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第十七話 複式簿記

「――それ、なんでおますか」

 男は、そう言った。

 名乗りもしない。挨拶もしない。

 俺の帳面を、上から覗き込んで、それだけ言った。

 俺は、この男の身なりを見た。

 軍装である。だが上等だ。仕立てが違う。

 草鞋も、脛当も、下人が使うものではない。

 (……偉い人だ)

 俺は帳面を閉じて、その場に膝をついた。

「――失礼をいたしました。小出俊定と申します」

「あー、堅い堅い」

 男は手を振った。

「ええから、それ見せてくれまへんか」

 そこへ、粟田市兵衛が戻ってきた。

 石工の頭は、男を見るなり、慌てて煙管を落とした。

「――こ、これは摂津守様!」

 俺は、固まった。

 摂津守。

 この陣にいる摂津守は、一人しかいない。

 ――小西摂津守行長。

 肥後宇土、二十四万石。

 堺の薬種商の倅から、秀吉に取り立てられて大名になった男。舟奉行として、この征伐では下田の城を落としている。

 (……なんで、こんなところにいるんだ)

 二十四万石の大名が、普請場の隅で、五百石の小僧の帳面を覗き込んでいる。

「粟田はん、久しぶりやなあ」

 小西行長は、あっさり言った。

「石垣、上手いこといっとりまっか」

「へ、へえ。おかげさまで」

「そら結構」

 男は、俺に向き直った。

 顔が、柔らかい。武将の顔ではなかった。

 ――だが、目だけが、そろばんの珠みたいに冷たかった。

「小出はん、言うたな」

「はっ」

「わし、軍監やっとりましてな。この普請場の入り用の割り符も、わしのとこ通っとります」

 行長は言った。

「――あんたのとこの帳面だけ、様子がおかしい」

 俺は、内心で「うわ」と言った。

 (見られてる)

 俺は、自分の隊と、任された工区の帳面を、前世のやり方で書いている。

 誰にも見せていない。見せる相手がいなかったからだ。

 だが、割り符と帳面は、当然ながら奉行を通って、この人のところへ行く。

 (……まずいか?)

 俺は素早く考えた。

 まずくは、ない。

 不正はしていない。むしろ、この帳面は不正ができないように書いてある。

 (なら、隠す理由はないな)

