第二話 一国一城
起き上がれるようになるまでに、さらに三日かかった。
その三日を、俺は情報収集に使った。
現場に入って最初にやることは、いつだって同じだ。今がいつで、ここがどこで、誰がいて、何があって、何がないのかを把握する。それをやらずに動き出す監督は、必ず事故を起こす。
まず、体の中に二種類の記憶があることを受け入れた。
四十年分の矢衣銀平と、十五年分の松之助。どちらも消えていない。押しのけ合ってもいない。棚を二段に分けて、両方しまってある感じだ。都合がいいのか悪いのか分からないが、少なくとも言葉には困らなかった。松之助の記憶を引けば、この時代の言葉は普通に出てくる。
次に、暦を確かめた。
枕元に来た小者に、何気ない顔で「今年は何年であったかな」と聞いた。頭を打ったせいということにすれば、たいていのことは聞ける。
「天正十七年にございます」
――天正十七年。
俺は天井を見上げたまま、しばらく口を利けなかった。
城が好きだった。神社仏閣も好きだった。休みが取れれば一人で電車に乗って、石垣を見に行った。案内板を端から端まで読んで、帰りに図録を買って、それをプレハブの休憩室で読むのが唯一の趣味だった。
図録の次は歴史の本で、歴史の本の次は、なぜか歌集だった。神社の由来書きに古い歌が引いてあるのが気になって、一冊買ったのが始まりだった。
現場でその話をしたことは、一度もない。日焼けした角刈りの監督が休憩室で古今集を読んでいると知れたら、面倒なことになるに決まっていた。
だから、それなりに知っている。専門家ほどではないが、素人よりは知っている。
天正十七年。西暦でいえば一五八九年。
豊臣秀吉が関白として、この国のほぼ全部を握っている。
残っているのは関東の北条と、東北。
――来年だ。
――来年、小田原征伐が始まる。
それが終われば天下は統一される。だがその先に何があるかを、俺は知っている。
朝鮮への出兵。何万人も死ぬ。
関白秀次の切腹。妻子まで河原で斬られる。
秀吉の死。
関ヶ原。
そして大坂の陣で、豊臣家は滅びる。
全部、この先二十五年の間に起きる。
背筋が冷えた。
――ここは、地雷原の真ん中だ。
豊臣の身内だからといって安全ではない。むしろ逆だ。この先、秀吉の身内は片端から死ぬ。関白まで登り詰めた甥ですら、妻子ごと消される。
俺の中の松之助は、その豊臣一門の、末端も末端にいる。
*
その日の夕方、屋敷の空気が浮ついていた。
廊下ですれ違った侍女たちが、頬を上気させて何か話している。耳をそばだてると、大坂から早馬が来たらしい。
「関白様に、若君がお生まれあそばされたそうな」
俺は足を止めた。
――若君。天正十七年に生まれた、秀吉の子。
鶴松だ。
秀吉が五十を過ぎて初めて授かった実子。淀の方が産んだ子。溺愛された子。
――そして、三つで死ぬ子だ。
あの子が死ぬから、秀吉は跡継ぎに秀次を据える。
その後で秀頼が生まれるから、秀次が要らなくなる。
だから秀次は殺される。妻も子も、三条河原で。
この屋敷で笑い合っている侍女たちは、誰もそれを知らない。
俺だけが知っている。
――知っていて、何ができる。
自分に問いかけて、すぐに答えが出た。
何もできない。少なくとも今は。十五の、元服もしていない、居場所のない養子に、天下の何が変えられる。
止めようとして手を伸ばせば、まず自分の首が飛ぶ。それだけだ。
俺は現場の人間だ。無理な工程を「気合いでやります」と請け負う監督から先に潰れていくのを、嫌というほど見てきた。
だから、まず自分の足場を組む。
*
その晩、俺は寝床の中で工程表を引いた。頭の中で、である。
目標を決める。
――天下は取らない。
これは即決だった。
天下人になるということは、日本で一番デカい現場の、一番デカい責任を背負うということだ。前世で三十人の会社の現場一つを回すだけで胃を壊した男が、何を血迷って天下を狙うのか。
それに、天下を狙う位置にいる人間から順に死んでいく。信長も、秀次も、秀頼も。あんな場所に立ちたくない。
――だが、今のままも嫌だ。
このままいけば、松之助は「小出家にいた、名も残らない養子」で終わる。誰の役にも立たず、誰にも必要とされず、屋敷の隅で年を取って死ぬ。
それは、前世の俺と同じだ。
病室の白い天井を思い出した。
あのとき、俺が一番悔しかったのは、痛みでも、死ぬことでもなかった。
――何も完工しなかった。
それだけだ。
