第十八話 鬼羽柴
石垣山城の大広間は、まだ木の匂いがした。
削ったばかりの柱。真新しい畳。壁の漆喰も、たぶん先週塗ったものだ。
(……三日前まで、俺はここの土を運んでたんだけどな)
俺は末席に座って、そんなことを考えていた。
顔ぶれが、ひどかった。
上座に近い方から、名を知らない者がいない。
徳川大納言。
蒲生飛騨守氏郷。
堀左衛門督秀政(まだ痩せていたが、今日は自分の足で立っていた)。
小西摂津守行長。
脇坂中務少輔。
そして――
右手の列に、木下備中守家定が座っていた。
俺の、実の父である。
その隣に、小出の父子がいた。
小出播磨守と、その嫡男・吉政。
吉政が、俺の養父にあたる。
二人とも、俺の方を見なかった。
いや――正確に言うと、見た。
入ってきたときに、ちらりと見た。それだけだった。
俺は、末席で膝を揃えて、目を伏せた。
(……いつも通りだ)
この二つの家に、俺の椅子はない。
十六年、そうだった。今日も、そうだ。
やがて、上座の襖が開いた。
全員が平伏した。
関白豊臣秀吉が、するすると入ってきて、上座に座った。
「――苦しゅうない。面を上げい」
声が、機嫌よかった。
俺は顔を上げて、内心で身構えた。
(……この人が機嫌のいいときは、たいてい何か企んでる)
「小出俊定」
「はっ」
「韮山、落としたそうじゃな」
「関白様のご威光の賜物にございます」
「威光で城が落ちるなら、わしは苦労せんわ」
秀吉が笑った。何人かが追従して笑った。
「――申せ。何をした」
俺は、頭を下げて、報告を始めた。
用意してきた通りに、順番に述べた。
伊豆に入ってから、江川英吉を生け捕りにしたこと。
その縄張り図をもとに、天ヶ岳砦を未明に急襲して奪ったこと。
水と兵糧の道を切り、韮山城が籠城を続けられぬ形にしたこと。
北条美濃守氏規が、単身、降伏を申し出たこと。
「――以上にございます」
広間が、静かになった。
やがて、上座に近い方から、太い声が飛んだ。
「――して。首は」
俺は、頭を下げたまま答えた。
「ございませぬ」
ざわり、と空気が動いた。
「ないとは、どういうことじゃ」
「取っておりませぬ」
「取っておらぬ?」
声が、明らかに苛立った。
「三千五百も籠っておった城であろう。一つも取っておらぬのか」
「はい」
「――それでは、戦功にならぬ」
(……来たな)
俺は、内心で頷いた。
これは、想定していた。
この時代の戦功は、首の数で計られる。
誰が誰の首を取ったかを記録し、それで恩賞が決まる。それが制度だ。
首がないというのは、制度上、何もしていないのと同じである。
だから、俺はこう答えることにしていた。
「――畏れながら」
俺は顔を上げた。
「首を五百取れば、こちらも、およそ五百死にまする」
広間が、しん、とした。
「韮山は堅城にございます。力攻めをすれば、寄せ手は三千では利きませぬ。……某の手勢は四百でございました。四百で力攻めをすれば、四百死んで、城は落ちませぬ」
俺は続けた。
「城下の村は、焼けませんでした。田は、今年の秋、米を出します」
俺は、はっきり言った。
「――伊豆一国の年貢が、丸ごと残っております」
誰も、何も言わなかった。
俺は、もう一つ足した。
「城兵三千五百は、武具を置いて村へ帰しました。あの者どもは、来年の春、田を打ちます」
俺は頭を下げた。
「首は、一つもございませぬ。……代わりに、伊豆がございます」
上座で、秀吉が動いた。
扇で、ぱん、と膝を打った。
