第二十話 一万石の願い
七月五日、小田原城が開いた。
三か月囲まれて、一度も総攻めをされずに、城は開いた。
北条氏政と氏照は切腹。当主の氏直は高野山へ追放。
――そして、北条美濃守氏規は、生きて城を出た。
俺はその日、遠くから氏規の姿を見た。
あの人は、痩せていた。
だが、背筋は伸びていた。
論功行賞は、宇都宮で行うと決まった。
関白は、このまま奥州へ入る。
伊達も、南部も、最上も、みな宇都宮へ呼ばれる。恩賞と仕置は、そこでまとめて行う。
(……ということは)
俺は、自分の陣で帳面を睨んでいた。
(俺の領地も、宇都宮で決まる)
俺は、頭の中で最悪と最良を並べていた。
最良――伊豆一国。あれを落としたのは俺だ。江川も抑えてある。可能性はある。
最悪――加増なし。首を一つも取っていないからだ。
だが、たぶん、その間のどこかに落ちる。
(……何万石でもいい)
俺は思った。
(問題は、そこじゃない)
仮に、伊豆七万石をもらったとする。
――誰が、それを回すんだ。
俺の手元にあるのは、四百十六人である。
内訳は、鴨川の河原で拾った浪人と、食い詰めた足軽と、伊賀者が一人。
岩室弥七は槍が使える。佐田新九郎は算盤ができる。原孫兵衛は人をまとめられる。
みんな、いい奴らだ。命を預けられる。
だが。
(――誰も、国を回したことがない)
七万石というのは、村が三百も四百もあるということだ。
検地をして、年貢を割り付けて、集めて、蔵に入れて、帳面をつける。
訴訟を裁く。用水を引く。橋を架ける。道を直す。
これを、毎年、間違えずにやり続ける。
(……人が要る)
俺は、前世でこれをやった。
小さな会社が、無理をして仕事を取ってきたときの話だ。
現場が三つから七つに増えた。
社長は喜んだ。売上が倍になったからだ。
――半年で、会社が壊れかけた。
監督が足りなかった。事務が足りなかった。
俺は三つの現場を掛け持ちして、月に二百時間残業して、若いのが二人辞めた。
(仕事が増えたときに死ぬんだ、ああいう会社は)
俺は、帳面に書いた。
――人が要る。国を回せる人間が、要る。
筆を止めて、俺はしばらく考え込んだ。
金で雇うか? 無理だ。俺には金がない。
浪人を集めるか? 河原でやった。ああいうのは兵にはなるが、代官にはならない。
(……どこかに、丸ごと転がってないか)
――転がっていた。
俺は、その名前を思い出して、帳面から顔を上げた。
(……丹羽)
丹羽五郎左衛門長秀。
織田信長の筆頭家老だった男である。
本能寺の後、越前と若狭で百二十三万石を領した。
その丹羽長秀が、五年前に死んだ。
跡を継いだ長重は、越前を取り上げられて加賀の小松に移された。十二万石。
――百二十三万石が、十二万石になった。
(家臣団が、あぶれてる)
俺は、猛烈な勢いで考え始めた。
百二十三万石を回していた行政の連中が、十二万石に収まるわけがない。
あぶれた者は、他家へ散った。浪人になった者もいる。
――越前百二十三万石を回した経験のある役人が、この国のどこかに、ばらばらになって転がっている。
(……欲しい)
(喉から手が出るほど、欲しい)
だが、散ったものを一人ずつ拾い集めるのは、無理だ。
俺には名がない。金もない。人が集まる理由がない。
(――集める理由が、要る)
俺は、そこで、もう一つの名前を思い出した。
丹羽長秀の、三男。
――仙丸。
あの子は、生きている。
丹羽の家を継げなかった三男坊で、羽柴秀長の養子に出されて、
今は秀長の家臣・藤堂与右衛門高虎の手元で育てられている。
(……歳は、たしか十一だ)
俺は、筆を置いた。
(……あの子を、もらえないか)
これは、単なる思いつきではない。
丹羽長秀の遺児が旗を立てれば、散った旧丹羽家臣は、そこへ集まる。
金でも、石高でもない。
名前だ。
(……五郎左の御曹司がおられる、と言えば)
俺は、しばらく自分の考えを吟味した。
