第五話 命懸けの軍議
天正十八年三月。
東海道を、途方もない数の人間が東へ流れていた。
旗が地平まで続いている。荷駄の列が丘を越えて見えなくなる。街道沿いの村は人が消え、家々の戸は板で打ち付けられていた。
二十万という数字を、俺は帳面の上でしか知らなかった。だが実際に見ると、これは軍隊というより自然現象だった。川が流れるように、人間が流れていく。
俺は三成の下について、兵糧の受け渡しを回していた。
あの三日間の一件以来、石田三成は俺を露骨に使うようになった。「小出、駿河の受け場を見てこい」「小出、船の割り付けを直せ」。呼び捨てである。前は「そなた」だったので、これは出世と見ていいらしい。
そして三月の末、本軍は沼津に入った。
箱根の向こうはもう相模である。北条の国だ。
*
その晩、本陣で軍議が開かれた。
俺は末席の、さらに末席にいた。
三成の後ろに控えて、帳面を抱えている。要するに書記の下働きである。
陣幕の中には、名を聞けば誰でも知っている顔が並んでいた。
徳川家康。前田利家。織田信雄。宇喜多秀家。細川忠興。蒲生氏郷。福島正則。加藤清正。
――現場に元請けの役員が全員来ている状態だ。
俺は帳面の陰で背中を丸めた。こういう場で目立つと碌なことがない。それは前世で学んだ。
議題は二つだった。
一つ、箱根の入口を塞ぐ山中城。
これは力攻めと決まった。七万を叩き込んで一気に押し潰す。異論は出なかった。
二つ、伊豆の韮山城。
ここで空気が少し重くなった。
「韮山は、北条美濃守氏規が籠っております」
誰かが言った。
「城兵はおよそ三千数百。されど、あの城は堅うございます。三方を沼と川に囲まれ、背には天ヶ岳。力攻めをすれば、こちらの損害が大きゅうなりましょう」
「囲んで干せばよかろう」
「小田原が落ちるまで持たれれば、それまでにございます」
韮山攻めの総大将は織田信雄と決まった。四万余りで包囲する。
落とすというより、動けなくする。それが結論だった。
――まあ、そうなるよな。
俺は帳面を睨みながら思った。
史実でもそうだった。韮山城は落ちなかった。数ヶ月粘って、小田原が開城したあとで、ようやく城を明け渡した。
北条氏規という男は、粘るのだ。
そして――粘りきったあとで、素直に開ける。
*
「――俊定」
自分の名を呼ばれるまで、しばらくかかった。
いま呼ばれたのか。いや、まさか。
顔を上げると、上座の秀吉が、まっすぐこちらを見ていた。
陣幕の中の全員が、一斉に振り返った。
――待て待て待て。
「……は、はっ」
俺は帳面を置いて、前に出た。膝が畳を擦る音が、やけに大きく響いた。
「韮山、そなたが落としてみよ」
*
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
次の瞬間、陣幕の中がざわめいた。
「上様、あれは――」
「五百石の小姓にござるぞ」
「兵の一人も持たぬではないか」
当たり前の反応である。
俺自身、まったく同じことを思っていた。
だが、頭の中では別の場所が猛烈な速さで回り始めていた。
――なぜ、俺だ。
考えろ。この人が意味のないことを言うわけがない。
伊豆。
箱根の西。関東への入口。
小田原が落ちれば、北条の旧領は誰かに与えられる。関東そのものは――俺の知る限り、徳川家康に渡る。二百四十万石で、関八州ごと。
その家康を、誰かが西から見張らねばならない。
箱根の峠を挟んで、江戸の喉元に。
――伊豆の主を、この人はもう決めてある。
そして、その席に俺を座らせるつもりがある。
だが、五百石の小姓をいきなり伊豆一国の主にすれば、居並ぶ諸大名が納得しない。
だから――手柄が要る。
誰も落とせないと思っている城を落とすという、文句のつけようのない手柄が。
――これは、無理難題じゃない。発注だ。
「――兵は、いかがいたしましょうか」
俺は顔を上げて言った。
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
*
秀吉が、にやりと笑った。
「知らん」
「……は」
「兵など、わしが用意してやる筋合いはない。自分で集めよ」
ざわめきが、今度は失笑に変わった。誰かが小さく笑った。
俺は構わず続けた。
「では、兵糧を頂戴したく存じます」
笑いが止まった。
「ほう」
「兵は集めまする。ですが、集めた兵は食いまする。腹の減った兵は、戦の前に逃げまする」
――ここは譲れない。
米は金だ。
この時代、米は年貢であり、通貨であり、給金である。米さえあれば人は雇える。武具も買える。船も動かせる。
兵をくれと言えば「甘えるな」と切り捨てられる。だが米は、この陣に山ほどある。
「蔵入地の兵糧を、お貸しくださいませ。……借りたぶんは、伊豆の実りをもって必ずお返しいたします」
秀吉の目が、すっと細くなった。
*
「――俊定」
声の温度が、変わった。
「米はやる。好きなだけ持っていけ」
陣幕がどよめいた。
「されど」
秀吉は、床几の上でわずかに身を乗り出した。
「関白たるわしの米を食うて戦うのじゃ。……もし韮山を落とせなんだときは」
言葉が切れた。
陣幕の中の全員が、息を止めたのが分かった。
「――そのときは、ここで腹を切って、わしに見せてくれるな?」
*
火が爆ぜる音だけが聞こえた。
誰も動かなかった。
徳川家康が、扇を持つ手を止めていた。前田利家が眉をひそめていた。福島正則が、口を半分開けたまま固まっていた。
