第十九話 小田原の見える丘
「――少し、話をさせてもらえぬか」
蒲生飛騨守氏郷は、そう言った。
俺は、丘の上で頭を下げた。
「――飛騨守様。此度は、身に余るお話を賜り、御礼の申しようもございませぬ」
完璧だった。
声も、間も、角度も。
(……早く帰ってくれ)
氏郷は、少し困った顔をした。
それから、丘の草の上に、あっさりと腰を下ろした。
――地面に、直接である。
十二万石の大名が、袴が汚れるのも構わずに、草の上に座った。
「秀定殿も、座られよ」
「……はっ」
俺は、一間ほど離れて腰を下ろした。
「もっと近う」
「……はっ」
俺は、少しだけ近づいた。
二人で、小田原を見ていた。
夕方だった。
総構えの中で、飯を炊く煙が上がっていた。
あの城の中に、まだ何万人もいる。囲まれたまま、三か月。
「――よい眺めじゃ」
氏郷が言った。
「……はい」
「あそこから、この城が見えておるのだろうな」
「見えておりましょう」
「どう見えておるかな」
俺は、少し考えて答えた。
「……昨日までなかったものに、見えておりましょう」
氏郷が、笑った。
「そうか。……そうであろうな」
(……気まずい)
俺は、内心で天を仰いでいた。
この人が、苦手である。
悪い人ではない。むしろ、恐ろしく良い人だ。それは分かっている。
――だからこそ、苦手なのだ。
蒲生氏郷。
近江日野の名門の出。十三で織田信長に才を見出され、十四で信長の娘を娶った。
文武両道で、和歌も茶も一級。しかも、目を疑うような美丈夫である。
誰からも好かれ、部下に慕われ、敵からも一目置かれる。
(……眩しいんだよ)
俺は、草をむしりながら思った。
前世で四十年、俺はこういう人間を下から見上げてきた。
高学歴で、大手にいて、ちゃんとした身なりで、休日には家族と出かける。
現場に来ても泥がつかないところに立っていて、俺が泥だらけで走り回っているのを「いつもありがとうございます」と労ってくれる。
――悪気は、ないのだ。
本当に、労ってくれているのだ。
(それが、一番きつい)
「秀定殿」
氏郷が言った。
「井戸曲輪を先に掘れと申したのは、そなたと聞いた」
「……差し出がましいことをいたしました」
「わしは、あれを聞いて唸ったぞ」
氏郷は、城を見たまま言った。
「石垣を止めてでも水を上げよ、というのは、普請を知らねば言えぬ」
「……」
「わしも、日野で城下を作った。伊勢松坂でも、また一から作り直した。次にどこぞへ移されれば、三度目を作らねばならぬ。……人夫が逃げる苦しみは、身に染みておる」
男は、こちらを見た。
「そなた、どこで覚えた」
(……出た)
この質問が、一番困る。
俺は、用意した答えを出した。
「……幼い頃から、普請場をうろついておりました。人夫の飯の炊き方から覚えました」
嘘ではない。
ただし、前世で、である。
「ふむ」
氏郷は、それ以上聞かなかった。
俺は、その「聞かなさ」に、少し身構えた。
(……この人、気づいてるな)
俺が誤魔化したことに、たぶん気づいている。
だが、追及しない。
(……そういうところが、苦手なんだよ)
しばらく、二人で黙って城を見ていた。
やがて、氏郷が言った。
「――秀定殿」
「はっ」
「春姫との縁組、気に入らぬなら断ってくれて構わぬ」
俺は、思わず顔を上げた。
氏郷は、こちらを見ていなかった。
小田原を見たまま、続けた。
「関白様の御前で受けたのは、断れる場ではなかったからであろう。……あそこで断れる者はおらぬ。わしでも断れぬ」
男は、少し笑った。
「あれは、返事ではない。作法じゃ」
俺は、何も言えなかった。
全部、見られていた。
あの広間で、俺は完璧な顔をしていたはずだ。
声も震えなかった。所作も乱れなかった。
(……この人)
「されど」
氏郷が、こちらを向いた。
「――一度だけ、春姫に会ってくれぬか」
「……」
「会って、その上で気に入らぬというなら、それでよい。わしが関白様に話をつける」
男は、はっきり言った。
「わしの落ち度にする。そなたには、一切、傷をつけぬ」
俺は、しばらく動けなかった。
(……おい)
(――ずるいだろ、それ)
俺は、草を握りしめていた。
この人は、今、俺に逃げ道を用意した。
しかも、自分が泥をかぶる形で。
関白の前で決まった縁組を、自分の落ち度にして潰すと言っている。
十二万石の大名が、五百石の――いや、今日から羽柴になった小僧のために。
(……そんなことされたら)
(断れるわけないじゃないか)
俺は、四十年生きた。
その四十年で、俺は「断り方」を山ほど覚えた。
無茶な工期を、相手の顔を立てながら押し返す方法。
できない仕事を、できない理由を並べずに断る方法。
嫌な相手と縁を切るときに、恨みを残さない方法。
全部、覚えた。全部、使える。
――だが。
逃げ道を用意された上で、その逃げ道を使う方法だけは、覚えなかった。
