第八話 鬼松
韮山城は、思っていたより低い城だった。
伊豆・韮山。狩野川と沼に囲まれた、小高い丘の上にある。
高さは大したことがない。だが三方が水で、寄せ手は正面から細い道を上がるしかない。しかも城の背後には天ヶ岳という山が控えていて、そこに砦がある。
――なるほど。
俺は初めてその城を見たとき、しばらく動けなかった。
攻めるとしたら正面。だが正面は狭い。狭いところに兵を突っ込めば、上から鉄砲と石で削られる。数の利が消える。
だから四万四千が一月動けない。
包囲陣の中で、俺に割り当てられた場所は、当然のように隅も隅だった。
四百十六人。四万四千の中では、いてもいなくても変わらない数である。
俺の隊は、着いた日にまず厠を掘った。
それを見ていた隣の陣の連中が、腹を抱えて笑っていた。
*
それから数日、俺は毎日、城の周りを歩いた。
韮山城の水がどこから来ているのか。
沼の深さはどれほどか。どこが浅いか。
天ヶ岳の砦から本丸まで、どういう道が通っているか。
そして――誰が、どの曲輪を守っているか。
竹の尺と紙束を持って、供に伊賀者だけを連れて歩いた。あの名無しの男は、こちらが何も言わなくても要る場所へ先に立っていた。便利すぎて少し怖い。
村にも入った。
最初は誰も口をきいてくれなかった。当然である。
だが、井戸端で水を汲む婆さんに「その井戸、いつも澄んでいるか」と聞いたら、「夏は濁る」と返ってきた。それが最初の一言だった。
そこから少しずつ、話ができるようになった。
どの道が城へ抜けるか。どこの田が沼になるか。城の誰それが村に何を言ってきたか。
――百姓は、城の中身を知っている。
当たり前だ。年貢を納め、普請に駆り出され、城の飯を作っているのは彼らだ。
どんな城でも、堀の外に情報は漏れている。誰も百姓に聞かないだけだ。
*
四月の終わり。
その日も俺は、天ヶ岳の裾を回って、沼の水位を測って戻る途中だった。
日が傾いていた。
村の外れに差しかかったとき、伊賀者が、すっと足を止めた。
俺には何も聞こえなかった。
「――何だ」
男は答えず、顎で村の方をしゃくった。
次の瞬間、俺の耳にも届いた。
悲鳴だった。
*
走った。
畦を跳んで、垣を越えて、納屋の脇を回り込んだ。
見えた。
地面に、老人が倒れている。頭から血を流している。動いていない。
その横で、若い男が――たぶん息子だ――蹴り倒されて、腹を抑えて呻いている。
そして、その先。
納屋の壁に押し付けられて、着物を引き裂かれている娘がいた。
十六か、十七か。俺と同じくらいだ。
押さえつけている男が二人。
俺は、その二人の顔を知っていた。
――うちのだ。
帳面の、確か百七十番台と、二百番台。
名前が、出てこなかった。
*
男の一人が、こちらに気づいた。
振り返って、俺の顔を見て、驚いて、そして――笑った。
媚びるように、笑った。
「あ、殿。……こ、これは」
言い訳をしようとしている。
その顔が、俺の中の何かを踏み抜いた。
「他の陣も、皆やっておりますれば」
*
――ぶっ殺してやる。
言ったのか、思っただけなのか、自分でも分からなかった。
気がついたら走っていた。
鞘を払う手間も惜しくて、抜きながら走った。
男の顔から笑いが消えた。何か言おうとした。
俺の刀は、その口を開けた顔ごと、首の付け根に落ちた。
手に、恐ろしく重い衝撃が来た。
刀は骨に食い込んで、止まった。
抜けない。
男が、けたたましい声を上げた。人間の声に聞こえなかった。血が噴き出して、俺の顔にかかった。生温かかった。
俺は柄を両手で握り直して、体重を乗せて引いた。
肉と骨が擦れる感触が、腕を伝って肩まで来た。
男が倒れた。まだ動いていた。
もう一人が、腰を抜かして這って逃げようとしていた。
娘を放り出して、四つん這いで、地面を掻いていた。
「殿、殿ッ、お許しを、お許しを――」
俺は、その背中に飛び乗った。
馬乗りになって、刀を逆手に持ち替えて、首の後ろに突き立てた。
一度で終わらなかった。何度もやった。骨に当たるたび、腕が痺れた。
男は途中まで喚いていて、途中から喚かなくなった。
*
立ち上がったとき、俺は全身が濡れていた。
顔も、腕も、小袖も。
鉄の匂いがした。
誰も動かなかった。
娘は、破れた着物を掻き合わせて、目を見開いたまま俺を見ていた。
その目に浮かんでいたのは、感謝ではなかった。
――恐怖だ。
当たり前だ。
目の前で、人間が二人、頭の壊れた男に切り刻まれたのだ。助けられたなどとは思わない。
俺は、自分の羽織を脱いだ。
血で汚れていた。汚れていない裏側を表にして、それを娘の肩にかけた。
何か言おうとした。
――大丈夫だ、とか。もう終わった、とか。
何も出てこなかった。
声が、喉の途中で固まって出てこなかった。
だから俺は、何も言わずに背を向けた。
*
二つの首を、髪を掴んで持ち上げた。
思っていたより重かった。片手で一つずつ持つと、腕が引き攣れた。
村の入口に、高札場がある。