俺の斜め前で、三成が息を呑む音がした。
――ああ、そういうことか。
俺は妙に冷静に理解した。
これは俺への問いじゃない。
この場にいる全員への通告だ。
「米を出せ」と言うのは簡単だ。今この瞬間にも、腹の中で「ならば某にも兵糧を回してくれれば城の一つや二つ」と思っている大名は何人もいるだろう。
だが、そこに「落とせねば死ね」がくっついた瞬間、誰も手を挙げなくなる。
――俺だけの案件にするための、条件だ。
同時に、俺への値踏みでもあった。
ここで一呼吸でも迷えば、この人は即座に興味を失う。「口だけの小僧」と烙印を押されて、俺は一生ここまでだ。
そして。
――勝算は、ある。
韮山城は落ちない、と皆が言う。
だがそれは、力攻めで落ちない、という意味だ。
あの城には北条氏規がいる。
北条一族の中で、最後まで秀吉との和睦を説いた男。徳川大納言とは、今川の人質だった少年時代からの旧知。
あれは、意地で死ぬ男ではない。理屈で退く男だ。
ならば、力ではなく理屈で押せばいい。
城の急所を測り、そこを落とす日を先に告げ、逃げ道を作ってやる。
――前世で、俺がずっとやってきたやり方だ。
もっとも、それを今ここで言う気はない。
言えば「ならば某でもできる」と誰かが手を挙げる。
俺は畳に手をついた。
「――承知いたしました」
*
「韮山を落とせなんだ折には、この俊定、腹を切ってお目にかけまする」
言い終えて、俺は頭を下げた。
一拍。
「――ぶわははははは!」
秀吉が、床几を叩いて笑い出した。
「聞いたか! 聞いたか皆の衆! 迷いもせなんだぞ、この小僧!」
笑いながら、目だけは笑っていなかった。
俺はそれをはっきり見た。この人は本気だ。落とせなければ、本当に俺の腹を切らせる。
「よい! 米は好きなだけ持っていけ! 帳面は治部が付ける!」
三成が慌てて平伏した。「はっ」という声が裏返っていた。
*
そのとき、陣幕の隅から声が上がった。
「……恐れながら」
どこかの大名だった。名は聞き取れなかった。
「上様。いかにお身内とは申せ、蔵入地の兵糧をお一人に融通なさるは、いささか贔屓が過ぎるのではございませぬか」
もっともな話だった。
俺が同じ立場でも言う。
秀吉は、笑顔のまま、その男の方を向いた。
「――ほう。贔屓とな」
声が、優しかった。
「よかろう。不服の者には、同じだけ米を出そう。誰でもよい、申し出よ」
陣幕が、しん、とした。
「その代わりじゃ」
秀吉は扇を開き、ぱちりと閉じた。
「落とせなんだときは、俊定と同じく、ここで腹を切ってもらう。……さあ、望む者は」
誰も動かなかった。
誰一人、目を上げなかった。
「――おらぬか」
秀吉は満足そうに頷いた。
「ならば黙っておれ」
*
軍議が散ったあと、俺は本陣の外の暗がりに出て、思い切り息を吐いた。
膝が、笑っていた。
――やってしまった。
――やってしまった。やってしまった。
冷や汗が背中を伝っている。今ごろになって、体が正直に震え出していた。
落とせなければ死ぬ。
城はない。兵はいない。家臣もいない。あるのは米だけだ。
しかも相手は、四万四千の大軍が数ヶ月かけて落とせなかった城である。
「……小出」
背後から声がかかった。
振り返ると、三成が立っていた。行灯を提げて、いつもの落ちくぼんだ目でこちらを見ている。
「なぜ受けた」
「……お受けせねば、次はございませんでしたので」
三成は、しばらく黙っていた。
「米は、明日にでも出せるようにしておく。……何石要る」
「今は分かりませぬ。集めた人数を見てから、日ごとの入用を積んでご相談いたします」
「……そなたは」
三成が、呆れたように首を振った。
「腹を切ると言うた直後に、日ごとの入用の話をするのか」
「そこを詰めておかねば、腹を切ることになりますゆえ」
三成は少しの間、俺を見つめた。
「……死ぬなよ」
それだけ言って、行灯を揺らしながら去っていった。
*
一人になって、俺は暗い空を見上げた。
春だというのに、風はまだ冷たかった。
――さて。
震えは、少しずつ収まってきていた。
腹が据わったからではない。やるべきことが多すぎて、震えている暇がなくなっただけだ。
工程を組む。
韮山城の縄張りを知りたい。誰が城のどこを守っているかを知りたい。
城の水がどこから来ているかを知りたい。
そして何より――兵だ。
二十万の軍勢の中に、俺に貸してくれる兵は一人もいない。
諸大名はそれぞれの持ち場があり、余った兵などいない。いたとしても、五百石の小姓に貸す道理がない。
なら、どこから集める。
俺は、東海道を思い返した。
京。大坂。堺。この十年、戦がなくなるたびに主家を失い、行き場をなくした人間が、あの街々の河原に山ほど溜まっている。
――曰く付きの、食い詰めた連中。
どこの大名も雇わない。素性が悪い。前科がある。恨みを買っている。危なくて使えない。
俺は、そっと笑った。
――上等だ。
前世で、俺が回してきた現場も、そういう連中の集まりだった。
腕はいいが酒癖が悪い。前の会社を喧嘩でクビになった。訳ありで名字を変えている。
まともな会社が使わない人間ばかりを、うちの親父(社長)は拾ってきた。そして俺が、それを回した。
飯を食わせ、日銭を払い、逃げ道をふさぎ、規律を叩き込んで。
――俺の一番得意な現場じゃないか。
俺は踵を返した。
まず、京へ戻る。




