第六話 河原の狼たち
京へ戻るまでに四日かかった。
道中、俺は頭の中で数字をこねくり回していた。
韮山城の城兵はおよそ三千五百。
これを力で抜くなら、三倍から五倍が要る。一万から一万七千。
――無理だ。
どう考えても、俺が集められる数ではない。
だが、と俺は考え直した。
俺の仕事は城兵を皆殺しにすることじゃない。城を落とすことだ。
落とすとは、要するに「城主に城を明け渡させる」ということだ。
そのために必要なのは、押し潰す兵力ではない。
明日にも本当に押し潰せる、と相手に信じさせるだけの兵力だ。
俺は指を折った。
――五百。
――いや、四百でもいい。
四百でも、装備が揃っていて、動きが揃っていて、法度が行き届いていれば、遠目には千に見える。
逆に、二千の烏合の衆は、遠目には二千の烏合の衆にしか見えない。
現場でも同じだ。
人数を揃えただけの現場は、いくら人を入れても仕事が進まない。段取りが通っている二十人の方が、寄せ集めの五十人よりよほど早い。
――質を取る。
*
京に入って、まず米の手当てをした。
三成が出してくれた書き付けを持って、伏見の蔵へ行く。
だが、俺は米を担ぎ出さなかった。
「――現物では受け取りませぬ」
蔵の役人が怪訝な顔をした。
「はあ?」
「兵糧の米を、そのまま伊豆まで運べば、運ぶ人夫が要りまする。人夫は道中で食いまする。運ぶために運ぶ米が要る勘定になりまして、これは無駄にございます」
役人が目を白黒させている。
「ゆえに、京と堺の米問屋にて、この書き付けを預かり証に替えていただきたく。……現物は、駿河と伊豆の近くで引かせまする」
――要するに手形だ。
この時代、米は通貨である。ならば、米を紙に変えて運び、現地で紙を米に戻せばいい。前世の為替とまるで同じ理屈だ。堺の商人ならこの話は通る。実際、通った。
浮いたぶんが、そのまま俺の軍資金になる。
*
そして、四条の河原へ行った。
「お、お待ちくだされ小出様!」
供につけられた小者が、真っ青な顔で袖を掴んだ。
「あそこはいけませぬ! 無宿の者や、素性の知れぬ者ばかりが……」
「知っている。だから行くんだ」
俺は袖を振り払って、土手を降りた。
*
匂いから先に来た。
人と、糞と、湿った灰と、腐った何かの匂い。
河原には、掘立小屋とも呼べない、木の枝と莚を掛けただけのものが並んでいた。
その隙間に、人がいる。
座っている。寝ている。ぼんやりと川を見ている。
誰も働いていない。働く場所がないからだ。
多くはただの窮民だった。だが、混じっている。
背筋が違う。
座り方が違う。
こちらを見る目の動き方が、違う。
――いる。
この十年、この国では戦が減った。
戦が減れば、戦しかできない人間は要らなくなる。
紀州の根来と雑賀は、五年前に攻め潰された。鉄砲の名手が数百人単位で放り出された。
甲斐の武田は、八年前に滅んだ。徳川に拾われた者もいるが、拾われなかった者は流れた。
豊前の城井は、三年前に黒田に騙し討ちにされて族滅した。生き残りは、豊臣に深い恨みを抱えたまま西国を彷徨っている。
伊賀は、信長に焼かれてからずっと散り散りだ。
どこの大名も、こいつらを雇わない。
腕は確かだ。だが素性が悪い。恨みを持っている。何をするか分からない。
――危なくて使えない、というやつだ。
俺は、河原の真ん中に立った。
*
演説はしなかった。
代わりに、荷駄から釜を三つ降ろさせた。
石を組んで竈を作り、拾った流木で火を熾し、水を汲ませ、米を研がせた。
俺自身、袖をたくし上げて研いだ。
「……小出様。何を」
「飯を炊く」
「は?」
「腹の減った人間に、話をしても無駄だからだ」
小者は理解できないという顔をしていたが、構わなかった。
これは前世で覚えたことだ。
新しい現場で、口をきいてくれない職人の集団に出会ったとき。説明会をやっても意味はない。まず飯場を作って、温かい味噌汁を出す。三日それを続けると、四日目に向こうから話しかけてくる。
人は、理屈では動かない。
だが、飯には反応する。
*
半刻ほどで、匂いが立ち始めた。
炊きたての白飯の匂いというのは、暴力的である。
