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第二十二話 公方の姫

 評定から、三日後だった。

「羽柴様。関白様が、お呼びにございます」

 宿所で帳面を広げていた俺は、筆を置いた。

 (……何だ)

 伊豆十万石は、もう頂いた。

 礼も申し上げた。口上も述べた。膝も笑わせてもらった。

 これ以上、あの人に呼ばれる用件が思いつかない。

 (呼ばれて良かった試しがないんだよな、この三月)

 俺は、肩衣を直して、宇都宮城へ向かった。

 評定の間に通されて、俺は、一歩目で足を止めそうになった。


          *


 座敷は、静かだった。

 静かすぎて、敷居の手前で一度、息が詰まった。

 上座に、関白がいた。

 その脇に、石田三成と大谷吉継が控えていた。

 そして。

 下座に、女がひとり、俯いて座っていた。

 (……何だ、この空気)

 息を吸うと、胸の奥が重くなる。

 通夜の席の、焼香の列に似ていた。

 石田三成が、俺を見た。

 ――目を、逸らした。

 大谷吉継は、逸らさなかった。

 逸らさずに、ほんの少しだけ、目で会釈をした。

 (……何だ、その顔)

 (ご愁傷様、って顔してるぞ、二人とも)


          *


 関白が、顔を上げた。

 俺を見た。

 ――笑った。

 見たことのない顔だった。

 石垣山で一夜城を見せたときも、こうではなかった。

 十万石をくれてやると言ったときも、こうではなかった。

 目尻の皺が、全部いっぺんに寄っていた。

「――おお、秀定!」

 関白は、手招きをした。

 膝の上から、小さく、何度も。

「よう来たな。よう来た。ささ、これへ」

 (……この顔、知ってる)

 前世で、何度も見た。

 揉めに揉めた現場を抱えた、元請けの所長の顔だ。

 下請けの監督が事務所の戸を開けた瞬間に、所長はこういう顔で笑う。

 ――助かった、という顔だ。

 (嬉しいんじゃない)

 (ほっとしてるんだ、この人)

 座敷で笑っているのは、関白一人だった。

 その笑顔が明るいぶん、下座の女の俯きが暗く見えた。

 (――これは、来るな)

 (しかも、でかいのが来る)

 俺は、平伏した。

「お召しにより、罷り越しましてございます」

 顔を上げると、座は決まっていた。

 俺の席は、女より、上座だった。

 (……上座か)

 四日前まで五百石だった男が、二十いくつの女人より上に座らされている。

 この座り位置そのものが、すでに何かの答えだった。

 俺は、目だけで、その人を見た。

 二十二、三、というところか。

 整った顔立ちだった。だが、頬がこけていた。

 目の下に、黒いものがある。何日も寝ていない目だ。

 着物を見た。

 ――木綿だった。

 絹ではない。染めも粗い。袖口が、少し擦り切れている。

 継ぎこそ当たっていないが、幾度も洗った布の色をしていた。

 髪も、油を使っていない。

 (……国人の娘か、嫁だな)

 俺は、そう当たりをつけた。

 千石か、二千石か。せいぜい数千石の在地領主。

 城と呼んでいるものは実際には館で、家来は五十人もいない。

 奥方が自分で帳面をつけ、自分で味噌を仕込む家。


          *


 俺は、その人の手を見た。

 膝の上に揃えられた指の節が、太かった。

 (――働いてる手だ)

 俺の中で、少しだけ、その人の像が変わった。

 これは、奥で歌だけ詠んでいた姫ではない。

 ――家を、回していた人だ。

 ふと、上座へ目をやった。

 関白の目も、同じところにあった。

 女の顔ではなく、膝の上の、その手に。

 (……この人も、手を見るのか)

 (そうか。この人も、手で食ってきた側だ)

 草履取りから上がった男は、人の値打ちを顔では量らない。

 手と、足と、着物の擦り切れ方で量る。

 その関白が、女人を前にして、一度も軽口を叩いていなかった。

 (……笑えないんだ、この座敷では)

 (だから、俺が入ってきたとき、あんなに笑った)

 関白が、扇で下座を指した。

「――嶋よ」

「……はい」

「これが、羽柴秀定じゃ」

 関白は、その扇の先を、今度は俺に向けた。

「わしの弟、大和大納言秀長の養子でな。豊臣の一門じゃ」

「此度の小田原で、伊豆一国七万石と、相模のうち箱根・足柄・小田原の西口で三万石――都合十万石をくれてやったばかりの男よ」

 (……紹介された)

 (なぜ、俺が先だ)

 俺は、腹の底が冷たくなるのを感じた。

 この座は、俺のために設けられている。

 でなければ、天下人がわざわざ、下座の女人に、十六の若造の石高まで読み上げてやる理由がない。

 (……品書きだ、これは)

 女が、こちらへ向き直った。

 そして、両手をついた。

「――足利、嶋にございます」

 俺は、息を止めた。

 (……足利?)