「――それでよいわ」
男は言った。
「首はいらぬ。……国が要る」
秀吉は、そのまま身を乗り出した。
「小出。一つ聞くぞ」
「はっ」
「――なにゆえ、氏規を生かした」
(また、それか)
三日前に徳川家康にも聞かれた質問だ。
この二人が、同じところを突いてくる。
それだけで、この二人がどういう人間かが分かる。
俺は、同じ答えを出した。
「焼けた田は、三年戻りませぬ。……恨みは、もっと長う残ります」
俺は続けた。
「北条美濃守は、伊豆の民に慕われておりまする。あの者を斬れば、伊豆は十年治まりませぬ。……生かして関白様の御慈悲を示せば、伊豆は今年から年貢を出します」
秀吉が、にたり、と笑った。
この人のこの顔は、心臓に悪い。
「小出」
「はっ」
「――猿は、何でも見ておるぞ」
俺は、身体が固まるのを感じた。
「早川口の堀の陣で、病を止めたそうじゃな」
俺は、堀秀政の方を見ないようにした。
「石垣山では、井戸曲輪を先に掘れと申したそうじゃな。おかげで人夫の逃げが止まったと、奉行が申しておったわ」
「……」
「陣と水汲み場の間に道を切って、隣の陣に使わせたそうじゃな。おかげで水場の喧嘩が止んだと、これは目付が申しておった」
秀吉は、指を折っていた。
「摂津守に、妙な帳面のつけ方を教えたそうじゃな」
小西行長が、慌てて平伏した。
「――そして」
秀吉は、指を全部開いた。
「そのどれも、わしに申し出ておらぬ」
(……あ)
俺は、初めて焦った。
まずかったか。
手柄の横取りに見えたか。あるいは、勝手をしたと取られたか。
「関白様。某は、差し出がましいことを――」
「たわけ」
秀吉が、遮った。
「褒めておるのじゃ」
男は、扇を開いた。
「小出。……この陣におる者どもは、皆、手柄を申し出に来る。当たり前じゃ。手柄を申さねば、恩賞が出んからの」
秀吉は、広間を見回した。
「じゃが、そなたは一度も来ておらん」
俺は、頭を下げた。
「厠と水にございますゆえ。……申し上げるほどのことでは」
「――そこよ」
秀吉が、扇を突きつけた。
「そなたは、手柄にならぬことばかりやりおる」
広間が、また静かになった。
「厠を掘る。水を沸かす。道を直す。……どれも、首にならん。恩賞にならん」
秀吉は言った。
「じゃが、そなたのやったことがなければ、堀は死んでおった。石垣山は間に合わなんだ。伊豆は焼けておった」
男は、目を細めた。
「――わしは、それを見ておった」
俺は、平伏した。
妙に、喉が詰まった。
(……見てたのか、この人)
前世で、俺の段取りを見ていた人間は、いなかった。
工期が守られれば当たり前と言われ、遅れれば怒鳴られた。
厠を綺麗にしても、誰も何も言わなかった。当たり前だからだ。
それが四十年だった。
(……あー、やめろ)
俺は、下を向いたまま、必死に顔を作った。
(こんなところで泣くな。恥をかく)
「――さて」
秀吉が、上機嫌で座り直した。
「褒美じゃ」
俺は身構えた。
ここで領地の話が出るのかと思った。
だが、この人は、そういう順番では話さなかった。
「一つ」
秀吉は、指を立てた。
「そなたを、我が弟・大和大納言秀長の養子といたす」
(――は?)
俺の口は、勝手に動いていた。
「――畏れ多きお言葉にございます」
(待て待て待て待て)
「――某の如き若輩に、身に余る御沙汰にございます」
(大和大納言だぞ? 百五十万石だぞ? なんで俺?)
「――謹んで、お受けいたしまする」
(受けるなよ!)