あんなものは、使えない。
使ったら、この人の顔に泥を塗ることになる。
(……ああ、そうか)
俺は、そこで、ようやく気づいた。
この人は、押していない。
「良い娘だ」とも言わなかった。「断るな」とも言わなかった。「関白様の御意向だぞ」とも言わなかった。
――押さなかった。
(だから、こっちが動くしかなくなる)
俺は、頭を下げた。
「……お会いいたします」
蒲生氏郷が、顔を上げた。
そして、笑った。
――嫌になるくらい、いい笑顔だった。
「そうか」
男は、心底嬉しそうに言った。
「――きっと、気に入ってもらえると思う」
(……この人)
俺は、内心で白旗を上げた。
(良い人すぎるだろ)
「――ときに、秀定殿」
立ち上がりかけた氏郷が、ふと言った。
「はっ」
「そなた、何を背負っておられる」
俺は、息を止めた。
「……は」
「いや」
氏郷は、袴の草を払っていた。
「差し出がましいことを申した。忘れてくれ」
男は、こちらを見た。
「ただ――そういう顔をしておる、というだけの話じゃ」
「わしにも、覚えがある」
氏郷は言った。
「十四で右府様の姫をいただいた。十九で家督を継いだ。……周りは皆、年上でな」
男は、少し笑った。
「若造が何を、と思われておるのは、顔を見れば分かる。じゃから、やるしかなかった」
氏郷は、小田原を見た。
「――誰にも言えぬ荷を、一人で担いだ覚えはある。それだけじゃ」
俺は、頭を下げた。
何も、言えなかった。
この人は、正しく察していた。
だが、俺が背負っているものが何かは、聞かなかった。
(……敵わないな)
*
三日後。
氏郷の陣の一角に、小さな座敷が用意された。
俺は、一番いい肩衣を着て、髷を直して、そこへ行った。
(……面接だ)
俺は、そう思うことにした。
そう思わないと、心臓が保たなかった。
座敷には、三人がいた。
蒲生氏郷。
その隣に、三十くらいの女人。
――冬姫である。織田信長の次女で、氏郷の正室。
美しい人だった。だが、それより先に、姿勢の良さが目についた。
背筋が真っ直ぐで、指の置き方に一分の隙もない。
(……名門の姫だ)
俺は、深く頭を下げた。
そして、その隣に。
小さな娘が、座っていた。
俺は、顔を上げた瞬間に、言葉を失った。
――白い。
肌が白い、というのとは、少し違った。
なんというか、そこだけ光が違うように見えた。
髪が濡れたように黒くて、それが白い顔にかかっていた。
目が大きい。だが、きつくない。
その目が、まっすぐこちらを見ていた。
怯えてもいないし、媚びてもいなかった。
ただ、静かに、こちらを見ていた。
(……あ)
(……あー)
(……まずい)
俺は、内心で完全に取り乱していた。
(おい待て。冷静になれ。俺は四十過ぎだぞ。中身は四十過ぎだぞ)
(十三の子供だぞ。何を動揺してるんだ)
(――いや、動揺してないぞ? 俺は。全然、してない)
(顔が熱い)
四十年かけて作り上げた、俺の完璧な仮面。
施主にも、元請けにも、職人にも、役所にも、近隣住民にも、一度も本音を悟らせなかった顔。
関白の前でも、徳川家康の前でも、一度も割れなかった顔。
――十三の娘の前で、あっさり割れた。
「……羽柴、秀定にございます」
声が、少し掠れた。
(うわ、掠れた)
「――春にございます」
鈴のような、という言い方があるが、あれは嘘だと思っていた。
嘘ではなかった。
俺は、そこから先、何を喋ったかを、あまり覚えていない。
韮山の話をした気がする。
厠の話は、たぶん、しなかった。していたら終わりだ。
冬姫が何か聞いて、俺が答えて、氏郷が笑って、春姫が少しだけ笑った。
春姫が笑ったところで、俺はまた少し混乱した。
やがて、蒲生氏郷が、すっと立ち上がった。
「――冬」
「はい」
「邪魔者は去ろう」
(え)
俺は、内心で叫んだ。
(待って。待ってください。心の準備が)
氏郷は、恐ろしくいい笑顔で、俺を見ていた。
(――この人、絶対わざとだ)
冬姫が、立ち上がった。
そして、襖の前で、こちらに向き直った。
俺に、深く頭を下げた。
「――妹のことを、よろしくお願いします」
俺は、慌てて平伏した。
「そのような。……某ごときに、勿体なきお言葉にございます」
「いいえ」
冬姫は、頭を上げなかった。
「この子には、父も、母も、家もございませぬ」
俺は、顔を上げた。
冬姫は、静かに言った。
「織田の姫、と申されます。……それだけでございます」
襖が閉まった。
部屋に、二人だけになった。
俺は、しばらく、何も言えなかった。
春姫も、何も言わなかった。
庭で、蝉が鳴いていた。
(……何を話せばいいんだ)
俺は、必死に考えていた。
(褒めるか? いや、口説くみたいで気持ち悪い。中身四十のおっさんが十三に何を言ってるんだ)
(世間話? 何の話をする。天気か?)