二十年、他人の現場を回し続けた。どれもいい仕事をしたつもりだ。だが、どれも「自分の現場」ではなかった。工期が終われば次の現場へ行くだけで、後には何も残らない。振り返ったとき、自分の名前で建てたものが一つもなかった。
俺は布団の中で、両手を開いて見た。
暗くて見えないが、動くことは分かる。痛くないことも分かる。
――今度こそ、自分の現場を持つ。
城が欲しい。
馬鹿げているようだが、本気でそう思った。
自分の縄張りで、自分の段取りで、自分の名前で建てた城。そこに家臣がいて、領民がいて、飯を食っていて、誰も無駄に死なない。
天下ではなく、一国一城でいい。いや、一国もいらない。身の丈に合った現場でいい。
そして、その現場を最後まで見届ける。
途中で死なない。四十一で終わらない。老いるまで生きて、自分の建てたものが立っているのを、この目で見て死ぬ。
――それが、二度目の人生の工程表だ。
決めてしまうと、驚くほど気が楽になった。
目標が決まれば、あとは逆算するだけだ。
*
三日後、俺は養父・小出吉政の前に座っていた。
三十になるかならないかの男だ。まじめで、律儀で、そして今、非常に居心地が悪そうにしている。
「松之助。……もう起きて大事ないのか」
「はい。ご心配をおかけいたしました」
吉政は膝の上で手を組んだり、ほどいたりしている。何か言おうとしては、やめている。
――ああ。この顔だ。
前世で何度も見た。
人を減らさなければならないのに、それを切り出せない管理職の顔だ。悪い人間ではない。むしろ悪くないから言えない。言えないまま先延ばしにして、双方が気まずくなっていく。
二年前、この男に実子が生まれた。吉英という。今は三つだ。
跡取りができた家に、跡取り候補の養子がいる。誰も口には出さないが、全員が困っている。俺自身も含めて。
だったら、こちらから言うのが早い。
現場でも同じだ。言いにくいことは、言いにくい側から先に口を開いてやると、話が一気に進む。
「父上。お願いがございます」
吉政が顔を上げた。
「吉英殿がお健やかにお育ちのこと、まことに祝着に存じます。……小出の家は、これで安泰にございましょう」
男の肩が、わずかに強張った。
「されば、某はそろそろ、この家をお暇いたしとうございます」
部屋が静かになった。
「……松之助」
「誤解なさいますな。追い出されると思うて申しているのではございませぬ。父上には何の落ち度もございません。よくしていただきました」
これは本当だった。松之助の記憶をたどっても、この男が意地悪をした場面は一つも出てこない。ただ、居場所がなかっただけだ。それは誰の罪でもない。
「ただ、某がこのまま屋敷にいても、吉英殿のためになりませぬ。家の者も気を遣いましょう。……某も、いつまでも人の家で厄介になっているのは性に合いませぬ」
「……どうする気だ」
吉政の声が掠れていた。
「関白様のもとへ、小姓として出仕させていただきとうございます」
男が目を見開いた。
「北政所様は某の実父の妹。関白様にとっては縁者にあたります。取り立てていただくには、細すぎもせぬ筋かと存じます」
「……し、しかし、そなた、まだ元服も」
「そのついでに済ませていただければ、二度手間になりませぬ」
我ながら味も素っ気もない言い方をしたと思う。
だが吉政は、笑わなかった。しばらく黙って俺を見ていた。
「……松之助。そなた、木から落ちてから、少し変わったな」
「頭を打ちましたゆえ」
「そうか」
それ以上は聞かれなかった。
この人は、深く詮索しない人だ。それは長所でもあり、この二年、俺の立場を宙に浮かせ続けた短所でもある。
やがて吉政は、深く頭を下げた。
養父が養子に頭を下げるのは、順序としておかしい。
「……すまぬ」
その一言だけだった。
俺は畳に手をついて、こちらも頭を下げた。
「二年、ありがとうございました」
恨みはなかった。
だが、温かくもなかった。
義理を果たして、義理を返された。それだけの別れだ。
*
話は、驚くほど早く進んだ。
実父・木下家定への文が飛び、大坂へ使いが走り、返事が来るまでひと月とかからなかった。
誰も反対しなかった。むしろ全員が、肩の荷を下ろしたような顔をしていた。
出立の朝、吉政は路銀と、一頭の馬をくれた。
「達者でな」
「父上も、ご息災で」
それだけ言って、俺は馬に乗った。
振り返らなかった。
振り返っても、そこに俺の場所はないと知っていたからだ。
だが、腹は据わっていた。
――さて。
――ここからが、俺の現場だ。