俺は、自分の口を止められなかった。
四十年、これで飯を食ってきたからだ。
施主が無茶を言った瞬間に「承知いたしました」と言えなければ、この仕事は務まらない。
頭の中で「無理だろこの工期」と絶叫しながら、口は「承知いたしました」と言う。
これは、もう、身体が覚えている。
「――ただし」
秀吉が、続けた。
「大納言の家は、秀保が継ぐ」
(……あ)
俺は、頭の中の混乱が、すっと収まるのを感じた。
「そなたは、分家を立てよ」
(……そういうことか)
俺は、平伏したまま、猛烈な勢いで考えていた。
本家は秀保が継ぐ。俺は分家。
つまり――大和百五十万石は、俺のものにならない。
(……助かった)
俺は、心の底から思った。
百五十万石など、要らない。あんなものを背負ったら、真っ先に潰される。
分家。豊臣の一門ではあるが、本流ではない。
石高は、これから自分で稼ぐしかない。
(……ちょうどいい)
この人は、俺に「一門の格」だけをくれて、「一門の重荷」は載せなかった。
(――やっぱり、怖い人だ)
「二つ」
秀吉は、指を二本立てた。
「わしの『秀』の一字をやる」
広間が、ざわめいた。
「それと、五七の桐を許す」
(……おい)
俺は、内心で青くなった。
五七の桐。
豊臣の紋である。
この時代、これを掲げるということは「豊臣の身内」だと天下に示すことだ。
(……重い。重すぎる)
だが、口はもう決まっていた。
「――ありがたき仕合わせに存じます」
「よって、今日より、そなたの名は」
秀吉が、扇を上げた。
「羽柴秀定である」
――羽柴秀定。
俺は、その音を頭の中で転がした。
木下松之助が、小出俊定になり、今日、羽柴秀定になった。
(……三つ目だ)
十六年で、三つ目の名前だ。
(俺の名前は、いつも、他人が決める)
俺は平伏したまま、そう思った。
右手の列で、木下備中守家定が、深く頭を下げるのが見えた。
俺の父である。
その顔を、俺は、盗み見た。
――嬉しそうだった。
俺は、目を伏せた。
(……そうだよな)
木下の家から、豊臣の一門が出る。
しかも、姫路二万五千石の家からだ。
これは、木下家にとって、間違いなく慶事だ。
(この人は、木下の得として喜んでる)
俺は、それを責める気にはならなかった。
当たり前だ。武家とは、そういうものだ。
家が上がることを喜ばない当主は、当主として失格である。
ただ――
俺は、そっと息を吐いた。
(誰も、俺に、嫌じゃないかとは聞かないな)
俺は、今日、二度目に家を出た。
一度目は、去年の暮れ、小出の家を自分で出た。
二度目は、今、この広間で、他人の言葉で出された。
もう、木下でもない。小出でもない。
(……羽柴か)
三つ目の家にも、たぶん、俺の椅子はない。
「三つ」
秀吉が、声を張った。
「――異名をやる」
広間が、ざわりと揺れた。
関白が異名を下すというのは、ただの綽名ではない。
その男を「そういう男」として、天下に定めるということだ。
「伊豆にて、そなたを何と呼んでおったか、聞いておるぞ」
秀吉は、にやりとした。
「――鬼松、じゃそうな」
「……はっ」
「高札場の松の木に首を掛けたゆえ、鬼松。……幼名も松之助。よう出来ておる」
男は笑った。
「じゃが、今日から羽柴じゃ。松では合わん」
秀吉は、立ち上がった。
小柄な男が、上座で、大きく手を広げた。
「――皆、聞け!」
声が、大広間の梁まで届いた。
「首を一つも取らずに城を落とし、国を丸ごと残した男である!」
「天下に誇る、我が弟・小一郎が――」
「鬼羽柴である!」
広間が、どよめいた。
俺は、額を畳につけたまま、動けなかった。
(……鬼羽柴)
――なんだそれ。
(かっこよすぎるだろ)
(いや、かっこいいのか? 鬼って言われてるんだぞ)
(……鬼か。まあ、鬼だな。二人斬ってるし)
俺は、頭を上げて、口上を述べた。
「――身に余る御名にございます。生涯、汚さぬよう努めまする」
完璧だった。声も震えなかった。
中身では、まだ「なんだそれ」と繰り返していた。
「――四つ」
(……まだあるのか)
俺は、腹の底が冷えるのを感じた。
この人は、四つ目に、一番重いものを置く。
この一刻で、俺はそれを学んだ。
「飛騨守」
秀吉が呼んだ。
蒲生氏郷が、静かに平伏した。
「はっ」
「申せ」
蒲生飛騨守氏郷が、顔を上げた。
――綺麗な男だった。
背が高い。肩幅がある。顔立ちが整っていて、目に濁りがない。
三十五になるはずだが、涼やかな若武者に見えた。
(……うわ、出た)
俺は、内心で少し嫌な気分になった。
こういう人が、俺は昔から苦手である。
理由はない。ただ、まぶしいだけだ。
「――それがしの養女・春を、羽柴秀定殿に賜りたく存じます」
(……養女?)
