第二十一話 宇都宮評定
小田原から宇都宮へは、十日ほどかかった。
関白の本隊に従って、武蔵を北へ抜けた。
道中、俺は江戸を見た。
(……ほう)
俺は、馬の上で少し身を乗り出した。
思っていたのと、違った。
城は、たしかに小さい。
太田道灌が築いてから百年以上経っていて、あちこち傷んでいる。北条の支城の一つでしかない。
だが。
――港がある。
江戸湾の奥に、船着き場が並んでいた。
荷を上げ下ろしする人足がいて、蔵が並んでいて、道が通っていた。
その道の脇に、町家が続いていた。
平川という川が湾へ落ちていて、その河口が舟入りになっている。
(……水運の要衝だ)
俺は、周りを見回した。
関東平野が、どこまでも続いていた。
(この平野の米を、全部、川で運んで、ここから船に載せられる)
俺は、鳥肌が立った。
(……化けるぞ、ここは)
――そして俺は、この土地を誰が取るかを知っている。
徳川家康の関東移封は、小田原が開いた直後に決まった。
三河、遠江、駿河、甲斐、信濃――五か国百五十万石を召し上げ、
代わりに関東二百五十万石を与える。
石高だけ見れば大加増だ。
だが、先祖伝来の土地を全部取り上げられて、平らげたばかりの敵地に放り込まれる。
――体のいい島流しである。
諸大名は、同情していた。
「気の毒に」「大納言様も難儀な」と、みな口々に言っていた。
(……気の毒?)
俺は、内心で首を振った。
(十年後に、この人は天下を取るんだぞ)
俺は、江戸の港をもう一度見た。
平野。水運。港。そして、京から遠い。
(――独立した経済圏が作れる)
俺は、そう思った。
京の相場に振り回されず、上方の商人に首根っこを押さえられず、
自前で米を集めて、自前で運んで、自前で売れる。
(この人は、たぶん、それが分かってる)
実際、家康は、江戸に入ることを自分で選んだと聞いた。
小田原に入る手もあったのだ。
あそこには城がある。城下がある。北条の遺産がそのまま使える。
――それを捨てて、江戸を選んだ。
(……勝ってるな、この人)
俺は思った。
(できあがった現場を引き継ぐより、更地から縄を張る方が、いいものができる)
*
七月二十六日。
関白が、宇都宮城に入った。
宇都宮城には、東国と奥州の大名が、続々と集まってきた。
佐竹。宇都宮。那須。結城。
南部。津軽。最上。秋田。
――そして、伊達。
評定の日。
俺は、大広間の末席に近いところに座らされた。
石垣山のときよりは、少しだけ前だった。
羽柴の名をもらったからだ。
(……居心地が悪いな)
俺は、膝の上に帳面を置いた。
これは、癖である。
前世で、俺は会議に必ずノートを持って入った。
議事録を取るためではない。
その場で出た数字を、その場で検算するためである。
「三か月でできます」と誰かが言ったら、俺はその場で人工を割って、できるかどうかを出す。
できないなら、その場で言う。後で言っても遅い。
(……今日も、数字が飛び交うはずだ)
評定が、始まった。
まず、関東の処置が読み上げられた。
徳川大納言家康――関東二百五十万石。江戸を居城とする。
佐竹――常陸を安堵。
宇都宮、那須、結城――それぞれ本領安堵、あるいは減。
北条に与した小豪族は、次々に改易された。
読み上げが淡々と進むにつれて、広間の空気が重くなった。
名前が呼ばれて、領地を失う。
それだけのことが、何十回も繰り返される。
(……これが仕置か)
俺は、帳面に数字を書き取っていた。
誰が何万石を失い、その土地がどこへ行くのか。
「――伊達藤次郎政宗」
広間が、しん、とした。
襖が開いた。
男が、入ってきた。
――白装束だった。
真っ白の小袖に、白の袴。
髷を落としてはいないが、装いは完全に死者のそれだった。
右目に、黒い眼帯。
背は、それほど高くない。
だが、歩き方が違った。
伊達政宗は、広間の中央まで進んで、平伏した。
所作が、美しかった。
広間中の視線が、その白い背中に集まっていた。
誰かが、息を呑む音がした。