(――待て)
俺は、そこで、動きを止めた。
三日前。
俺は、石垣山の渡り廊下で、こう思った。
――誰も、俺に、嫌じゃないかとは聞かない。
俺は、顔を上げた。
目の前に、十三の娘が座っていた。
父を本能寺で失い、母もおらず、家は滅び、姉の家に引き取られて、
そして今日、会ったこともない十六の男の前に座らされている。
(……ああ)
(同じじゃないか)
俺は、居住まいを正した。
そして、聞いた。
「――春姫様」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「……はい」
「嫌では、ございませぬか」
春姫が、動きを止めた。
目が、大きく開いた。
「……え」
「この縁組にございます」
俺は言った。
「某は、三日前に名が変わった男にございます。石高も五百石、領地も家もございませぬ。歳は十六。……姫様から見て、良い話とは思えませぬ」
俺は続けた。
「もし嫌なら、そう仰せください」
俺は、頭を下げた。
「――飛騨守様が、関白様に話をつけてくださるそうにございます」
(――使ったな、逃げ道)
俺は、頭を下げながら思った。
(自分では使わないと決めたのに、この子には渡した)
(……まあ、いいか)
長い、沈黙があった。
やがて、小さな声がした。
「……秀定様」
「はい」
「――わたくしに、それを尋ねた方は、初めてでございます」
俺は、顔を上げた。
春姫は、膝の上で手を握っていた。
その手が、少し震えていた。
「父が亡くなってから、わたくしは、何度も話がございました」
娘は、言った。
「そのたびに、姉上や、周りの方々が、決めてくださいました。……ありがたいことにございます。皆、わたくしのためを思うてくださいました」
春姫は、顔を上げた。
「――誰も、わたくしには、聞きませんでした」
俺は、胸のあたりが、妙に熱くなった。
(……ほら見ろ)
「秀定様」
「はい」
「……嫌では、ございませぬ」
春姫は、はっきりと言った。
「今、初めて、わたくしが決めました」
俺は、深く頭を下げた。
しばらく、上げられなかった。
(……あぶない。目が熱い)
顔を上げて、俺は言った。
「――春姫様。一つ、申し上げておきたいことがございます」
「はい」
「某には、まだ、家がございませぬ」
俺は言った。
「城もございませぬ。領地もございませぬ。……近く、どこぞを賜るやもしれませぬが、決まっておりませぬ」
俺は、正直に続けた。
「木下の家からは出ました。小出の家からも出ました。今日から羽柴でございますが、羽柴の本家は別にございます」
俺は、頭を下げた。
「――某には、帰る家がないのでございます」
春姫は、黙って聞いていた。
「ですから」
俺は、顔を上げた。
「――これから、作ります」
「城を建てます。家臣を養います。領民を食わせます。……全部、一から作ります」
俺は言った。
「時がかかりまする。十年、二十年かかりまする。楽ではございません。……某は、たぶん、しょっちゅう留守にいたします」
俺は、居住まいを正した。
そして、この娘に、一番言いたかったことを言った。
「――その家を、一緒に作っていただけませぬか」
春姫が、俺を見た。
その目から、涙が一つ、落ちた。
娘は、慌てて袖で拭った。
「……申し訳ございませぬ」
「いえ」
「……あの」
春姫は、袖で顔を隠したまま、小さく言った。
「――わたくしにも、帰る家がございませぬ」
「では」
俺は言った。
「二人とも、同じでございますな」
春姫が、袖の陰で、少し笑ったのが見えた。
*
その日の帰り道、俺は一人で陣まで歩いた。
夕焼けが、ひどく綺麗だった。
(……いや、待て)
俺は、途中で立ち止まった。
(俺、今日、何を約束した?)
(城を建てる。家臣を養う。領民を食わせる。……全部、まだ何一つ持ってないぞ)
(石高、五百石だぞ)
俺は、頭を抱えた。
(……大口叩いたな、俺)
だが、不思議と、後悔はなかった。
陣に戻ると、岩室弥七が待っていた。
「殿。お戻りが遅うございましたな」
「……うむ」
弥七は、俺の顔をじろじろ見た。
そして、にやりとした。
「――顔が、赤うございますぞ」
「うるさい」
俺は幕に入って、床几に座って、帳面を開いた。
そして、一行だけ書いた。
――家を、建てる。
筆を置いて、俺はしばらくその一行を見ていた。
前世で、俺は他人の家ばかり建てた。
マンション、庁舎、学校、橋、下水。
四十年、他人の家を建て続けて、自分の家は借家のままだった。
(……今度は、俺の番だ)
*
七月五日。
小田原城が、開いた。