「――春は、故・織田右府信長公が姫にございます」
(は?)
俺の頭の中で、何かが白く飛んだ。
織田信長の娘。
(……信長の。娘。俺の、嫁に)
(無理だろ)
(家格が違いすぎる。俺は五百石だぞ。……いや、今日から羽柴か。羽柴でも無理だ)
(――というか)
俺は、平伏したまま、一番現実的なことを考えていた。
(いくつなんだ、その子)
秀吉が、上機嫌で言った。
「春は十三じゃ。……鬼羽柴、そなたは十六。ちょうどよいわ」
(……十三)
俺は、畳を見つめた。
(俺の中身は、四十過ぎだぞ)
これは、この時代では何もおかしくない。
十三で嫁ぐのは、武家の姫としてごく普通だ。むしろ遅いくらいだ。
頭では、分かっている。
だが、俺の中の四十過ぎの部分が、はっきりと、嫌がった。
(……ちょっと待ってくれ)
だが、口は、動いた。
「――謹んで、お受けいたしまする」
言ってしまった。
広間が、沸いた。
誰かが「めでたい」と言い、誰かが手を打った。
秀吉が笑い、諸将が笑った。
木下備中守が、深く頭を下げていた。
小出の父子も、頭を下げていた。
俺は、平伏したまま、その音を聞いていた。
(……全員、喜んでるな)
退出の許しが出て、俺は完璧な所作で広間を辞した。
膝を折る角度も、下がる歩幅も、襖の閉め方も、寸分の狂いもなかった。
廊下を、真っ直ぐ歩いた。
角を二つ曲がって、人のいない渡り廊下まで来て――
俺は、柱に手をついて、盛大に息を吐いた。
「――……あー」
膝が、笑っていた。
(……何だったんだ、今の)
一刻の間に、家が変わり、名が変わり、紋が変わり、異名がつき、嫁が決まった。
全部、俺は「承知いたしました」しか言っていない。
(……いつもの現場と、同じだな)
施主が全部決めて、俺が全部引き受ける。
俺は、渡り廊下の欄干に寄りかかった。
窓の外に、小田原の町が見えた。
三か月、囲まれ続けている城。
(……嫁か)
俺は、そこでようやく、まともに考え始めた。
断る手はない。関白の前で受けると言った。
だが。
(――十三の子供に、何をどうしろっていうんだ)
俺の中身は四十を過ぎている。
その子は、俺の娘でもおかしくない歳だ。
(この時代では普通だ。分かってる。分かってるが)
俺は、その場に座り込んだ。
誰も見ていない。今なら、崩れていい。
(……逃げ場がないな)
俺は、しばらくそこにいた。
それから立ち上がって、あてもなく城の中を歩き始めた。
本丸を抜けて、南の曲輪へ。
人のいない方へ、いない方へと歩いた。
やがて、砦の外れの、小さな丘に出た。
そこから、小田原が、よく見えた。
俺は、そこに立って、しばらく町を眺めていた。
背後で、草を踏む音がした。
振り返ると、男が一人、立っていた。
背が高くて、肩幅があって、目に濁りのない男だった。
「――秀定殿」
蒲生氏郷は、少し困ったような顔で、こう言った。
「……少し、話をさせてもらえぬか」