(……二度目だ)
俺は、帳面から顔を上げずに、そう思った。
この人は、小田原の底倉で、これと同じ格好で関白に会っている。
参陣が遅れた詫びとして、死装束で現れて、命を拾った。
――そして今日、もう一度、同じ格好で来た。
(……効くと分かってるから、二度やってる)
俺は、内心で唸った。
これは、大したものだ。
同じ手を二度使うのは、普通は下策である。
二度目は効かないからだ。
だが、この人は使った。
――なぜなら、この場にいる者の大半は、一度目を見ていない。
底倉の対面は、少数の者しか見ていない。
この広間にいる奥州の大名たちにとっては、これが初めて見る白装束だ。
(……計算してる)
(観客が入れ替わったことを、計算してる)
上座で、秀吉が言った。
「――政宗」
「はっ」
「そなた、会津を取ったな」
「……はっ」
「わしが、私戦を禁じた後にな」
「――申し開きの言葉もございませぬ」
政宗は、額を畳につけた。
「この首、いかようにもお取りくださいませ」
広間が、揺れた。
俺は、帳面に筆を走らせていた。
――会津 四十二万石。
――没収か。誰が入る。
俺の頭の中は、そこにしかなかった。
目の前で、二十四歳の男が首を差し出している。
広間中が息を呑んでいる。
だが、俺が気になっているのは、その男が手放す土地の値段だった。
(……我ながら、嫌な奴だな)
俺は、少しだけそう思った。
(だが、こっちの方が大事だ)
会津四十二万石が浮く。
あそこは、奥州の要である。
白河から北へ抜ける道も、越後へ抜ける道も、あそこで交わる。
誰があそこに入るかで、この先十年の奥州が決まる。
「――会津は、召し上げる」
秀吉が言った。
「そなたには、米沢を安堵する。七十二万石じゃ」
「――ありがたき仕合わせに存じまする」
伊達政宗は、そのまま平伏し続けた。
顔を上げなかった。
(……上手いな)
俺は思った。
(顔を上げない。顔を上げれば、表情を読まれるから)
「――して」
秀吉が、扇を開いた。
「会津じゃがな」
俺は、筆を止めた。
「堀左衛門督」
(――え)
「はっ」
堀秀政が、進み出た。
まだ痩せていた。だが、自分の足で歩き、自分の力で平伏した。
「越前北ノ庄を召し上げ、会津四十二万石を与える」
広間が、どよめいた。
俺は、帳面を握りしめていた。
(……堀秀政が)
(会津に入る)
俺の知っている歴史では、この人は二か月前に死んでいる。
小田原の陣中で、疫病で。享年三十八。
だから、この人が会津に入ることは、なかった。
俺は、自分の手が震えているのに気づいた。
(……動いた)
(歴史が、動いた)
俺が水を沸かしたせいで、一人の男が生き残って、
その男が、奥州で一番大事な席に座った。
(――これ、どこまで広がるんだ)
会津に誰が入るかで、奥州の十年が変わる。
奥州が変われば、上杉も変わる。徳川も変わる。
(……分からない)
俺は、震える手で筆を握り直した。
(もう、俺の知ってる歴史は、当てにならないかもしれない)
背筋が、寒くなった。
俺がこの世界で持っている一番の武器は、先を知っていることだった。
その武器が、今、少し欠けた。
――俺自身の手で。
「――羽柴秀定」
(え)
名を呼ばれて、俺は飛び上がりそうになった。
慌てて帳面を伏せ、平伏した。
「――はっ」
「韮山城、落城の功である」
秀吉の声が、広間に響いた。
「伊豆一国、七万石」
(……七万石)
「加えて」
(まだあるのか)
「相模のうち、箱根、足柄、小田原の西口――三万石」
「――都合、十万石」
広間が、ざわめいた。
俺は、額を畳につけたまま、動けなかった。
(……十万石)
(五百石の、二百倍だ)
俺は、口上を述べた。
「――身に余る御恩、生涯忘れませぬ。謹んで拝領つかまつりまする」
声は、震えなかった。
(なんで震えないんだよ、俺の口は)
頭の中は、完全に混乱していた。
(十万石。米にして十万石。人にして……何万人だ)
(一石で一人が一年食えるとして――十万人?)
