第四話 現場改善
小姓というのは、要するに使い走りである。
文を運び、湯を運び、来客を取り次ぎ、呼ばれれば走る。それが日々の大半だ。
だが俺には、もう一つ役目があった。
――水と厠の差配。
関白直々に言い渡された役目である。他の小姓には理解不能な仕事で、実際「小出殿は厠奉行にござるか」と何度か笑われた。笑わせておけばいい。俺は毎日、竹の尺を持って城内と城下を歩き回った。
井戸の位置を書き留める。
水の流れる方向を測る。
厠がどこにあり、その下が何に繋がっているかを確かめる。
人がどこに何人、何日留まるかを聞き込む。
前世でも同じことをやった。新しい現場に入ったら、まず歩く。図面を見る前に歩く。図面には人の動きが描いてないからだ。
そうやって歩いているうちに、俺は嫌でもそこへ行き着いた。
*
大坂の、兵糧と資材の集積場である。
小田原へ二十万を出す。その支度が、この冬から始まっていた。
諸国から米が来る。豆が来る。塩が来る。縄、莚、鉄、木材、船釘。それらが荷駄と船で、毎日雪崩のように到着する。
俺が最初にそこを見たとき、思わず声が出た。
「……うわ」
列である。
荷駄の列が、門から半里ほども続いていた。牛が鳴いている。人夫が地面に座り込んでいる。前の荷が捌けないから、後ろの荷が動けない。
門の内側では、役人が三人ばかりで荷を検め、帳面に付けている。一つ検めるたびに、荷を解き、数を数え、帳面に書き、また括り直す。その間、後ろの三十台は待っている。
――なんだこれは。
俺は口の中で唸った。
――工期が遅れてるんじゃない。待ち時間で死んでる。
現場でいちばん金と人を食うのは、事故でも失敗でもない。手待ちだ。
人が来ているのに仕事が渡らない。材料が着いているのに置き場が決まっていない。誰かの判断待ちで、全員が突っ立っている。あれが一日続けば、その日の人工は全部ドブに捨てたのと同じだ。
そして、待たされた人夫は逃げる。
現に、逃げていた。
俺が見ている前でも、列の後ろの方から三人、四人と、荷を放って歩き去っていく者がいた。役人が怒鳴っても止まらない。
「……賃銭が出ぬのだ」
横で荷を担いでいた老人が、聞いてもいないのに呟いた。
「十日分まとめて払うと言われて、待たされて、また待たされて。……その間、飯は自前じゃ。銭のない者は食えぬ。食えねば働けぬ。働けねば銭も出ぬ」
――出た。
俺は目を閉じた。
前世で潰れていった下請けが、必ず言っていた台詞だ。
*
その集積場の一番奥、板張りの仮屋に、その男はいた。
行灯が三つも灯っている。まだ日は高いのに、である。
部屋中に帳面が積み上がり、その真ん中に、痩せた男が背を丸めて座っていた。
筆が止まらない。目だけがぎょろりと動いて、次の帳面を掴む。眼窩が落ちくぼんでいる。唇が乾いて割れている。
石田三成。
このとき三十。関白の懐刀と呼ばれる、行政の頭である。
――ああ。
俺は思わず、扉の前で立ち尽くした。
――前世の俺だ。
全部一人で抱えて、誰にも渡せなくて、渡すより自分でやった方が早いと思ってしまって、そうやって二年で十キロ痩せた男。
この人は無能じゃない。無能どころか、恐ろしく有能だ。
だが――一人でやりすぎている。
「……何用か」
顔も上げずに、三成が言った。声が掠れていた。
「小姓の小出俊定にございます。関白様より、陣中の水と厠の差配を仰せつかっております」
「厠」
筆が止まった。ようやく顔が上がった。
「小姓が、厠の話で奉行の仮屋へ参ったか」
冷たい目だった。
怒っているのではない。相手にする時間が惜しいのだ。それも前世で見た目だ。
「はい。この集積場の厠を、二十間ばかり南へ移し、下に穴を掘り直したく存じます。今の場所は井戸の上手にございますゆえ」
「……好きにせよ」
それで話は終わった、という顔で、三成は帳面に戻った。
俺は下がらなかった。
「――もう一つ、よろしゅうございますか」
三成の眉が、わずかに動いた。
*
ここが勝負どころだった。
俺は十五だ。五百石の小姓だ。相手は関白の懐刀である。
「こうすればいいのに」などと正面から言えば、それは越権であり、無礼であり、そして何より――否定として受け取られる。
