第三話 初出仕
聚楽第の大手門をくぐったとき、俺は不覚にも足を止めてしまった。
石垣である。
――打込接だ。しかも隙間の詰め方が異常に丁寧だ。
――待て。この城、建ったのが天正十五年だろう。二年か三年で、この規模を。
――人夫、何人動員した。石はどこから運んだ。船か。淀川を使ったのか。工区をいくつに割った。
頭の中で勝手に積算が始まっていた。前世からの職業病である。城の縄張りより先に、工期と人工が浮かぶ。
「小出殿?」
前を歩いていた案内役の小姓が振り返っていた。俺より四つ五つ上だろうか。線の細い、人の良さそうな男だ。
「――これは、失礼をいたしました」
俺は慌てて頭を下げ、足を運んだ。
「見事な石垣にございましたゆえ、つい見惚れておりました」
「石垣を、でございますか」
小姓が意外そうな顔をした。
「たいていのお方は、御殿の金瓦か、庭園に目を奪われまするが」
「某は無風流者ゆえ、堅いものにばかり目が行きまする」
小姓は小さく笑って、また歩き出した。
――危ない危ない。
俺は内心で舌を出した。
城を見て興奮するのは構わないが、興奮の中身が問題だ。「工期が」「人工が」などと口走ったら、こいつは何を言っているんだという顔をされる。
この時代の言葉に、工程管理という概念はない。あるのは「普請の手配」だ。言葉がないものを口にすれば、それだけで異物になる。
――口を、間違えるな。
前世で新しい現場に入るときと同じだ。
最初の三日で、その現場の言葉を覚える。挨拶の仕方、職人の呼び方、笑っていい冗談の範囲。それを外した人間は、どれだけ腕が良くても現場から浮く。浮いた人間の指示は通らない。
俺はそれを二十年やってきた。
*
通されたのは、思っていたより小さな座敷だった。
大広間で諸大名の居並ぶ中を、というのを勝手に想像していたので拍子抜けした。だが考えてみれば当然だ。十五の、元服もしていない縁者の顔見せに、大広間を使う道理がない。
上座に、小柄な男が胡坐をかいていた。
痩せている。日に焼けている。手が大きい。
絵で見た関白のような、絢爛豪華な威圧感はまるでなかった。強いて言えば、機嫌のいい親方だ。三十年前から現場にいて、若い衆全員の名前と癖を覚えていて、そのくせ怒らせたら誰も逆らえない、そういう親方。
その隣に、落ち着いた身なりの女性が座っている。
「おお、来おったか」
男が笑った。豊臣秀吉である。
「面を上げよ。……ほう。家定によう似ておるわ」
「木下松之助にございます。このたびは身に余るお引き立てを賜り、まことにありがたく存じ奉ります」
俺は畳に額を擦り付けた。
口上は道中で百回さらった。ここで噛んだら間抜けだ。
「かしこまらんでよい。……松之助、そなたの伯母じゃ」
隣の女性が、柔らかく微笑んだ。
「よう来やった。……家定兄上から文が来ておってな。『四男を頼む』と、それはもう長い文であったわ」
北政所――ねねである。
その一言に、俺は少しだけ息が詰まった。
松之助の記憶の中に、実父・木下家定が自分のために何かを書いた覚えはない。姫路の屋敷で顔を合わせたのも、数えるほどだ。
――長い文、か。
「……もったいなきお言葉にございます」
それだけしか言えなかった。
「頭を打ったと聞いたが、もう大事ないのかえ」
「はい。おかげさまで」
「そうか。……よい面構えになったのう。前に会うたときより、目が据わっておる」
ねねの目が、少しだけ細くなった。
――この人、鋭いな。
俺は背筋を伸ばした。
*
「――ときに松之助」
秀吉が、ふと湯呑みを置いた。
空気が変わった。
柔らかい世間話の顔が、そのままの表情で、中身だけ入れ替わったような感じだった。
「来春、小田原へ出る」
来た、と思った。
「関東の後北条は、小田原に総構えを回しておる。城下ごと堀と土塁で囲うた、化け物のような城じゃ。籠る兵は五万とも六万とも聞く」
「はい」
「対してわしは、二十万で囲む」
二十万。
数字を口にする秀吉の顔は、自慢しているようには見えなかった。むしろ淡々としていた。
「――さて松之助。そなたなら、この二十万を前にして、真っ先に何を案じる」
*
問いが落ちた瞬間、俺の頭は猛烈な速さで回り始めた。
――試されてる。
当たり前だ。縁者だからといって、ただ飯を食わせる男ではない。使えるか使えないかを、今この場で測っている。
答えの候補は三つ。
一つ、無難な答え。「北条の堅城をいかに崩すか」。
――却下。誰でも言う。埋もれる。ここで埋もれたら、俺は一生「関白の縁者の一人」で終わる。
二つ、目立つ答え。歴史を知っている俺には、この戦の顛末が分かっている。小田原がどう落ちるかも、その後どうなるかも。それを匂わせれば、確実に驚かせられる。
――却下。断固却下だ。
この男の前で「先が見えている」ような口を利いた人間が、どういう扱いを受けるか。可愛がられるか、気味悪がられて消されるか。賭けの分が悪すぎる。
三つ目。
――地味で、誰もやりたがらず、しかし絶対に必要な仕事。
前世でもそうやって生き延びてきた。
花形の意匠設計でも、派手な大型物件でもない。誰も引き受けたがらない現場の安全管理と、面倒な近隣対応と、終わりの見えない書類。そこに立っている人間は、外されない。外したら現場が止まるからだ。
俺は顔を上げた。
「――恐れながら申し上げます」