 声は、掠れていた。

 顔は、悲しみに沈んだままだった。

 ――だが、所作は、寸分も乱れなかった。

 膝の送り方。指の揃え方。頭を下げていく速さ。

 どれ一つ、崩れていなかった。

 (……綺麗だ)

 俺は、四十年、人の頭の下げ方ばかり見て生きてきた。

 だから、分かる。

 (――これは、習った型だ)

 (それも、俺なんぞが習ったものより、ずっと上等な)

「小弓公方、足利頼純が娘じゃ」

 関白は、こともなげに言った。

「関東の、公方様の家よ」

 俺は、その木綿の着物を、もう一度見た。

 (……嘘だろ)


          *


 足利。


 源氏の棟梁。二百年、京で将軍をやっていた家。

 その分家が関東へ下って、古河と小弓に分かれて、公方を名乗った。


 ――その姫が、洗い晒しの木綿を着て、そこに座っている。

 (家が潰れるって、こういうことか)

「――秀定。下野の塩谷を存じておるか」

「……名のみは」

「五千石じゃ」


 関白は言った。


「宇都宮の下におった国人でな。喜連川に倉ヶ崎という城を持っておった」

 俺は、頭の中で帳面を開いた。

 (五千石。……持っておった、と仰せになった)

 (過去形だ)

「当主を、塩谷惟久と申す。この女子の、亭主じゃ」


 関白は、扇を開いた。


「――逃げおったわ」

 嶋子の肩が、わずかに動いた。

「北条に付くか、こちらに付くか、ぐずぐずしておってな。裁きを恐れて、城を捨てて出奔しおった」


 関白は、面白くもなさそうに言った。


「家来も、城も、田も、女房も、置いてじゃ」

 俺は、動かなかった。

 (……女房を、置いて)

 (そこにおられる人か)

「塩谷は、改易じゃ」


 関白は言った。


「本領安堵はできぬ。当主が逃げた家を残せば、逃げた者勝ちになる。……のう、秀定」

「――仰せの通りにございます」

 俺は、正直にそう答えた。

 これは、庇いようがない。

 現場の頭が、検査の前日に飛んだ。それだけのことだ。

 どんな事情があっても、残された者は元請けから信用されない。

 (……そして、残された者が、そこに座っている)

「じゃがな」

 関白が、扇を閉じた。

「この女子は、亭主の始末をつけに、たった一人でここへ来おった」

 俺は、その人を見た。

 (――一人で)

 夫が逃げた家の妻である。


 行けば、その場で首を刎ねられても文句の言えない立場だ。

 その足で、十万の軍勢がおる城まで、歩いて来た。

「弟がおる」

 関白が続けた。


「足利国朝。十九じゃ。下に、頼氏という十一の弟もおる。……いずれも、領地はない」

「父の頼純は、もうおらぬ。塩谷の家で、死んだそうな」

 俺は、頭の中の帳面に、一行ずつ書き込んでいった。

 ――父、没。

 ――亭主、逐電。

 ――弟二人、領地なし。塩谷の家の、居候。

 (……男手が、一人もいない)

 家長がいれば、家長が来る。

 亭主がいれば、亭主が来る。

 どちらもいないから、この人が来た。

 木綿のまま、何日も寝ずに、十万の軍勢の真ん中へ。


          *


「嶋」

 関白が、下座へ言った。

「わしに申したことを、秀定にも聞かせてやれ。……そのままでよい」

 嶋子が、顔を上げた。

 俺の方へ、膝を向け直した。

 この人は、それを二度目の口上として述べた。

 二度目なのに、一字も崩さなかった。

「塩谷の家名は、願い上げませぬ」

「主が城を捨てた家にございます。申し開きの言葉を、わたくしは持ちませぬ」

「願い上げまするは、小弓の家にございます」

「弟が、二人ございます。上は十九、下は十一。……いずれも、足利の男子にございます」

 そこで、一度だけ、息を継いだ。

「――わたくしの身は、殿下の御存分に」

 座敷が、しんとした。

 (……値を、付けたのか)

