第一話 白い天井と緑の森
白い天井を、ずっと見ていた。
四十年生きて、最後の三ヶ月で一番長く見つめたものが病院の天井だというのは、我ながら情けない話だと思う。染み一つない、のっぺりとした白。空調の吹き出し口の位置も、蛍光灯の継ぎ目の数も、もう覚えてしまった。
消毒液の匂いがする。点滴が落ちる音がする。廊下を看護師が早足で通り過ぎる音がする。
俺の名は矢衣銀平。四十歳。土木工事会社の現場監督だ。従業員三十人足らずの、どこにでもある中小の会社。安全帯を締めて、朝は六時前に現場に立って、夜は事務所で書類を作って、日付が変わってから帰る。そういう暮らしを二十年近く続けてきた。
四十歳の健康診断で、肺に影が見つかった。
精密検査で末期だと言われた。
抗がん剤で髪が抜け、体重が二十キロ落ちた。腕を持ち上げるのに全力を使うようになった。
妻はいない。子もいない。作る暇がなかった、と言えば言い訳になるだろうか。仕事が忙しかったのは事実だが、忙しさを言い訳にして何もしなかったのも事実だ。
だから見舞いに来るのは、会社の人間ばかりだった。
現場の若いのが、缶コーヒーを持ってきて、泣きそうな顔で「監督、早く戻ってきてくださいよ」と言った。戻れるわけがないと本人も分かっていて、それでもそう言った。俺は「あの擁壁の型枠、ちゃんと墨出しからやり直せよ」と返した。他に言うことを思いつかなかった。
薄れていく意識の中で、俺が考えていたのは現場のことだった。
あの工区、誰が引き継いだんだろうな。段取りの半分は俺の頭の中にしかないぞ。ちゃんと申し送りしておけばよかった。
四十一歳の誕生日まで、あと四日だった。
――ああ。
結局、俺の人生、何も完工しなかったな。
そう思ったところで、白い天井が消えた。
*
緑だった。
目に飛び込んできたのは、天井ではなく、重なり合った木の葉だった。隙間から光が差している。
匂いが違う。消毒液じゃない。土と、腐った落ち葉と、青い草の匂いだ。
風が吹いて、頭上でざわりと葉が鳴った。
――なんだこれ。
考えようとした瞬間、後頭部に杭を打ち込まれたような激痛が走った。
視界が真っ赤に染まる。
「ぎっ……あ……ッ」
声が出た。自分の声じゃない。もっと高い、若い声だ。
混乱する頭に、二つの映像が同時に流れ込んできた。
病室の白い天井。安全帯のバックル。工程表の朱書き。缶コーヒー。抗がん剤の点滴袋。
――そして。
板張りの廊下。粗末な小袖。庭で遊ぶ幼い子の笑い声。自分を見る大人たちの、どこか困ったような目。
二つの記憶が頭の中でぶつかり合って、火花を散らした。
どちらも自分のものだった。どちらも他人のもののようだった。
「若様! 若様がお木から落ちなさったぞ!」
「医者だ、医者を呼べ!」
遠くで誰かが叫んでいる。
妙な言葉遣いだと思った。芝居がかっている、と思った。
そこまでで、俺の意識は途切れた。
*
それからのことは、断片しか覚えていない。
熱が出た。ひどい熱だった。
濡れた布を額に載せられ、それが乾くとまた替えられる。その繰り返しが何度あったのか分からない。
目を開けると、見たことのない天井があった。板だ。梁が剥き出しになっている。
誰かが枕元で経を読んでいる。
誰かが「これは頭の中を打たれたせいで気が触れたのでは」と囁いている。
誰かが「そもそも十五にもなって木登りなどなさるから」と溜息をついている。
――十五。
その言葉に、俺の中の何かが反応した。
俺は四十歳だ。いや、四十歳だった。あと四日で四十一だった。
だが今、俺の意識が入っている体は、十五歳の少年のものだ。
名は松之助。
播磨姫路の木下家定という男の、四男。ただし側室の子だ。
だから系図の上では四番目に書かれるが、実際に生まれたのは兄弟の三番目にあたる。正室の子である弟の方が、順番では上に書かれる。母親が誰かで、書かれる場所が変わる。そういう家だ。