河原の空気が、明らかに変わった。
ぼんやりと川を見ていた連中が、顔を上げる。莚の下から目だけがこちらを向く。
誰も近づいてこない。
だが、全員が見ている。
俺は釜の蓋を開けた。湯気が上がった。
「――食え」
声を張った。
「銭は要らん。名も要らん。素性も聞かん」
誰も動かない。
「毒は入っておらん。これから俺も食う」
俺は椀に飯を盛って、その場で食った。塩を振っただけの白飯である。うまかった。
最初に動いたのは、痩せた子供だった。
母親が慌てて引き止めようとしたが、子供はもう椀を掴んでいた。
それが崩れる音だった。
*
三日、それを続けた。
条件は何も出さなかった。名も聞かなかった。ただ朝と晩に飯を炊いて、食わせた。
三日目の晩。
火の向こうに、一人の男が立っていた。
四十半ばだろうか。ぼろぼろの小袖に、汚れた手拭いを頭に巻いている。
左目が白く濁っていた。
「――若ぇの」
しゃがれた声だった。
「三日も只飯を食わせてくれる侍がいるとは、聞いたことがねぇ。……何が望みだ」
河原の空気が、また変わった。
あちこちで、莚が動く音がした。聞いている。全員が聞いている。
俺は椀を置いて、立ち上がった。
「話をする前に、一つ聞く。あんた、何ができる」
男は片目を細めた。
「……鉄砲だ」
「どこの」
「根来だ」
周りがざわりとした。
「五年前まで、な。今は乞食よ」
男は自嘲するように笑って、それから真顔になった。
「で。何が望みだ」
*
俺は、河原全体に聞こえるように声を張った。
「俺の名は小出俊定。関白豊臣秀吉の縁者だ」
――場が、凍った。
次の瞬間、風を切る音がした。
若い男が一人、飛び出してきていた。二十歳そこそこだろう。手にはどこで拾ったのか、刃こぼれした脇差を握っている。
「――豊臣ィ!!」
目が完全に据わっていた。
小者が悲鳴を上げた。俺は動かなかった。
男は俺の三歩手前で、根来の男に襟を掴まれて止められた。
「離せ! 離せ岩室ッ! 豊臣だ、豊臣の身内だぞ! 俺の家は、俺の一族は、豊臣の命で黒田に……ッ!」
「――豊前の城井か」
俺が言うと、男の動きが止まった。
「三年前、黒田に呼ばれて、酒の席で斬られたな」
男の目が、みるみる赤くなった。
「……知っていて、それを言うか」
「知っている」
俺は、まっすぐそいつを見た。
「詫びる気はない。俺が命じたわけじゃないが、俺の一族がやったことだ。詫びて済む話でもない」
男が歯を剥いた。
「――ならば、殺す」
*
「殺したければ殺せ」
俺は言った。
男が虚を突かれた顔をした。
「本気だ。あんたの一族が斬られたのは事実だ。恨むのは筋が通っている。俺を斬って気が済むなら、斬ればいい」
河原が静まり返っていた。
「――だがな」
俺は釜を指した。
「俺を斬っても、明日の飯は出ないぞ」
男の顔が、歪んだ。
「あんたは今日、三日ぶりに腹一杯食った。俺を斬れば、明日からまたこの河原に戻る。莚をかぶって、川を見て、誰かが死んだら場所が一つ空いたと思って、そこで寝る」
俺は一歩、前に出た。
「恨みで腹は膨れねぇんだよ」
男が、崩れるように膝をついた。
脇差が地面に落ちた。
男は両手で顔を覆って、獣のような声で泣き出した。
誰も、笑わなかった。
*
「――話を続ける」
俺は河原全体に向き直った。
「俺はこれから伊豆へ行く。韮山という城を落とす。落とせなければ、関白の前で腹を切る」
ざわ、とした。
「兵はいない。一人もいない。金もない。あるのは米だけだ」
俺は釜を叩いた。
「だから、お前たちを雇う」
河原が、しん、とした。
「条件を言う。三つだ」
俺は指を立てた。
「一つ。腹一杯食わせる。朝と晩、白い飯だ。粥じゃない。飯だ。今日みたいにな」
どこかで、唾を飲む音がした。
「二つ。日ごとに、銭を渡す。まとめて後で、とは言わない。その日働いたぶんは、その日のうちに手に握らせる」
ざわめきが大きくなった。
「三つ。武具を貸す。槍でも、鉄砲でも、要るものを言え。買ってやる。……あと、草鞋と、綿入れと、薬もだ。足が潰れた兵は使えん。凍えた兵も使えん」
「……若ぇの」