 (自分で、自分に)

 俺は、前世で一度だけ、同じ話を聞いたことがある。

 会社を畳む日の、孫請けの社長だった。

 事務所に来て、職人の引き取り先だけを頭を下げて頼んでいった。

 自分の身の振り方は、最後まで一言も言わなかった。

 (――あれと、同じだ)

 この人は、塩谷の家を最初から捨てている。

 捨てたうえで、残せるものだけを勘定して、一番高い札を自分に付けた。

 泣きつきに来たのではない。

 売り込みに来たのでもない。

 ――値の決まった品を、納めに来たのだ。

「わしはな、秀定」


 関白は、庭を見た。


「名門が絶えるのは、好かん」

 俺は、平伏したまま、頭の中で算盤を弾いていた。

 (――違うな)

 (好き嫌いの話じゃない)

 関東は、今日から徳川大納言家康のものになった。


 二百五十万石。日ノ本で一番大きい家である。


 その関東に、「公方」の家を一軒、独立して置く。

 (――目印を打つんだ)

 徳川の懐に、徳川のものではない旗を一本立てておく。


 それだけで、関東の国人衆は「上には関白様がおられる」と毎日思い出す。

 (それに、この人を野に置いたら、どうなる)

 足利の姫が、行き場もなく関東をさまよう。

 拾う者は、必ず出る。

 一番拾いたいのは、箱根の向こうの二百五十万石だ。

 関東の国人衆にとって、公方の名はまだ死んでいない。

 それを徳川が抱えれば、徳川は「公方様を守る関東の主」になる。

 (……だから、先に囲う)

 (旗を立てて、旗の周りに柵を巡らす)

 (うまいな、この人)

 (……で、その柵の番人は、誰だ)

 関白が、わざとらしく咳をした。

「――こほん」

 (来た)

「秀定」


「はっ」

「塩谷の旧領、喜連川より三千五百石を割く」

「――は」

「足利国朝に与え、小弓の家を再興させる。倉ヶ崎の城も、そのまま使わせよ」

「――ははっ」

「そなたが、後見役じゃ」

 (……あ、はい)

 (それは分かる。それは、分かるが)

「それから、な」

 関白は、実に軽い調子で言った。

「この嶋を、そなたの側室にせよ」

 関白は、扇で畳を、こつ、と打った。

「――上意じゃ」

「――ははっ! ありがたき幸せに存じ奉りまする!」

 俺の口は、そう言っていた。

 畳に額をつけて、寸分の狂いもない角度で。

 (――何を言ってるんだ、俺の口はァァァ!)

 条件反射である。

 前世で四十年、俺は上から降ってくるものに「はい、ありがとうございます」と言い続けて生きてきた。


 工期の短縮も、追加工事も、人員の引き抜きも、全部そうだ。


 考えるより先に、腹が動いて、頭が下がって、口が礼を言う。


 ――そういう身体になっている。

 (いや待て、待て待て待て)

 (俺、まだ祝言も挙げてないんだが)

 (正室より先に側室が来るのか。順番が逆だろ。工程が逆だろ)

「――秀定」

 関白が、俺を見下ろしていた。

「そなたには、織田の姫を娶らせる。それは変えぬ」


 男は言った。


「じゃが、関東に足利を置く以上、足利の血を、そなたの家に一筋入れておきたいのじゃ」

「――は」

「箱根の向こうは徳川じゃ。……そなたの家は、それの隣に建つ」

 (――ああ、そういうことか)

 俺の家は、今日から、徳川と関白の間に立つ杭になる。


 その杭に、織田の血と、足利の血を、両方巻きつけておく。

 (……手数料はいただけますかね)

 (いただけないんだろうな。むしろ管理費は俺持ちだ)

 顔を上げると、関白は、また、あの顔で笑っていた。

 さっきより、少しだけ、肩の位置が下がっていた。

 (――荷を、下ろした顔だ)

 (下ろした先は、俺の背中だけどな)

「――嶋」

 関白が、下座へ声をかけた。

「そなたの家は、残る。弟に継がせる。……よいな」

 女は、深く、深く平伏した。

「――御恩、生涯、忘れは致しませぬ」

 その肩が、震えていた。

 だが、声は出さなかった。

 (……あの泣き方)

