰も殺していない。一発も撃っていない。
だが、これで――向こうの心が、折れた。
隣で、粟田市兵衛が煙管をふかしていた。
石工の頭は、ぼそりと言った。
「……小僧」
「はい」
「石ってなあ、こわいもんだな」
「――はい」
俺は答えた。
(普請は、武器だ)
俺は、生まれて初めて、それをはっきりと理解した。
*
その夕方、俺は普請場の隅で帳面をつけていた。
最終の出来高を締めて、明日の人繰りを書いていた。
ふと、視線を感じて顔を上げると、男が一人、こちらを覗き込んでいた。
三十半ば。細い体。町人のような、柔らかい顔つき。
だが、着ているものは軍装だった。
男は、俺の帳面を、食い入るように見ていた。
そして、遠慮のかけらもない口調で、こう言った。
「――なあ、あんた」
上方の訛りだった。
「それ、なんでおますか」