その松之助は、和泉国の小出吉政という男の養子に出された。
そして二年ほど前、その養父に待望の実子が生まれた。
――ああ。
そういうことか。
熱にうなされながら、俺はやけに冷静にそれを理解した。
実家に居場所がなくて養子に出され、その養家にも跡取りが生まれて、また居場所がなくなった。だから十五になっても元服の話一つ出ない。誰も彼の将来を本気で考えていない。
屋敷にいても、誰の役にも立たない。誰も彼を必要としていない。
だからこの少年は、一人で森へ出て、木に登っていたのだ。
落ちるわけだ、と思った。
あんな腐りかけた枝に足をかけたら、落ちるに決まっている。
――足場の点検はな、登る前にやるんだよ。
そう思った瞬間、猛烈な吐き気がこみ上げてきた。
俺は枕元に置かれた桶に顔を突っ込んで、胃の中のものを全部吐いた。何も入っていなかったので、途中からは胃液しか出なかった。
誰かが背中をさすってくれている。
その手は温かかったが、俺はそれどころではなかった。
――待て。待て待て待て。
――ここは、どこだ。いつだ。
――今の言葉遣い、あれは何だ。時代劇か。誰かが金をかけてふざけているのか。
違う、と自分の中の冷静な部分が答えた。
匂いが違う。埃と、煤と、汗と、乾いた藁の匂い。こんな匂いを再現できる撮影所はない。
畳の目の粗さが違う。天井の板の削り跡が違う。手斧で削った跡だ。機械じゃない。
俺は現場の人間だ。
物の作り方を見れば、それがいつの物か、どれだけ手間がかかっているかが分かってしまう。
――本物だ。ここは本物だ。
それを認めた瞬間、俺はまた気を失った。
*
熱が引いたのは、それから四日目の朝だったと後で聞いた。
目が覚めたとき、部屋には誰もいなかった。
板張りの天井。手斧の削り跡。障子の隙間から差し込む朝の光。埃が舞っているのが見える。
外で鳥が鳴いている。誰かが水を汲む音がする。
俺は、ゆっくりと右手を持ち上げた。
上がった。
抵抗なく、するりと、肩から先が持ち上がった。
指を握った。開いた。また握った。
骨に皮を貼り付けたような、あの枯れ枝みたいな手ではない。日に焼けて、爪の間に土が入っている、十五の少年の手だ。
左手も上げた。上がった。
両手を目の前で組んで、力を入れてみた。入る。ちゃんと入る。
布団をはねのけて、上半身を起こした。
起きられた。眩暈はしたが、それは四日寝込んだ人間の眩暈だ。癌に食われた人間の眩暈ではない。
俺は自分の腹に手を当てた。
痛くない。
あの、内臓の奥のほうから鈍く広がってくる、逃げ場のない痛み。三ヶ月間、目が覚めている間ずっと俺の中にあったあれが、どこにもない。
何度も押した。強く押した。
痛くない。
「……は」
声が漏れた。
「……はは。……なんだよ、これ」
視界が滲んだ。
拭っても拭っても滲んだ。
最後に泣いたのがいつだったか、俺は思い出せなかった。現場で怒鳴られても、施主に土下座させられても、末期だと告げられても、泣かなかった。泣いたところで工程が進むわけじゃないと思っていた。
なのに今、俺は板張りの天井の下で、みっともなく声を上げて泣いていた。
痛くない。
手が上がる。
腹が減っている。
――生きてる。
俺は、生きている。
どういう仕組みで、誰の都合で、何のためにかは分からない。
分からないが、俺の中には四十年分の記憶と、十五年分の記憶と、そして痛みのない体がある。
障子の向こうで、幼い子供の笑い声がした。
養父の実子だろう。三つになるかならないかの声だ。
その声を聞きながら、俺は濡れた顔をぐいと袖で拭った。
――さて。
まずは現状把握だ。
ここはどこで、今はいつで、俺は誰で、周りには誰がいて、何を持っていて、何を持っていないのか。
それが分からなければ、段取りは組めない。