 俺は、帳面を開いて差し出した。

「――どうぞ、御覧くださいませ」

 小西行長は、床几に腰を下ろして、それを膝に載せた。

 そして、黙り込んだ。

 長かった。

 俺は、その間、ずっと横に控えていた。

 行長は、頁を戻したり、進めたりしながら、指で数字をなぞっていた。

 時々、口の中で何かを呟いた。

 やがて、顔を上げた。

「……小出はん」

 声が、変わっていた。

「これ、左と右で、数が合うてますな」

「はい」

「頁の終いで、必ず合うてる」

「はい」

「――なんでや」

 俺は、床几を勧められて、隣に座った。

 地面に、指で線を引いた。

「摂津守様。……お尋ねしてよろしゅうございますか」

「なんでも聞きなはれ」

「大福帳では、銀が動いたとき、どのように書かれますか」

「そら、書きますがな。銀十貫、出、と」

「何のために出たか、は」

「そら、脇に書いときます。米を買うた、とか」

「――では」

 俺は聞いた。

「ひと月の終いに、銀が三十貫減っておったとして。……その三十貫が、どこへ行ったか、一目で分かりますか」

 小西行長が、黙った。

 俺は続けた。

「脇書きを、一つずつ全部読み返せば、分かります。……ですが、読み返さねば分かりませぬ」

 男は、苦い顔をした。

「……分かりまへんな」

「そして、もう一つ」

 俺は指を二本立てた。

「その三十貫のうち、まだ手元にあるものと、本当に消えたものが、混ざっております」

「――混ざっとる?」

「はい」

 俺は、地面に二つの絵を描いた。

「たとえば、銀十貫で米を買ったといたします」

「うむ」

「大福帳では『銀十貫、出』でございます。……ですが、この家は、貧しくなっておりますか」

 行長の眉が、上がった。

「……なっとらん」

「そうでございます」

 俺は言った。

「銀が米になっただけでございます。形が変わっただけで、持っているものの総量は変わっておりませぬ」

 俺は、次の絵を描いた。

「では、その米を兵が食ったといたします」

「……減ったな」

「これは、本当に減っております。戻りませぬ」

 俺は、二つを並べた。

「大福帳では、どちらも『出』でございます。……ですが、この二つは、まるで違うものでございます」

 小西行長は、地面の絵を睨んでいた。

 その額に、汗が浮いていた。

「――そや」

 男が、掠れた声で言った。

「そやから、わし、いつも分からんかったんや」

 行長は、自分の膝を叩いた。

「肥後で、去年、蔵に銀がのうなったことがおましてな。誰ぞが盗んだんか、それとも普通に使うたんか、どっちや分からへん。……帳面見ても、分からへんのですわ」

 男は俺を見た。

「あんたの帳面は、分かるんか」

「――分かります」

 俺は、帳面を開いた。

「やり方は、一つだけでございます」

 俺は言った。

「一つの動きを、必ず二度書きます」

「二度?」

「はい。……左と右に、一度ずつ」

 俺は、地面に線を一本引いて、左右に分けた。

「先ほどの、銀十貫で米を買った件。……左に『米、十貫分、増』。右に『銀、十貫、減』と書きます」

「ふむ」

「次に、その米を兵が食った件。……左に『兵糧の入り用、十貫』。右に『米、十貫分、減』」

 俺は指で追った。

「摂津守様。……左の列を御覧ください」

「一度目の左は『米が増えた』。二度目の左は『入り用として消えた』」

 俺は言った。

「――左を見れば、その銀が、今どうなっているかが分かります」

 行長の目が、見開かれた。

「まだ手元にあるのか、それとも本当に消えたのか。……左が、それを言うております」

「――ほな、右は」

「右は、どこから出たかでございます」

 俺は言った。

「銀から出たのか、米から出たのか、借りたものから出たのか。……金の出どころでございます」

「そして」

 俺は、ここで一拍置いた。

 これが、一番効く。

「左の合計と、右の合計は、必ず等しくなります」

「……なんでや」

「一つの動きを、必ず両方に書いておりますゆえ」

 俺は言った。

「一度も欠かさず、両方に書けば――帳面全体で、左と右は、必ず同じ数になります」

 行長が、頁の終いを指した。

「そやから、ここが合うとるんか」

「はい」

「――で、摂津守様」

 俺は、男の目を見た。

「もし、合わなかったら、どうなると思われますか」

 小西行長は、動かなくなった。

 しばらくして、その顔から血の気が引いた。

「……書き落としか」

「はい」

「……もしくは」

 男の声が、低くなった。

「――誰ぞが、嘘をついとる」

「そうでございます」

 俺は頷いた。

「合わぬときは、必ず、どこかで誰かが数字を触っております。……探せば、必ず出ます」

 小西行長は、床几から立ち上がった。

 そして、二、三歩歩いて、また戻ってきた。

 落ち着かないらしい。

「小出はん」

「はっ」

「これ、誰から教わりましたんや」

 ――来た。

 俺は、用意しておいた答えを出した。

「……堺の商人にございます」

 行長が、ぴたりと止まった。

「堺の、誰でおます」

「名は、存じませぬ」

 俺は言った。

「幼い頃、実家に出入りしておった者にございます。南蛮の船の荷を扱う男で、こういう帳面をつけておりました」

 俺は頭を下げた。

「面白がって覚えました。……ただ、それだけにございます」

 これは、九割嘘である。

 だが、一割は本当だ。

 この帳面の元は、たしかに南蛮から来ている。ヴェネツィアだかフィレンツェだかの商人が、四百年前に体系立てた。

 そして――堺には、南蛮船が来る。

 絶対にありえない話ではない。

 小西行長は堺の薬種商の倅だ。この男が「そんな商人はおらん」と断言できる根拠は、ない。

 行長は、しばらく俺を見ていた。

 それから、ふう、と息を吐いた。

「……まあ、ええわ」

 男は、追及をやめた。

「わしかて、堺の商人が皆おんなじやないことくらい、知っとります」

 そして、こう言った。

「――小出はん。わしに、教えてくれまへんか」

 俺は、頭を下げようとして、止まった。

 (……いや、待て)

 これは、まずくないか。

 俺は、頭の中で素早く計算した。

 この帳面は、俺の武器だ。

 これがあるから、俺は兵站で誰よりも早く数字を出せるし、誰よりも早く不正を見つけられる。

 それを、二十四万石の大名に渡す。

 (――損か?)

 いや。

 (……損じゃない)