(……いや、待て)
俺は、少し嫌な気分になった。
(俺は今、十一の子供を、人集めの旗として使おうとしている)
俺は、筆を置いたまま、天井を見た。
(……そうだな)
(そこは、正直にやろう)
*
三日後。
石垣山の一室に、俺は呼ばれた。
小田原の後始末で、関白は目の回るような忙しさのはずである。
それなのに、この人は、こういう場を作る。
「――秀定」
豊臣秀吉は、床几に腰かけて、菓子を食っていた。
「はっ」
「宇都宮で、そなたに領地をやる」
「ありがたき仕合わせに存じます」
「どこがよい」
(――出た)
この人は、こういう聞き方をする。
「どこがよい」と正面から聞かれて、正直に答えられる人間は少ない。
欲を出せば貪欲と取られ、遠慮すれば不忠と取られる。
だが、俺はこの人の癖を、少し掴んでいた。
(この人は、正直な答えが好きだ)
「――伊豆を賜りとう存じます」
俺は、はっきり言った。
秀吉が、菓子を食う手を止めた。
「ほう」
「江川英吉に、本領安堵を約束いたしました。あれは某の名で約束いたしましたゆえ、某が伊豆に入らねば、嘘になりまする」
俺は続けた。
「北条美濃守にも、伊豆の民にも、顔が立ちませぬ」
「――ふん」
秀吉は、菓子を口に放り込んだ。
「よかろう。考えておく」
「それと、秀定」
「はっ」
「褒美じゃ。領地とは別に、何ぞ欲しいものはあるか」
――来た。
俺は、頭を下げた。
「――人を一人、賜りとう存じます」
秀吉の眉が、上がった。
「人?」
「はい」
「女か」
「違います」
俺は慌てて否定した。
「――丹羽五郎左衛門長秀が三男、仙丸殿にございます」
部屋の空気が、変わった。
控えていた小姓たちが、こちらを見た。
秀吉は、菓子の皿を置いた。
そして、しばらく俺を見ていた。
「……秀定」
「はっ」
「そなた、仙丸が誰の養子か、知っておるか」
「――大和大納言様の御養子にございます」
「そうよ」
秀吉は、身を乗り出した。
「――そなたも、今日から小一郎の養子じゃ」
「兄弟ではないか」
男は言った。
「弟が欲しければ、そう申せばよい。なぜ、家臣に欲しいと申す」
(……鋭いな)
俺は、腹を決めた。
「――畏れながら」
「申せ」
「弟では、あの子が食えませぬ」
秀吉が、動きを止めた。
「兄弟にございますれば、某はあの子を大事にいたします。飯も食わせます。着るものも与えます」
俺は、顔を上げた。
「――ですが、それは預かりものにございます」
俺は続けた。
「丹羽の家から出され、大納言様の御養子となり、今は藤堂殿の手元におられる。……十一で、三度、家が変わっておりまする」
俺は、はっきり言った。
「次も、変わるやもしれませぬ」
秀吉は、何も言わなかった。
「某が弟として引き取っても、同じにございます。某の情が続く限りは安泰。……情が切れれば、行き場を失います」
俺は、頭を下げた。
「ですが、家臣なら、禄がございます」
「禄があれば、家が立ちまする」
俺は言った。
「家が立てば、家来が置けます。家来が置ければ、あの子は、誰かを養う側に回れます」
俺は、畳を見たまま言った。
「――養われる者から、養う者へ。それが、某の申し上げたいことにございます」
長い沈黙があった。
やがて、秀吉が聞いた。
「……いくらやる気じゃ」
「一万石にございます」
「――一万石!?」
控えていた小姓の一人が、思わず声を上げた。
当然の反応だ。
俺は、今、五百石である。
まだ一石ももらっていないうちから、家臣に一万石やると言っている。
「秀定」
秀吉が、面白そうに言った。
「そなた、五百石じゃぞ」
「はい」
「一万石を、どこから出す」
「――関白様から賜る領地から出します」
俺は、顔を上げた。
「まだ、いただいておりませぬ。ですから、これは捕らぬ狸にございます」
俺は正直に言った。
「ですが、いただけたなら、必ず出します。……足りなければ、某の取り分を削ります」