村の掟や年貢のお触れを掲げる、板を立てただけの粗末なものだ。その脇に、大きな松が一本生えていた。
俺は、その松の低い枝に、二つの首を掛けた。
そのころには、俺の隊の連中が駆けつけていた。
二十人ばかりが、村の入口で棒立ちになっていた。
誰も、何も言わなかった。
俺は振り返った。
顔が血だらけなのは、自分でも分かっていた。
「――この二人は、村の家に押し入り、女に手をかけた」
声が、自分のものではないみたいに響いた。
「法度は、聞かせてある」
誰も動かない。
「俺の隊で、民に手をかけた奴は」
俺は松の枝を指した。
「――全員、こうだ」
*
それから先のことは、あまり覚えていない。
誰かが俺の手から刀を取り上げた。
誰かが桶に水を汲んできた。
誰かが俺の袖を引いて陣まで連れ帰った。たぶん岩室だ。
陣幕に入って、床几に座らされて、俺はしばらくじっとしていた。
顔を拭いた。
拭いても拭いても、爪の間の赤いのが落ちなかった。
*
湯を沸かす音が、外から聞こえてきた。
今日も、誰かが釜に火を入れている。
いつもの音だ。俺が毎日やらせている、あの音だ。
その音を聞いているうちに、手が震え始めた。
止まらなかった。
膝の上で組んだ手が、勝手にがたがたと鳴っている。
押さえようとして、押さえられなかった。
(……何だこれ)
昨日までは、普通に持てていた手だ。
(……何だ、これ)
吐こうとした。吐けなかった。
鶏の一件のときは吐いた。あのときは吐けた。
今日は、吐けない。
喉の奥が閉まったまま、胃だけが握り潰されるように痛かった。
石を飲み込んで、それが焼けているような痛みだった。
(……胃が、破裂する)
俺は前のめりになって、腹を抱えた。
*
――前世で、俺は一度も人を殴らなかった。
現場で怒鳴られても、施主に土下座させられても、下請けに裏切られても、殴らなかった。
殴ったら終わりだからだ。どんなに正しくても、手を出した方が負ける。それが四十年の常識だった。
その常識で四十年、俺は生きてきた。
なのに今日、俺は人間を二人、自分の手で殺した。
切れない刀で、何度も、何度も、叩きつけて。
(……あれは、法度じゃない)
それだけは、はっきりしていた。
鶏のときは、法度だった。
だから原に頼んだ。俺の怒りを混ぜないために。
今日は違う。
俺は法度で斬ったんじゃない。
――あの顔が、許せなかっただけだ。
「他の陣も、皆やっておりますれば」。
あの言い訳。あの、媚びるような笑い方。
(前世でも、いたよ)
安全帯を付けずに足場に上がって、注意したら「他の現場じゃ誰も付けてませんよ」と笑った男。
産廃を山に捨ててきて、「みんなやってることでしょう」と言った男。
あのときは、怒鳴るだけで済んだ。
ここには、そのやり方がない。
*
どれくらいそうしていたか分からない。
幕の外から、遠慮がちな声がした。
「――殿」
佐田新九郎だった。まだ二十歳そこそこの、豊前の男。
「……何だ」
「村の者が、参っております」
俺は顔を上げた。
「あの娘の、身内かと」
*
俺は幕の外へ出た。
立っていたのは、腹を蹴られていた若い男だった。まだ顔が腫れている。
その足元に、莚に包まれたものが置かれていた。
男は、俺を見た瞬間、びくりと肩を跳ねさせた。
そして、深く、深く頭を下げた。
何も言わなかった。言えないのだと思った。
俺も、何も言えなかった。
男は莚の包みを俺の足元に押し出すと、逃げるように帰っていった。
開けてみると、卵が四つ入っていた。
*
俺は、その場に座り込んだ。
卵を四つ、両手で持って、しばらく動けなかった。
鶏一羽を盗んだ男を、俺は殺した。
その村の男が、卵を四つ持ってきた。
差し引きも、釣り合いも、何もあったものではない。
ただ――
ただ、この村では、今日、誰も死ななかった。
娘は生きている。老人も、頭を割られたが息をしているという。
(……それでいい)
俺は、そう思うことにした。
そう思わないと、立てなかった。
*
その名が広まったのは、翌日からだった。
村の高札場の松に、首が二つ掛かっている。
掛けたのは、豊臣の陣の、まだ元服したばかりの若い侍らしい。
村では、こう呼ばれた。
――松に首を掛けた鬼。
そして、豊臣の陣の中では、別の言い方が広まった。
小出俊定は、つい先ごろまで木下松之助といった。関白の縁者の、まだ幼名も抜けきらぬ小僧である。
――あの松之助が、鬼になった。
その二つが、どこかで混ざった。
*
――鬼松。
俺がその呼び名を耳にしたのは、三日後だった。
厠を掘っている俺の隊の脇を、隣の陣の兵が通りかかって、こう囁いていったのである。
「あれが鬼松の隊だ。……近づくな。あそこは、鶏一羽で首が飛ぶ」
俺は、掘る手を止めなかった。
ちょうどそのころ。
包囲を続けたまま動かない四万四千の陣に、一つの噂が流れ始めていた。
――韮山城の重臣、江川英吉。
――あの男が、徳川と通じているらしい、と。