*
「二十万の兵が、その地に吐き出す糞尿と、飲む水を案じまする」
座敷が、静かになった。
ねねが、湯呑みを口に運ぶ手を止めている。
秀吉は、表情を変えなかった。
俺は続けた。ここで怯んだら終わりだ。
「二十万の人間が、ひと所に、何月も留まりまする。糞尿は日に日に積もり、雨が降れば流れ、井戸に、川に入りまする。その水を汲んで、兵が飲みまする」
言葉を選んだ。
細菌も、感染症も、この時代にはない言葉だ。使えば異物になる。だから、目に見えるものだけで語る。
「小田原は海と川に挟まれた低地。夏には湿気がこもり、蚊も蠅も湧きまする。……去年の九州、一昨年の四国、いずれも陣中で病に倒れた兵の数は、討ち死にの数を上回っておりましょう」
「……ほう」
「北条の鉄砲で死ぬ兵より、身内の水で死ぬ兵の方が多うなりまする。城は落ちても、こちらの陣が先に腐りまする」
秀吉が、わずかに身を乗り出した。
「――して、どうする」
来た。
ここからが本題だ。
「まず、飲む水を陣の外から取りまする。谷の上、人の住まぬ所に採水の場を定め、そこから運ばせまする。陣の中を流れる水は、いかに澄んで見えても飲ませませぬ」
「面倒じゃな」
「面倒にございます。ゆえに、誰もやりませぬ」
秀吉の目が光った。
「次に、汲んだ水は必ず大鍋で煮立たせ、湯気が立ってからさらにしばし煮ませまする。飯を炊く水も、器を洗う水も、傷を洗う水もすべてにございます」
「湯にすると、何が変わる」
「――何かは、某にも分かりませぬ」
正直に言った。ここで嘘をつくと、後で必ず綻ぶ。
「ただ、生水を飲ませた陣と、湯にして飲ませた陣とで、倒れる兵の数がまるで違いまする。理屈は分からずとも、そうなるのでございます。……薬でも祈祷でもなく、ただ煮るだけで人が死ななくなるのでございますれば、やらぬ理由がございませぬ」
「……ふむ」
「三つ目。厠にございます」
俺は畳に指で線を引いた。
「陣屋から十分に離れた、風下に深く穴を掘り、用を足すたびに土と灰をかぶせまする。灰は、竈からいくらでも出まする。これで臭いも減り、蠅も湧きませぬ」
言い終えて、俺は頭を下げた。
「――以上にございます。武功ではなく、汚穢の話ばかりを申し上げました段、ご無礼の段はひらにご容赦を」
*
しばらく、誰も何も言わなかった。
――やりすぎたか。
背中を冷たいものが伝った。
十五の小僧が、天下人に向かって糞尿と煮炊きの講釈を垂れたのである。無礼と取られてもおかしくない。
そのとき。
「――ぶは」
秀吉が噴き出した。
「ぶはははは! ははははは!」
膝を叩いて笑い出した。心底おかしそうに、体を折って笑っている。ねねが「まあ、はしたない」と横で呆れている。
「聞いたか、おね! 聞いたか今の!」
「聞いておりますとも」
「二十万を前にして、真っ先に案じるのが糞と水じゃとよ! 武功でも城でもないぞ!」
秀吉はひとしきり笑って、それから急に真顔になった。
「――のう松之助。わしがなぜこれを笑うか、分かるか」
俺は黙って首を振った。
「わしが清洲の塀を三日で直した折、褒めてくれた者は誰もおらなんだ。皆、塀など誰でも積めると思うておるからじゃ」
秀吉は自分の手を見た。大きな、節くれだった手だった。
「墨俣に城を建てた折もそうよ。皆、わしが幸運で建てたと思うておる。……あれはな、材木をどこで刻んで、どの順で川に流して、どこで組むかを先に決めてあっただけじゃ。手柄でも何でもない。段取りじゃ」
俺は思わず顔を上げた。
――ああ。
この人は、同じ側の人間だ。
現場を回したことがある人間の言葉だ。
「武功を立てる者は山ほどおる。じゃが、陣が腐らぬようにする者はおらん。誰もやらんし、やっても誰も褒めん。……そなた、それを承知で申したな?」
見抜かれていた。
「……はい」
隠しても仕方がない。俺は認めた。
「誰も引き受けたがらぬ役目にございます。ゆえに、某のような者でも、置いていただけるかと存じました」
秀吉が、目を細めた。
「――気に入った」
*
「松之助に、五百石をやる」
あっさりと、そう言われた。
「小田原ではわしの側におれ。そなたの申した水と厠の差配、陣中で好きにやってみよ。……できるか」
俺は畳に額をつけた。
「必ず、成し遂げまする」
「よし」
秀吉は満足そうに頷き、それから思い出したように付け加えた。
「――それと、いつまでも松之助では格好がつかぬ。元服させよ」
「……は」
「名は、そうさな。……小出の家から出てきたのじゃ、苗字はそのまま小出でよかろう。角も立つまい」
しばらく宙を睨んでから、秀吉は言った。
「――俊定。小出俊定じゃ」
*
その日から、俺は小出俊定になった。
与えられた部屋は、聚楽第の隅も隅の、四畳半である。
五百石といっても、屋敷が建つわけでも家臣がつくわけでもない。俺の身分は関白の小姓で、実質は使い走りだ。
だが、俺は板張りの天井を見上げながら、悪くない気分でいた。
五百石。
自分の名前。
そして、「水と厠の差配」という、はっきりした持ち場。
――足場が組めた。
現場は、まず足場からだ。
足場のない場所で仕事はできない。逆に言えば、足場さえ組めれば、あとは高さの問題でしかない。
俺は目を閉じて、頭の中の工程表に最初の一行を書き込んだ。
――第一工程、着手。