 俺は、それを見ていた。

 声を出さずに泣く人間を、俺は前世で何人も見ている。


 現場の詰所の裏で。会社の階段の踊り場で。


 ――声を出したら、次の日から居場所がなくなると知っている人間の泣き方だ。

 (慣れてるな、この人)

 関白は、それを見ていなかった。

 扇を開いて、庭の方を向いていた。

 (……見ないでやってるのか)

 (それとも、見ていられないのか)

 どちらなのか、俺には分からなかった。

 天下人の顔は、どちらの時も、同じ形をしている。


          *


 退出して、廊下に出た。

 石田三成が、書付を持って追ってきた。

「羽柴殿」


「……はっ」

「喜連川三千五百石、検地はまだじゃ。塩谷の帳面も、当主が持ち去ったか焼いたか、残っておらぬ」

 三成は、書付を差し出した。

「――何もないところから起こしていただくことになる」

「……承知いたしました」

 (帳面がない現場を引き継ぐの、この世で一番嫌いなんだが)

 三成は、少しだけ間を置いて、こう言った。

「――ご愁傷様、とは申さぬ」

「……」

「あの女人は、腹を切る覚悟でここへ来た。それだけは、申し上げておく」

 その後ろから、大谷吉継が歩いてきた。

「治部はな、羽柴殿」

 頭巾の下で、声が少し笑っていた。

「最初は、塩谷の縁者は国払い、と書いておったのよ」

 三成の眉が、ぴくりと動いた。

「……書き直した」

「規矩どおりに書けば、国払いじゃからの」

「規矩は、曲げておらぬ」

 三成は、前を向いたまま言った。

「塩谷は改易。足利は別の家。……筋は、立つ」

 (――書き直したんだ、この人が)

 夫の縁者として国を追えば、それで片付く。

 帳面の上では、それが一番きれいな処分である。

 それを、この人は、筋を立て直してまで書き直した。

「あの女人はな」

 吉継が、声を低くした。

「弟二人を、町の寺に置いて参ったのじゃ。庫裏の隅を借りてな」

「……一人で、と伺いました」

「うむ。首を刎ねられるなら、わたくし一人で足りまする、とな」

 俺は、しばらく、何も言えなかった。

 (弟を、連れて来なかったのか)

 (――連れて来たら、一緒に斬られるから)

 木綿の膝の上の、節の太い手を思い出した。

 あの手で、この人は、自分の首だけを差し出しに来たのだ。

「それとな、羽柴殿」

 吉継が言った。

「あの姫は、野には置けぬ」

「――はい」

「置けば、誰かが拾う。拾うた者が、公方の後見を名乗る」

 頭巾の奥の目が、東を見た。

 箱根の方角だった。

「囲うなら、一門しかない。……関東の隣に家を持つ一門は、そなた一人じゃ」

 (……俺が考えたのと、同じ勘定だ)

 (この人は、それを、座敷に入る前に済ませてたのか)

 吉継は、そこで、いつもの声に戻った。

「羽柴殿。奥の差配はな」

 男は、笑っていた。

「――普請より、難しゅうござるぞ」

 (分かってるよ!)

 俺は、その足で、蒲生飛騨守の陣へ行った。

 我ながら、情けない。

 だが、他に相談できる相手がいなかった。

 実家の父に言えるはずがない。養父にも言えない。

 弥七や新九郎に言えば、翌朝には四百十六人全員が知っている。

 ――そして、相手は、あの人の娘である。

 蒲生氏郷は、話を最後まで黙って聞いた。

 それから、腕を組んで、長いこと唸っていた。

「……む」

「……むむ」

 (唸ってる)

 (この人でも唸るのか)

「秀定殿」


「はっ」

「上意は、断れぬ」


「……はい」

「断れば、そなたが潰れる。そなたが潰れれば、あの女人も、足利の家も、共に潰れる」

「……はい」

 氏郷は、そこで言葉を切った。

 そして、まっすぐ俺を見た。

「――ならば、春に、正直に申せ」

「包み隠すな。今日聞いたことを、今日のうちに、そのまま話せ」


 氏郷は言った。


「取り繕えば、後から必ず露見する。人の口は塞げぬ。……あれは、他人から聞かされるのが、一番こたえる」

「……」

「これから夫婦になるのだ」

 男は、静かに続けた。

「春も、武家の娘じゃ。……致し方なきことは、分かってくれる」

 俺は、頭を下げた。

「――お恥ずかしい限りにございます」

「なんの」

 氏郷は、立ち上がって、俺の肩を叩いた。

「――わしも、同座しよう。……いや、やめておこう。わしがおっては、あれが言いたいことを言えぬ」

 (……本当に、この人は)