人は、正しい指摘では動かない。
自分の手柄になる話でしか動かない。
俺は畳に手をついた。
「厠を掘り替えるにあたり、この場の人の出入りを測っておりました。……差し出がましいことながら、そのおり気づいたことがございます」
「言え」
「門で荷を検めておられる役人が三人。一つの荷を検め、数え、帳面に付け、括り直すまでにおよそ半刻。日に捌ける荷は、多く見積もって五十」
三成の手が止まった。
「今日、門の外に並んでおりました荷駄は、百二十でございました」
沈黙。
「……ゆえに、明日は昨日より列が伸びまする。明後日はさらに伸びまする。この分では、年が明けるころには」
「――言うな」
三成が遮った。
声に、初めて感情が乗っていた。
「分かっておる。……分かっておるわ。人手を寄越せと申し上げておる。だが上様は『諸国から荷は集めよ、されど城下に人は増やすな』と仰せじゃ。人が増えれば飯が要る。飯が要れば兵糧が減る」
三成は自分の額を押さえた。
「……荷は増える。人は増やせぬ。ならば奉行が寝ずにやるほかあるまい」
――ああ、この人。
俺は胸の奥が痛んだ。
上の言うことに一切逆らわず、無理な条件を全部そのまま飲んで、足りない分を自分の睡眠で埋める。
それをやると、一時は回る。回ってしまうから、上はもっと押し付ける。
そして最後は、必ず倒れる。倒れたときに誰も代われないから、現場ごと死ぬ。
俺は、前世でそれを見た。何度も見た。
「――石田様」
俺は顔を上げた。
「人は、増やさずともようございます」
*
「まず、門を一つで捌くのをおやめください」
俺は指で床に線を引いた。
「米は米、豆は豆、縄や莚は縄や莚と、品ごとに受け場を分けまする。米を検める者は米しか検めませぬ。目が慣れれば、俵を見ただけでおおよその数が分かるようになりまする」
「……ふむ」
「次に、数えることと、帳面に付けることを、同じ者にやらせませぬ」
三成の目が、初めて俺の顔を見た。
「数える者は数えるだけ。木札に数を刻んで、次の荷へ移りまする。帳面に写すのは別の者。これならば、数える手は止まりませぬ」
――要は工程の分離と並行だ。
だがその言葉は使わない。使えば異物になる。
「三つ目。荷が着いてから慌てるのをやめまする」
「どういう意味じゃ」
「諸国へ、いつ、何を、どれだけ出せと先に触れておりましょう。ならば、いつ何が着くかは、こちらが先に知っているはずにございます。……ならば、着く前に受け場と置き場を決めておけばよろしゅうございます」
三成の唇が、かすかに開いた。
「荷が門をくぐる前に、その荷がどこに置かれるかが決まっておりますれば、荷は止まりませぬ。止まらねば、列は伸びませぬ」
*
「――最後に、一つだけ、銭の話を」
俺は少し声を落とした。ここが一番、言いにくいところだ。
「人夫の賃銭を、日ごとにお払いください。それと、朝に一度、粥を出しておやりくださいませ」
三成の顔が、わずかに険しくなった。
「余計な費えを申すな。兵糧は一粒でも小田原へ回さねばならぬ」
「はい。ですが」
俺は退かなかった。
「今日、某が見ておりました半刻の間に、逃げた人夫が七人にございます」
三成が息を呑んだ。
「賃銭は十日ごと、飯は自前。銭のない者は食えず、食えねば働けませぬ。ゆえに逃げまする。逃げた分、荷はさらに滞りまする。滞れば、また逃げまする」
俺は畳に指を突いた。
「――逃げた七人を集め直すのに要る手間と日数、それに一日の粥の費え。どちらが安うございましょうか」
仮屋が、静かになった。
行灯の油が、ぱち、と小さく爆ぜた。
*
「……そなた」
三成が、ゆっくりと筆を置いた。
「歳はいくつじゃ」
「十五にございます」
「十五」
男は、まじまじと俺を見た。
値踏みではない。もっと別の、正体の分からないものを見る目だった。
「……誰に習うた」
「――前におりました家で、蔵の出入りを手伝うておりました」
嘘だ。
だが、こう言うしかない。
三成はしばらく黙っていた。それから、疲れ切った顔で小さく笑った。笑ったところを、俺は初めて見た。
「面白いことを申す小姓じゃ」
そして、真顔に戻った。
「――で、そなた。それをやれと、この石田に指図しに参ったか」
