第七話 法度
四百十六人。
伊豆へ発つ朝、俺の帳面に並んだ名の数である。
編成は、京を出る前に済ませた。
十人を一組にして、組頭を置く。
組頭は組の者の名と顔を覚える。飯の数を数える。銭を配る。誰がどこにいるかを把握する。
組頭五人で一手。手には手頭を置く。
鉄砲を持てる者は岩室弥七の下に集めた。四十二人いた。根来と雑賀の生き残りが中心である。
槍と足軽は原孫兵衛。この老人は無口だが、隊列の組ませ方が異常にうまかった。武田の足軽大将だったというのは本当らしい。
若い者と、素性の入り組んだ連中は佐田新九郎に付けた。まだ二十歳そこそこの男に人を預けるのは早いが、あの日、河原で泣き崩れた男を末端に置いておくのは違うと思った。
「――若ぇの。なんで俺たちの名を、全部書く」
出立の前、岩室が帳面を覗き込んで聞いた。
「銭を払うのに要る」
「そんなもんは、組頭が覚えときゃ済む話だ」
「組頭が死んだらどうする」
岩室が、口を閉じた。
「死んだ組頭の頭の中にしか名がなければ、そいつは死んだと同時に、この世からいなくなる。……誰にも弔われずにな」
俺は筆を止めずに言った。
「弔うためには、名が要る」
岩室は、しばらく黙って俺の手元を見ていた。
*
行軍そのものは、ひどく地味だった。
一日の行程を、他の軍勢の七割に抑えた。
「遅いぞ」と何度も言われた。実際、東海道では次々に追い抜かれた。
だが俺は速度を上げなかった。
――足が潰れた兵は、その日から荷物だ。
前世でも、無理な工程を組んだ現場は必ず後半で死ぬ。序盤で人を壊すと、終盤に人が足りなくなる。二割の余裕は、贅沢ではなく設計である。
朝、出立の前に全員の足を見せた。
俺自身が並んで見た。豆が潰れている者、爪が黒くなっている者は、草鞋を替えさせ、荷を軽くし、それでも駄目なら荷駄に乗せた。
「……侍が、足軽の足を見るのかよ」
誰かが呆れたように言った。
「見なきゃ分からんだろうが」
俺は答えた。
*
揉めたのは、水である。
俺は、生水の飲用を一切禁じた。
汲む水は、必ず谷の上、人の住まぬところから取る。
汲んだ水は、必ず大鍋で煮立たせ、湯気が上がってからしばらく煮る。
冷ましてから飲む。飯を炊く水も、器を洗う水も、傷を洗う水も、全部だ。
これには、露骨に不満が出た。
「川の水がすぐそこに流れてるんだぞ」
「なんで一々沸かさにゃならん」
「喉が渇いてんだよ!」
もっともである。
目の前に澄んだ川があって、それを飲むなと言われれば、誰でも腹が立つ。
俺は説明した。何度も説明した。
「上流に別の陣がある。二十万が同じ川筋にいる。上で誰かが糞をすれば、それが流れてくる」
「そんなもん、昔からそうだ」
「昔からそうだから、昔から陣中で人が死ぬんだ」
それでも納得しない者には、こう言った。
「――軍法である」
これで終わりだ。
理屈で納得させられるならそうする。だが、納得しない相手を説得し続ける時間は、行軍中にはない。
最初の五日は、隠れて川の水を飲む者が絶えなかった。
*
六日目に、空気が変わった。
隣を進んでいた某家の一隊で、腹下しが出始めたのである。
最初は数人だった。次の日には数十人になった。
道端に蹲る兵が増え、その脇を隊列が黙って通り過ぎていく。荷駄に乗せられた者もいたが、乗せきれない者は置いていかれた。
俺の隊からは、一人も出なかった。
その晩、誰に言われるでもなく、隊の全員が黙って湯を待った。
文句は、それきり出なくなった。
「――若ぇの」
岩室が、湯呑みを持って隣に来た。
「あんた、あれが起きると知ってたな」
「知っていた」
「なぜ分かる」
「……水を見れば分かる」
嘘である。
だが、本当のことは言えない。
岩室は片目を細めて俺を見たが、それ以上は聞かなかった。
こういうとき、深く聞かないのがこの男の賢さだった。