 その日の夕方。

 俺は、蒲生の陣の奥の座敷で、春姫と向かい合っていた。

 二人きりだった。

 俺は、全部話した。

 塩谷という家が潰れたこと。


 当主が城と家来と妻を置いて逃げたこと。


 その妻が足利の姫であること。


 関白が、その人を俺の側室にせよと命じたこと。

 言い訳を、一つも挟まなかった。

 「断れなかった」も言わなかった。


 ――事実だが、あれは自分を守るための言葉だ。

 春姫は、最後まで黙って聞いていた。

 そして、一瞬。

 ――嫌な顔を、した。

 眉が、ほんの少し寄って、目が伏せられた。


 口元が、わずかに引き結ばれた。

 一瞬だった。

 だが、俺は、それを見た。

 (……見えたぞ、今)

 (十三だもんな。そりゃそうだ)

 俺は、待った。

 急かさなかった。

 やがて、春姫が顔を上げた。

 もう、いつもの顔に戻っていた。

「――致し方のなきことにございます」

 娘は、はっきりと言った。

「関白様の上意にございましょう。……お受けなさるより、ほかにございませぬ」

 あっさりしていた。

 あっさりしすぎていて、俺は、少し胸が痛くなった。

 (この子は、たぶん、こういう話を何度も見てきたんだ)

 織田の家で。蒲生の家で。


 女がどこへ嫁ぐか、誰が側に入るか、それを誰も本人に聞かない世界で。

「……申し訳ございませぬ」

 俺は、頭を下げた。

「丘で、家を一緒に作ってくれと申し上げたばかりにございます。……その家に、まだ普請も始まらぬうちから、人が一人増えました」

「殿様」

 春姫が言った。

「その方は、どのようなお方にございますか」

 俺は、顔を上げた。

 (……そこを聞くのか)

 俺は、正直に答えた。

「木綿を着ておられました」


「……木綿」


「洗い晒しの、袖の擦り切れた木綿にございます。手の節が太うございました」

 俺は続けた。

「――あれは、自分で家を回してきた者の手にございます」

 春姫が、目を伏せた。

 しばらくして、こう言った。

「……お可哀想に」

 俺は、何も言えなかった。

「殿様」

「はい」

「奥のことは、わたくしにお任せくださいませ」

 十三の娘が、背筋を伸ばして言った。

「それが、正室の役目にございます」

 (――やめてくれ)

 俺は、内心でそう思った。

 (十三に、そんな顔をさせるな)

 俺は、畳に手をついた。

「――一つだけ、お約束いたします」

「はい」

「隠し事は、いたしませぬ」

 俺は言った。

「これから先も、こういうことは、また起こりまする。……その度に、某は、あなた様に一番先に申し上げます」

 春姫は、しばらく俺を見ていた。

 そして、ほんの少しだけ、笑った。

「……はい」

「今日、真っ先にお話しくださいましたこと。……忘れませぬ」

 陣を辞して、外へ出た。

 日が落ちていた。

 俺は、宿所へ戻って、帳面を開いた。

 ――喜連川 三千五百石。


 ――足利国朝 十九。頼氏 十一。


 ――検地帳、なし。年貢の帳面、なし。家臣の名簿、なし。


 ――後見役 羽柴秀定。

 俺は、筆を止めた。

 (……現場が、また一つ増えた)

 前世で、俺のいた会社は、現場が三つから七つに増えた半年で壊れかけた。


 仕事が増えて死ぬんだ、ああいう会社は。

 伊豆七万石。相模三万石。そこへ、下野の飛び地が三千五百石。


 しかも一番遠い現場に、一番人手がなくて、一番帳面がない。

 (……回るのか、これ)

 俺は、帳面の隅に、もう一行、書き足した。

 ――足利嶋。二十三。

 俺は、その名を、しばらく見ていた。

 父は、もういない。

 亭主は、逃げた。

 弟たちは、寺の庫裏の隅で、姉の帰りを待っている。

 (……あの人にも、帰る家がないのか)

 俺には、なかった。


 春姫にも、なかった。

 ――三人目である。

 俺は、筆を置いて、行灯を吹き消した。

 (家を建てるって、言ったもんな、俺は)

 八月一日、関白の本隊は、白河の関へ向かう。


 奥州は、これからだった。

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