来た。
ここを間違えると、全部台無しになる。
「滅相もございませぬ」
俺は深く頭を下げた。
「某は厠奉行にございます。荷の差配など、口を出せる立場にございません」
顔を上げる。
「ゆえに――すべて石田様のお指図として、出していただきとうございます」
三成の目が見開かれた。
「まず一つの門だけ、三日だけでようございます。品ごとに受け場を分け、数える者と付ける者を分け、日ごとに賃銭を払い、朝に粥を出す。……三日で列が伸びねば、それは石田様のご差配が正しかったということにございます。伸びましたら、某の申したことが誤りであったということ。それだけにございます」
*
三日後。
門の外の列は、半里から、五十間になっていた。
俺がその報せを聞いたのは、聚楽第の廊下を雑巾がけしている最中だった。
同輩の小姓が「厠奉行殿、石田様がお呼びじゃ」と、少し妙な顔で伝えに来た。
仮屋へ行くと、三成が待っていた。
相変わらず痩せていたが、行灯は一つに減っていた。
「――座れ」
俺は座った。
三成はしばらく何も言わず、帳面の束を指で撫でていた。
「昨日、初めて日のあるうちに寝床へ入った」
ぽつりと、そう言った。
「……何年ぶりであったか、思い出せぬ」
俺は何も言わなかった。
こういうときは、何も言わない方がいい。
「小出俊定」
三成が顔を上げた。目に、初めて光があった。
「そなた、厠より荷の方が向いておる」
「厠も得意にございます」
「……そうか」
三成は、また少しだけ笑った。
「小田原へは、わしと共に参れ。上様には、わしから申し上げておく」
*
その帰り道、俺は冬の空を見上げながら歩いた。
――やってしまった。
正直に言えば、余計なことをした自覚はある。
目立たず、地味な役目で足場を固める。それが俺の方針だったはずだ。なのに、あの部屋を覗いた瞬間、体が勝手に動いた。
あの落ちくぼんだ目を見て、放っておけなかった。
――前世の俺と、同じ顔をしていたからだ。
あのまま行けば、あの人は倒れる。
倒れたときに誰も代われないから、荷が止まり、兵糧が止まり、最後は末端の足軽が飢えて死ぬ。
俺は白い息を吐いた。
――まあ、いい。
現場の詰まりを見つけて、放っておける監督は監督じゃない。
それに、悪い結果ではなかった。関白の懐刀に顔を覚えられ、名前を呼ばれ、小田原へ同行しろと言われた。
――足場の上に、一段目が組めた。
*
ただ。
歩きながら、俺は一つだけ、考えないようにしていたことを考えた。
石田三成。
――この人が、どうなるかを、俺は知っている。
関白が死んだあと、この国は真っ二つに割れる。
その片側に、この人が立つ。
そして、負ける。
捕らえられ、市中を引き回され、六条河原で首を刎ねられる。
――あと、十年ほどだ。
俺は足を止めた。
冬の風が堀の水面を撫でて、鳥が一羽、飛び立った。
(……何かできるのか)
自問して、答えはすぐに出た。
何も、できない。今は。
俺は十五で、五百石で、厠奉行だ。
十年先に何が起きるかを知っていることと、それを動かせることの間には、途方もない距離がある。その距離を埋めるものを、俺はまだ何一つ持っていない。
それに――あの人が負けるのは、たぶん運や不運のせいじゃない。
上の言うことを一切疑わず、正しさだけで押し通し、味方を作るのが下手で、そのくせ誰よりも真面目に働く。
その性分が、いずれ全部の泥をあの人一人に集める。
性分は、三日の手伝いでは変わらない。
(……分かってるよ)
俺は歩き出した。
分かった上で、あの部屋の行灯を一つ減らした。
今の俺にできるのは、それだけだ。それ以上のことは、できない。
だが。
――今日のことは、覚えていてもらおう。
人は恩を忘れる。だが「一緒に修羅場を片付けた三日間」は、案外忘れない。
前世でもそうだった。酒の席で作った縁より、徹夜で図面を直した縁の方が、ずっと長く残る。
十年後、あの人が崖の縁に立ったとき。
そのとき俺が何者になっているかは、まだ分からない。
ただ、もし――袖を引ける場所に立てていたなら。
(……握れる手は、一本でも多い方がいい)
俺は白い息を吐いて、聚楽第の門をくぐった。