 俺は、前世を思い出していた。

 現場に、技を隠す職人がいた。

 自分の段取りを、誰にも教えなかった。若いのが聞きに行くと、「見て盗め」と言って追い返した。

 あの人は腕がよかった。本当によかった。

 だが、あの人が腰を痛めて現場を離れた日、その工区は完全に止まった。

 誰も、あの人の段取りを知らなかったからだ。

 俺は、顔を上げた。

「――お教えいたします」

「ほんまか」

 行長が、前のめりになった。

「いくらや」

「は?」

「銭や。……いくら出したらええ」

 俺は、少し笑ってしまった。

 商人の子だ。

「――要りませぬ」

「なんでや」

 行長が、露骨に警戒した顔をした。

「ただほど怖いもんはおまへんで」

「では、一つだけ」

 俺は言った。

「――摂津守様も、これを、誰かにお教えください」

 男が、きょとんとした。

「……それだけか」

「それだけにございます」

 俺は言った。

「某は、技を隠す者を好みませぬ」

「なんでや。隠したら、あんたが儲かるやろ」

「一代で終わりまする」

 俺は答えた。

「隠した技は、隠した者が死ねば消えます。……教えた技は、教えた者が死んだ後も生き残ります」

 小西行長は、長いこと黙っていた。

 それから、ゆっくりと、右手を上げた。

 額に触れ、胸に触れ、左肩、右肩と、指を動かした。

 ――十字を切った。

 俺は、驚かなかった。

 驚く理由が、ない。

 だが――どうやら、それが珍しかったらしい。

 行長が、手を下ろして、俺を見た。

「……あんた、驚かへんのやな」

「なにをでございますか」

「いや」

 男は、苦笑した。

「たいがいの侍は、これ見ると、顔が引きつりますねん。気味悪がる」

 行長は、自分の胸を指した。

「わしは、アウグスティヌス言います。洗礼名や」

「――さようでございますか」

 俺は答えた。

「立派なお名前かと存じます」

 小西行長は、その言葉に、一瞬、動きを止めた。

 それから、変な顔をした。

 笑っているような、泣きそうなような顔だった。

「……あんた、ほんまに十六か」

「十六にございます」

「――気色悪いわ」

 男は言って、それから、腹を抱えて笑い出した。

「あかん。気色悪い。堪忍え。……褒めとりますねん」


          *


 その日から、十日ほど。

 俺は、小西行長に帳面のつけ方を教えた。

 夜、普請場が引けた後、行長の陣で二刻ずつ。

 紙が惜しいので、板に炭で書いた。

 この人は、恐ろしく飲み込みが早かった。

 当たり前だ。商人の子で、二十四万石を回している男である。

 俺が三日かかると思ったところを、半日で越えていった。

 五日目に、行長は自分で肥後の帳面を書き直し始めた。

 七日目に、去年蔵から消えた銀の行方を突き止めた。

「――倉番でおました」

 男は、板を睨んだまま言った。

「三年前から、少しずつや。……月に、ほんの少しずつ」

 俺は、何も言わなかった。

「気ィつかんかった。……わしは、三年間、気ィつかんかった」

 行長は、板の上の数字を指でなぞった。

「この書き方やったら、最初の月に分かっとった」


          *


 十日目の夜。

 最後の稽古が終わって、俺が板を片付けていると、行長が言った。

「――小出はん」

「はっ」

「わし、この歳まで、ものを教わったことがおまへんねん」

 男は、板を見ていた。

「親父からは商いを教わりました。せやけどあれは、教わったんやのうて、叩き込まれたんですわ」

 行長は、顔を上げた。

「関白様には、取り立てていただいた。せやけど、あの方は教えてはくれはらへん。やれ、言うだけや」

 男は、少し笑った。

「――こないに丁寧に、しかもただで、順番に教えてもろたんは、生まれて初めてでおます」

 そして、小西行長は、板の前で座り直した。

 二十四万石の大名が、五百石の小姓に向かって、両手をついた。

「――先生」

「摂津守様!」

 俺は本気で慌てた。

「おやめください! 某は五百石の――」

「知ってます」

 行長は、頭を下げたまま言った。

「知ってますけどな。……銭も官位も、教えてもろた恩とは、別勘定でおます」

 男は顔を上げた。

 目が、赤かった。

「これは、こっちの帳面や。……左と右、合わせなあきまへん」

 俺は、その夜、自分の陣に戻ってから、しばらく眠れなかった。

 (……「先生」か)

 嬉しくないと言えば、嘘になる。

 前世で、俺を先生と呼んだ人間は一人もいなかった。

 現場では「監督」と呼ばれ、会社では「おい」と呼ばれ、施主には「そちらさん」と呼ばれた。

 だが。

 俺は、暗い天井を見上げた。

 小西行長。

 この人が、どうなるかを、俺は知っている。

 ――十年後。関ヶ原で西軍につき、敗れて捕まり、京の六条河原で首を刎ねられる。

 しかも、この人は切腹を許されない。

 キリシタンは自害を禁じられているからだ。だから、斬られる。

 (……十年)

 俺は、天井に向かって指を折った。

 十年ある。

 俺は今、五百石だ。十年後に何石になっているかは分からない。

 だが、五百石よりは、上にいるはずだ。

 (――間に合わせる)

 俺は思った。

 あの人が三成の側に立つのは、たぶん、性分だ。義理と面目で動く人だ。

 止められないかもしれない。

 だが、首を刎ねられるところまで行かせない方法なら、ある気がする。

 俺は寝返りを打った。

 (……握れる手は、一本でも多い方がいい)

 三成の陣を出たときに考えたことを、また考えていた。

 俺は、この時代で、まだ何も持っていない。

 領地もない。兵は四百。石高は五百。

 持っているのは、帳面のつけ方と、厠の掘り方と、手の数だけだ。


          *


 三日後。

 石垣山の大広間へ出よ、と使いが来た。

 韮山落城の、正式な戦功報告である。

 俺は、一番いい肩衣を出して、皺を伸ばした。

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