秀吉は、しばらく俺を見ていた。
それから、にたり、と笑った。
――この笑い方だ。心臓に悪い。
「秀定。正直に申せ」
男は言った。
「――そなた、仙丸が欲しいのか。それとも、丹羽の家来が欲しいのか」
(……ばれてる)
俺は、腹の底が冷えた。
だが、この人に嘘は通じない。それは分かっていた。
俺は、深く頭を下げた。
「――両方にございます」
部屋が、しん、とした。
「越前百二十三万石を回しておった役人が、この国に散らばっております」
俺は言った。
「某には、それが要ります。……某の手元にあるのは、河原で拾った四百人にございます。あれらは槍は使えますが、検地はできませぬ」
俺は、続けた。
「五郎左様の御子息が旗を立てられれば、散った者が集まりまする。……某が呼んでも、誰も来ませぬ」
俺は、額を畳につけた。
「浅ましき望みにございます。……ですが、隠しても、関白様には見えておりましょう」
「――ぶっ」
秀吉が、噴き出した。
「わははははは!」
男は、床几の上で身体を折って笑い出した。
「両方じゃと!」
「聞いたか、皆! こやつ、両方じゃと申しおったぞ!」
秀吉は、涙を拭いながら笑っていた。
「よいわ、よいわ。……欲しがるやつは嫌いではない」
男は、扇で膝を打った。
「じゃがな、秀定。そなたのは、欲しがり方が妙じゃ」
「普通はな、『領地をくだされ』と言う。『城をくだされ』と言う」
秀吉は言った。
「そなたは、人しか欲しがらん」
俺は、頭を下げた。
「――田は、買えまする」
俺は言った。
「城は、建てられます。銭は、稼げます」
俺は顔を上げた。
「――人だけは、後からでは間に合いませぬ」
秀吉が、笑いを止めた。
その目が、少しだけ、変わった。
「……ふむ」
男は、扇を閉じた。
「――与右衛門を呼べ」
藤堂与右衛門高虎は、大きな男だった。
背が六尺を超えている。肩が広い。顔に古い傷がある。
だが、部屋に入ってきたときの足の運びで、俺は「あ」と思った。
(……この人、現場の人だ)
畳の上を歩くのに、段差を確認する癖がある。
座るときに、まず柱の位置を見る。
(間違いない。普請をやる人の歩き方だ)
高虎は、俺の顔を見た。
そして、いきなりこう言った。
「――井戸曲輪を先に掘れと言うたのは、おぬしか」
「……はっ」
「あれは、わしも言うつもりでおった」
男は、どっかと座った。
「じゃが、言えなんだ。石垣を止めるとなると、穴太が納得せん」
高虎は、ふん、と鼻を鳴らした。
「粟田を黙らせたそうじゃな」
「……黙らせてはおりませぬ。折れていただきました」
「同じじゃ」
俺は、この人を、少し好きになった。
(……話が早い)
「与右衛門」
秀吉が言った。
「この者が、仙丸を欲しがっておる」
藤堂高虎の顔が、変わった。
――怖い顔になった。
「……何のために」
低い声だった。
俺は、背筋が寒くなった。
(……この人、あの子を可愛がってるな)
俺は、居住まいを正した。
そして、さっき秀吉に言ったことを、一言も削らずに、もう一度言った。
人が要ること。
旧丹羽の家臣が欲しいこと。
一万石を出すこと。
そして――弟ではなく、家臣にする理由。
藤堂高虎は、最後まで黙って聞いていた。
聞き終わって、しばらく動かなかった。
それから、こう言った。
「――一万石は、本当か」
「本当にございます」
「まだ何ももろうておらぬのに、か」
「はい」
「もらえなんだら、どうする」
俺は答えた。
「――某の五百石から、一万石を出します」
高虎が、目を見開いた。
「……五百石しかないではないか」
「はい」
「一万石は、どこから出す」
「ございませぬ」
俺は言った。
「ですから、必ずもらいます」
藤堂高虎は、しばらく俺を睨んでいた。
それから、突然、立ち上がって部屋を出て行った。
(……え)
俺は焦った。
(怒らせたか?)