根来の男――岩室が、掠れた声で言った。
「そこまでして、俺たちに何をやらせる気だ」
*
「城を落としたら」
俺は言った。
「伊豆一国が、俺のものになる」
河原がどよめいた。
「七万石だ。そこには家臣が要る。侍が要る。奉行が要る。鉄砲の頭が要る。……俺には、誰もいない」
俺は一人一人の顔を見た。
「だから、そこにお前たちを座らせる」
誰も、声を出さなかった。
「素性は問わん。根来だろうが、武田だろうが、城井だろうが、伊賀だろうが構わん。関白に恨みがあっても構わん。恨みは腹の中に置いておけ。俺は掘り返さん」
俺は、泣き崩れている若者を見た。
「――名を、名乗れるようにしてやる」
若者が、顔を上げた。
「無宿人じゃない。乞食じゃない。どこそこの家中の誰それと、名乗れるようにしてやる。それが、俺が出せる一番いい条件だ」
*
しばらく、川の音しか聞こえなかった。
やがて岩室が、しゃがれた声で笑った。
「……はっ。うまい話だな」
「うまい話だ」
俺は認めた。
「城が落ちなければ全部消える。俺は腹を切って死ぬから、約束を守る奴もいなくなる。……空手形だ。それは正直に言っておく」
岩室の濁った目が、じっとこちらを見た。
「正直だな」
「嘘をついて連れて行っても、いざというとき動かんからな」
男は、また笑った。今度は少し違う笑い方だった。
「……で。締めがあるんだろう」
――分かってる男だ。
俺は、頷いた。
*
俺は刀に手をかけた。
全員が身構えた。
俺は鞘ごと抜いて、地面に立てた。
「――法度を、一つだけ言う」
声を落とした。落とした方が通る。
「軍が動いている間、乱取り、押し込み、女への狼藉。この三つをやった者は、理由を問わず、その場で首を刎ねる」
河原が、しん、とした。
「――待て」
武田旧臣らしい、無口な老兵が初めて口を開いた。
「乱取りは、戦の習いだ。どこの軍でもやっておる。あれがあるゆえに、雑兵は戦場へ出る」
「知っている」
「ならば、なぜ」
俺は、東の空を指した。
「あの向こうに、伊豆がある」
全員が、そちらを見た。
「伊豆の百姓は、いずれ俺の領民になる」
言葉を選んだ。「顧客」という言葉が喉まで出かかって、飲み込んだ。
「今そいつらの家を焼いて、女を犯して、米を奪う。そうやって落とした城を、俺は貰う。……その後、俺はどうやって年貢を集める。誰が俺のために田を作る。誰が俺のために道を直す」
老兵の目が、わずかに動いた。
「戦は数ヶ月で終わる。だが領地は、死ぬまで続く。数ヶ月の得のために、死ぬまでの損をするやつは阿呆だ」
俺は刀を掴んだ。
「それと、もう一つ。……これは俺の勝手だ」
少し、声が低くなった。自分でも分かった。
「俺は、無駄に人が死ぬのが嫌いだ。理由はない。ただ、嫌いなんだ」
誰も何も言わなかった。
「文句のある奴は、今この場で去れ。飯代は請求しない。三日ぶんは餞別だ」
*
誰も、去らなかった。
やがて岩室が、ゆっくりと片膝をついた。
「……岩室弥七。根来の鉄砲、二十年」
次に、泣き腫らした若者が。
「……佐田新九郎。豊前城井の、生き残りにございます」
次に、無口な老兵が。
「原孫兵衛。甲斐武田の、足軽大将であった」
一人、また一人と、河原に膝が着いていく音がした。
最後に、いつの間にか俺のすぐ後ろに立っていた男が、静かに言った。
――いつからそこにいた。気配がまるでなかった。
「……名は、ござらぬ」
伊賀だ、と直感した。
「名がないなら、こっちで付けるぞ」
「お好きに」
*
その晩、河原に集まったのは百八十七人だった。
最終的に、伊豆へ発つまでに四百を超えた。噂は、飢えた人間の間を驚くほど早く走る。
俺は火の傍で帳面を開き、名を一人ずつ書き取っていった。
書きながら、思った。
――名を、名乗れるようにしてやる。
あれは、彼らに向けて言った言葉だった。
だが。
筆を止めて、俺は自分の名を見た。
帳面の最初の行に、小出俊定と書いてある。
実家に居場所がなく、養家にも居場所がなく、十五まで幼名のままだった男。
(……ああ)
俺も同じか、と思った。
俺も、名を名乗りたかったのだ。