(いや、年貢は四公六民として、実際の生産はもっと多い。とすると領民は……)
(――待て)
俺は、平伏したまま、腹の底が冷たくなるのを感じた。
(俺は今日、何万人分の飯の責任者になったのか)
「――秀定」
秀吉が、面白そうに言った。
「顔を上げい」
俺は、顔を上げた。
「嬉しくないのか」
(……あ)
俺は、たぶん、ひどい顔をしていたのだと思う。
俺は、正直に言った。
「――恐ろしゅうございます」
広間が、静かになった。
「ほう」
秀吉が、身を乗り出した。
「なにが恐ろしい」
「――十万石の民が、飢えぬようにせねばなりませぬ」
俺は言った。
「某には、まだ、それができる家来がおりませぬ。城もございませぬ。検地帳もございませぬ」
俺は、頭を下げた。
「嬉しゅうございます。……ですが、それ以上に、恐ろしゅうございます」
秀吉は、しばらく俺を見ていた。
それから、こう言った。
「――それでよいわ」
「領地をもろうて笑うやつは、三年で潰す。……震えるやつは、潰さん」
男は、扇を閉じた。
「行け。伊豆を、よう治めよ」
評定が終わって、広間を出た。
廊下で、俺は柱に寄りかかった。
膝が笑っていた。石垣山のとき以来、二度目である。
(……十万石)
(藤堂高吉に一万石。これは払える)
(江川英吉の本領安堵。これも守れる)
(四百十六人に禄をやれる。これも、できる)
(春姫様に、家を建てる。――土地が、できた)
俺は、目を閉じた。
三日前、俺は五百石だった。
河原で拾った四百人を食わせるだけで、月末に帳尻が合わなかった。
(……本当に、来たな)
「――隣じゃな」
声がして、俺は目を開けた。
徳川家康が、廊下を通りかかっていた。
供を二人だけ連れて、ゆっくり歩いていた。
俺は、慌てて平伏した。
「――大納言様」
「箱根の向こうが、そなたじゃ」
家康は、足を止めずに言った。
「――隣人であろう」
俺は、平伏したまま答えた。
「……はっ」
「困ったら、参れ」
その背中が、廊下の角を曲がって消えた。
俺は、しばらくそこで平伏していた。
(……この人)
(覚えてたな、あの言葉)
城を出ようとして、俺は、庭で足を止めた。
白い背中が、そこにあった。
伊達政宗が、一人で、庭の池を見ていた。
供はいなかった。
白装束のまま、後ろ手を組んで、水面を見下ろしていた。
(……声をかけるべきか)
俺は迷った。
(いや、やめよう。今日、会津を取られた人だ。何を言っても嫌味になる)
俺は、黙って通り過ぎようとした。
「――待たれよ」
声が、飛んできた。
俺は、足を止めて振り返った。
伊達政宗が、こちらを見ていた。
左目が、こちらを射抜いていた。
(……うわ)
(目つきが、すごい)
「――伊達陸奥守にございますな」
俺は、その場で膝を折った。
「羽柴秀定にございます」
「知っておる」
政宗は言った。
「十万石じゃそうな」
「……恐れ入ります」
「十六と聞いた」
「はい」
政宗は、ゆっくりと近づいてきた。
そして、俺の前で足を止めて、こう言った。
「――そなた、わしを見ておらなんだな」
俺は、動きを止めた。
「……いえ。拝見しておりました」
「嘘を申せ」
政宗が、笑った。
嫌な笑い方だった。
「広間中がわしを見ておった。皆、息を呑んでおった」
男は言った。
「じゃが、そなたは違った」
「――そなたは、帳面を見ておった」
俺は、答えなかった。
(……見られてた)
この人は、平伏しながら、広間全部を見ていたのだ。
誰が息を呑み、誰が同情し、誰が同情していないか。
(芝居をしながら、客席を数えてる)
「何を書いておった」
政宗が聞いた。
俺は、しばらく迷った。
嘘をつくべきか。誤魔化すべきか。
――だが、この人には、たぶん通じない。
俺は、顔を上げた。
「――会津の、石高にございます」
伊達政宗の顔から、笑いが消えた。
「……何じゃと」
「四十二万石が浮きまする」
俺は言った。
「あそこは、白河から北へ抜ける道と、越後へ抜ける道が交わりまする。……誰が入るかで、この先の奥州が変わりまする」
俺は、正直に続けた。
「それを、書いておりました」
長い、沈黙があった。
伊達政宗は、微動だにしなかった。
やがて、その左目が、細くなった。
「――わしが首を差し出しておる横で」
「はい」
「わしの土地の値段を数えておったのか」
「――はい」
俺は、頭を下げた。
「ご無礼を、お詫び申し上げます」
「――ふ」
「――く、く、く」
伊達政宗が、笑い出した。
今度は、腹の底からだった。
「はははは! これは面白い!」
男は、白い袖を翻して、俺の周りを一周した。
「わしはな、今日、あの広間で、五十人ばかりの心を掴んだつもりでおった」
政宗は言った。
「白装束は効く。あれで泣いた者もおる。……皆、わしを憐れんだ」
男は、俺の前で足を止めた。
「じゃが、そなたは憐れまなんだ」
「――そなたは、勘定しておった」
伊達政宗は、身をかがめて、俺の顔を覗き込んだ。
左目が、すぐそこにあった。
「羽柴秀定と申したな」
「はい」
「――覚えておこう」
男は、身を起こした。
そして、去り際に、こう言った。
「――伊豆は、遠いのう」
白い背中が、遠ざかっていった。
俺は、その場に膝をついたまま、動けなかった。
(……今の)
(「伊豆は遠い」って、どういう意味だ)
遠いから、争うことはない、という意味か。
――それとも。
(遠いから、こちらへ来ることはあるまいな、という意味か)
俺は、立ち上がって、袴の埃を払った。
(……近いうちに、行くことになる)
俺は、そう思った。
この秋、奥州は燃える。
葛西と大崎が一揆を起こし、九戸政実が城に籠もる。
――俺は、それを知っている。
*
八月一日。
関白の本隊が、宇都宮を発って、白河の関へ向かった。
俺も、その中にいた。