*
厠にも、うるさく言った。
陣を張ったら、まず厠を掘らせる。飯より先である。
陣屋から十分に離れた風下、それも水の流れの下手に、深く掘る。用を足したら土と灰をかける。灰は竈からいくらでも出る。
「陣を張ってまず厠かよ」
「まず厠だ」
これも最初は笑われたが、五日もすると誰も文句を言わなくなった。
他の陣を通りかかったとき、鼻が曲がるような臭いと、真っ黒に集った蠅を見たからである。
*
そして、東海道を下るにつれ、俺は別のものを見るようになった。
焼けた家である。
街道沿いの村が、ところどころ黒くなっていた。
人はいない。田は踏み荒らされている。井戸に何かを投げ込まれた跡がある。
豊臣の軍が通った跡だった。
「……乱取りだな」
原孫兵衛が、感情のない声で言った。
「北条方の村ではありませんぞ。ここはもう味方の地でござる」
「味方の地でもやるのか」
「やりまする。誰も咎めませぬゆえ」
老人は淡々と言った。
「雑兵に払う銭など、どこの家も持っておりませぬ。ゆえに『取ってよい』ということにしておくのです。……あれが、雑兵の給金にござる」
俺は黙って焼け跡を見た。
――なるほど。
構造は理解した。理解した上で、腹の底が冷えた。
人件費を払わない代わりに、現場の近隣から勝手に取らせている。
払っていないから、統制もできない。統制できないから、際限がなくなる。
(……近隣クレームで現場が止まる、なんてもんじゃないな)
俺は隊列を振り返った。
四百十六人。飯を食い、銭を握り、草鞋を履き、湯を飲んでいる連中。
――こいつらには、払ってある。
だから、俺は取り締まれる。
*
駿河に入って三日目の朝、それは起きた。
組頭の一人が、青い顔で駆けてきた。
「――申し上げます。昨夜、村へ入った者がおりまする」
俺は筆を置いた。
「何を取った」
「……鶏を、一羽」
*
男は、二十七、八だった。
名を市蔵といった。帳面の三十一番目に、俺が自分で書いた名である。
根来でも武田でもない、ただの流れ者だった。京で拾った。よく働く男だった。
縄を打たれて引き出されたその男は、事の重大さがまるで分かっていない顔をしていた。
「あの、殿。……鶏、一羽にございます」
本当にそう思っているのだ。悪びれてすらいない。
「腹が減ったのか」
「いえ、飯は頂いております。……ただ、村の柵が緩んでおりましたゆえ、つい」
――つい。
俺は目を閉じた。
二十年、そうやって生きてきたのだ。
戦のあるところへ行き、取れるものを取り、食えるものを食う。それが当たり前だった。誰にも咎められなかった。咎める者がいなかった。
この男に悪気はない。
俺は目を開けた。
「――法度は、聞いていたな」
男の顔から、血の気が引いた。
「……お、お待ちくだされ。あの、鶏一羽にございますぞ。銭で贖いまする。三倍でも五倍でも」
「聞いていたな、と聞いている」
「……聞いて、おりました」
「そうか」
俺は立ち上がった。
*
四百十六人が、集められた。
誰も口をきかなかった。
全員が、縄を打たれて座らされている市蔵を見ていた。
俺は、その前に立った。
「――法度を破った者がいる」
声を張らなかった。張らない方が通る。
「村へ入り、鶏を一羽盗んだ」
どこかで、誰かが息を呑んだ。
「鶏一羽だ」
俺は繰り返した。
「三日分の飯にもならん。銭で贖えばそれで済む。……皆、そう思っているだろう」
沈黙。
「俺もそう思う」
どよめきかけた。
「――だから、斬る」
止まった。
「今日、鶏一羽を許す。明日、誰かが米俵を持ち出す。『鶏がよくて米が駄目な道理はない』と言う。……その通りだ。道理がない」
俺は隊列を見渡した。
「明後日、誰かが女を引きずり込む。『米俵がよくて女が駄目な道理はない』と言う。……その通りだ。一度でも例外を作れば、法度は死ぬ」