だが、しばらくして、高虎は戻ってきた。
――子供を、連れていた。
十一の男の子だった。
小さい。だが、姿勢がいい。
肩衣を着て、髪をきちんと結って、真っ直ぐ前を見て歩いてきた。
俺は、その顔を見て、また「あ」と思った。
(……この顔、知ってる)
堀秀治と、同じ顔だった。
――間違えないための顔である。
「――丹羽仙丸にございます」
子供は、そう名乗って、深く頭を下げた。
所作が、完璧だった。
十一とは思えなかった。
「仙丸」
高虎が言った。
「この方が、おぬしを家臣に欲しいと仰せじゃ」
仙丸は、顔色を変えなかった。
微塵も。
「――畏まりました」
俺は、そこで、腹の底が重くなった。
(……即答だ)
この子は、何も聞かなかった。
どこへ行くのか。何をするのか。誰に仕えるのか。
――一つも、聞かなかった。
(慣れてるんだ)
俺は、膝を進めた。
「――仙丸殿」
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「……はい」
「嫌では、ございませぬか」
子供の目が、ほんの少しだけ動いた。
だが、答えは早かった。
「――某は、どこへ参れと言われても、参ります」
俺は、首を振った。
「――それは、答えではございませぬ」
仙丸が、俺を見た。
初めて、まともに目が合った。
「某は、『どこへ行くか』を聞いておるのではございませぬ」
俺は言った。
「嫌か、嫌でないかを、お尋ねしております」
子供は、動かなかった。
唇が、少し震えた。
それでも、答えなかった。
(……答えられないか)
俺は、そう思った。
当たり前だ。
十一で三度家を移された子供が、大人の前で「嫌だ」と言えるわけがない。
言えたことがないから、言い方を知らない。
俺は、姿勢を正した。
「――では、某が先に申します」
「仙丸殿。……某は、一万石をお渡しいたします」
「……」
「筆頭の家老として、某の家をお預けいたします。まだ家はございませぬ。これから作ります」
俺は言った。
「そして――一つだけ、お約束いたします」
「――某は、あなたを、どこへもやりませぬ」
部屋が、静かになった。
「某が飢えれば、あなたも飢えます。某が死ねば、あなたは困ります。……よい話ばかりではございませぬ」
俺は言った。
「ですが、某の家から出せ、と誰かに言われても、某は出しませぬ」
俺は、頭を下げた。
「関白様に言われても、断ります」
「――こら」
秀吉が、扇で俺の頭を軽く叩いた。
「わしを出汁に使うな」
「……失礼をいたしました」
「よいわ。そこまで言うなら本気じゃろ」
俺は、顔を上げた。
仙丸が、俺を見ていた。
その目から、涙が一粒、落ちた。
子供は、慌てて袖で拭った。
そして、平伏した。
「――嫌では、ございませぬ」
小さな声だった。
だが、はっきりしていた。
その横で、藤堂高虎が、両手で顔を覆っていた。
六尺の大男が、肩を震わせていた。
「――……済まぬ」
高虎は、掠れた声で言った。
「見苦しいところを」
「いえ」
「……わしはな」
男は、顔を覆ったまま言った。
「この子を、五年、育てた」
「可愛い。実の子より可愛い。……じゃが、わしには、この子に禄をやれん」
高虎は言った。
「わしは大納言様の家来じゃ。二万石をお預かりしておるが、あれはわしの禄ではない。大納言様のものじゃ」
男は、手を下ろした。
目が、真っ赤だった。
「わしが死ねば、この子は、また行き場を失う」
「五年、それが恐ろしかった」
藤堂高虎は言った。
「毎日、恐ろしかった」
男は、俺を見た。
「――羽柴殿」
「はっ」
「この子を、頼む」
六尺の男が、畳に手をついた。
「まだ何も持っておらぬ者に頼むのは、道理に合わぬ。……じゃが」
高虎は言った。
「持っておらぬ者が、一万石やると言うたのは、おぬしが初めてじゃ」
俺は、平伏した。
声が出なかった。
(……こんなの、断れるわけがない)
「――決まりじゃな」
秀吉が、上機嫌で言った。
「仙丸。今日より羽柴秀定の家来じゃ。……名を変えよ」
男は、少し考えた。
「藤堂の名を継げ。与右衛門が育てたのじゃ。藤堂高吉と名乗るがよい」
「――藤堂高吉にございます」
子供は、そう名乗って、俺に平伏した。
「不束者にございますが、末永く、お引き回しくださいませ」
十一歳の、筆頭家老が誕生した。
*
その夜。
俺は、自分の陣の帳面に、二行書いた。
――藤堂高吉。十一。一万石。
――残り、まだ何もなし。
筆を置いて、俺は頭を抱えた。
(……一万石って、言っちゃったな)
(俺、五百石だぞ)
幕の外で、岩室弥七の声がした。
「殿。……お聞きしましたぞ」
「うるさい」
「一万石だそうで」
「うるさい」
「――では、それがしは何石で」
俺は、帳面を投げた。
*
七月十七日。
関白の本隊が、宇都宮へ向けて動き出した。