誰も動かなかった。
「法度は、破った者のためにあるんじゃない。破らなかった者のためにある」
俺は市蔵を見た。
「市蔵。お前はよく働いた。俺はお前の働きを知っている。……だが、法度を破った」
男は震えていた。歯が鳴る音がここまで聞こえた。
「殿……殿、お助けを……」
*
俺は、抜かなかった。
自分の手で斬るのは違う、と思った。
これは俺の怒りではない。法度だ。法度に感情を混ぜてはいけない。
「――原」
「はっ」
「頼む」
原孫兵衛が、無言で前に出た。
俺は目を逸らさなかった。逸らせば、俺が決めたことではなくなるからだ。
音は、思っていたより小さかった。
*
その後、俺は村へ行った。
鶏を盗まれた家に、銭を置いた。相場の五倍を置いた。
そして、頭を下げた。
村の者は、震えていた。侍が頭を下げるということが、この時代の百姓にとって何を意味するのか、俺にはよく分からない。
だが、しないよりましだと思った。
陣へ戻る道で、俺は誰とも口をきかなかった。
*
陣幕に入って、幕を下ろした瞬間。
俺は、桶に顔を突っ込んで吐いた。
朝から何も食っていなかったので、胃液しか出なかった。それでも止まらなかった。何度も、何度も、腹が引き攣るまで吐いた。
手が震えていた。
――俺が、殺した。
鶏一羽で、人を一人。
理屈は分かっている。さっき自分で全員の前で喋ったばかりだ。一度例外を作れば法度は死ぬ。法度が死ねば、次は村が焼ける。女が犯される。伊豆に入る前に、俺の隊は他の隊と同じものになる。
分かっている。
分かっているが、あの男は、鶏を一羽盗んだだけだ。
(……前世じゃ、書類一枚で済んだんだよ)
どれだけ悪質な作業員でも、最悪、現場から出入り禁止にするだけだった。
解雇通知に判を押すとき、俺は何日も眠れなかった。あれでも眠れなかった。
――ここは、そういう場所じゃない。
*
「――若ぇの」
幕の外から、声がした。
俺は慌てて口元を拭って、桶を隅へ蹴った。
「……何だ」
「入るぞ」
返事を待たずに岩室が入ってきた。
そして、桶を見た。俺の顔を見た。
何も言わなかった。
男は勝手にどっかと腰を下ろすと、懐から竹筒を出して、俺の前に置いた。
「水だ。沸かしてある」
俺は無言でそれを取って、口をつけた。
しばらく、二人とも黙っていた。
「……本当に、鶏一羽で斬るとはな」
岩室が、ぽつりと言った。
「鶏一羽で斬らなければ」
俺は答えた。喉が焼けていて、声が掠れた。
「次は、米俵で斬れなくなる。米俵で斬れなければ、女で斬れなくなる」
「……そうだな」
「そうしたら、俺は伊豆で終わりだ。領民に恨まれた領主が、どうやって国を治める」
岩室は、片目でじっと俺を見た。
「――で。あんた、平気なのか」
俺は竹筒を握りしめた。
嘘をつく気力が、そのときはなかった。
「……平気なわけが、あるか」
岩室が、小さく息を吐いた。
「そうかい」
それだけ言って、男は立ち上がった。
幕を出る前に、こちらを見ずに言った。
「――今日、逃げた奴は一人もいねぇよ」
俺は顔を上げた。
「あんたが吐いてるのは、俺しか知らねぇ。……だが、村に銭を置いて頭を下げたのは、全員が見てる」
岩室は、幕をくぐった。
「首を刎ねるだけの侍なら、掃いて捨てるほどいる。……刎ねた後で頭を下げる侍は、俺は初めて見た」
*
それから、隊で法度を破る者は一人も出なかった。
伊豆に入るまで、一人もである。
俺は毎日、飯を食わせ、銭を渡し、足を見て、湯を沸かさせ、厠を掘らせた。
そして毎晩、帳面に一人ずつ名を書き足していった。
市蔵の名の下には、朱で線を引いた。
消しはしなかった。
*
四月半ば、俺の隊は伊豆へ入った。
韮山城は、すでに一月以上、四万四千に囲まれていた。
そして――びくとも、していなかった。




