第5話「赤いちゃんちゃんこ」
私たちは、探検と称して色んな入ってはいけないところに足を踏み入れて遊んでいた。その日は、県道の細い道沿いに有刺鉄線が巻かれた緑の金網フェンスの一か所、子供がやっと入れる破れた箇所から敷地に入っていた。
ミドリちゃんが、通る時に、背中を有刺鉄線でひっかけてシャツに穴をあけていた。
――だが、あの有刺鉄線の向こう側から聞こえてきたのは、虫の羽音など生温いと思えるほどの、巨大な『肉のあがき』の音だったのだ。
途端、静寂を破って、ぽっかりと四角いコンクリートブロックを積み上げて作った、大きなプールが出現した。
足元の暗闇からじゅぶ……びちゃびちゃ……ぐじゅ……という音が聞こえ始める。
それは、カブトエビやミジンコが背中をかきむしるように這い回る音を、何千倍にも大きくしたような、肉と泥がひしめき合う悍ましい音。
勇気を出しコンクリートの中を覗き込んだ。
突如、足元からなまぬるい内臓が腐ったような熱い息が鼻を突いた。ぱ、ぱ、ぱ、ぱと無数の黒い口が見えた。
水のない泥の底で、灰色のてらてらした脂じみた光沢のある体をぐねらせる無数の巨大な怪物が、真っ赤な目を、明滅させながら、滑り台のような斜めのコンクリートを這い上がろうとぐ ぱ……んちゃ……ふちゅと音を立てていた。
寝る前にお母さんが読んでくれた、「蜘蛛の糸」という絵本を思い出した。血走った目の亡者が目の前まで迫って、大きな地獄の入り口があーんと口をあけ引きずり込もうとしている。
私は悪いことをした!
私は、人の家の敷地に勝手に入った罪悪感で、帰ってから書斎にいたお父さんに泣きついた。
お父さんは、勝手に人の家に入ったことは咎めず、ただ私が見た汚泥の中でひしめいていた亡者の様子を聞き、狭い部屋を覆いつくしている本の中から分厚い一冊の百科事典を出し、あるページの小さな写真を見せてくれた。
「赤い目か……もしかしたら雷魚かもしれん。
世の中をよく見たら、何でもちゃんと理由がある。深呼吸して物事の本質を見極めれるようになろうな。そしたら怖いもんも怖なくなる」と優しく教えてくれた。
私は怖がりで、夜は目の前のトイレにすら一人で行けなくなっていた。寝る前も、家のきしむ音、アマガエルやウシガエルの耳を割く叫び声と突如訪れる静寂に耐えきれず、眠りに付けなくなっていた。
寝ようとしても目は冴えてくる。天井の木目が豆電球の薄暗さの中、笑うように揺れ、廊下の電気をつけていも、波打つカーテン裏から生えた黒い指がカーテンを持ち上げようとする。
学校の薄暗く尿と芳香の臭いの立ち込めるトイレは行くことができず、さらに家まで三十分かかる通学路を限界まで我慢し、病気になることが多かった。今思えば、そんな私を心配してのことだったと思う。
当時は父の言っている意味は、難しくてよく分らなかっtたが、物事の現象に理由が付くことで、不思議と恐怖は薄れる気がした。
それからは、彼女の話を聞いた時の、理由のつかない恐怖のことも考えるようになった。
私たちはいつものメンバーで、用水路の縁にみんなで並んで座って、足元でゆらゆら揺れている真緑色の長い藻の間を縫うように流れていく小鮒を見下ろしていた。
「これはな、戦争終わった時にアメリカの兵隊さんが、全国に噂話の拡がり方を調べるため、に流した怖い話やねん」
私は耳だけ彼女の話に傾けながら、目の前の用水路の縁にくっついている小さなタニシ、藻の下に隠れる小鮒の群れを覗き込んでいた。藻の奥で屍となったアメリカザリガニの白い腹が見えた。
ちゃぷちゃふと流れる水面に映る自分の顔をに視点を向けた。私の顔が歪に揺れていた。
「――それでな、……『赤いちゃんちゃんこ着たいか?』って聞かれれるんよ」
私は藻の下に素早く隠れた少し大きなフナを見ていて皆のやり取りを遠くで聞いていた。ちょっと間があったので、彼女を見たら目が合った。私の方に手をのばそうとした。
「なぁ~『着たい』?」
私は「あ、」と身を乗り出し、何かを見つけたフリをして咄嗟に彼女の手を避けた。彼女の手が少し止まり、彼女は自分の両手を自分の肩からお腹にかけてゆっくりと縦に撫でた。
「『着たい』って返事したら、赤いちゃんちゃんこを着さされたみたいに、――こんな風に、赤く血で染まるんよ。だから絶対に聞かれても、返事したらあかんよ」
ある日、キヨちゃんとさっちゃんの家の前の道路と駐車場の間の用水路を飛び越えて遊んでいた時、キヨちゃんと彼女が、年下組の私たち三人に、普段男の子達が遊んでいる広場に縄跳びを忘れたからみんなで探しに行ってと言ってきた。
キヨちゃんはボールとゴム飛びのゴムを持ってくると目の前の家へと戻っていった。
駐車場に帰ってきたとき、彼女が「キヨちゃんが消えた。」、と言った。さっちゃんがま真っ青な顔で「お姉ちゃんは家におるんちゃうん?」とすぐ前の家に駆け込んでいった。
残ったミドリちゃんと私は、祈るような気持ちでさっちゃんがキヨちゃんと家から出てくるのを待った。
「おらん!おねえちゃん!おねえちゃんがおらん!」
さっちゃんが泣きながら家から出てきた。
――カーン……カーン……カーン……
「あの音や……キヨちゃんはあの音に近づいたんかもしれん。やから、連れていかれた。帰ってきても、もうそれはキヨちゃんやないかもしれん……」
「探しに行こうよ!」
「探してもええけど、あの音の方はあかん」
私達三人は必死にキヨちゃんを探した。松の木の間の小さな祠、不法投棄された淵、石の秘密基地、不穏なウシガエルの鳴き声が響く池。どれも、どこかが少し変わって見えた。
私達は汗だくになりながら、最後にキヨちゃんとさっちゃんの家を覗いた。仄暗い部屋の中、影が動いた。
「おねえちゃん!」
「ちょっとッ!!さっちゃん、あかん!……来んときッ!」
私は玄関でさっちゃんの後ろから、泣きそうな顔で部屋の奥の陰に立ち尽くすキヨちゃんの姿を見た。
その後ろには赤い目のグジュグジュとした何かが壁一面に蠢いていた。まるで地獄から無数の亡者がキヨちゃんに手を伸ばして引きずり込もうとしているかのように。
――キヨちゃんは見覚えのない、黒ずんだ血の色のスカートを履いていた。
カン!カン!カン!あの洋館から音が聞こえた。
それ以降、キヨちゃんも彼女も私と遊ばなくなり疎遠となった。
私が小学校三年生の時に、さっちゃんはすっかり大人びたキヨちゃんと一緒に家に来た。家を引き払い引っ越しをするから、持っていた漫画をあげると。
私は活字の本しか読んではいけない家だったので、残念だったが断って受け取らなかった。ミドリちゃんも中途半端な時期に転校した。
そしてあの彼女も、程なくして引っ越していった。引っ越すというよりある日突然、初めからいなかったかのように忽然と消えた。
洋館も壁一面に蔦が覆い尽くし、虫たちの水槽はヒビが入って割れていた。二階の細い窓にかかった黄ばんだカーテン、は一筋だけ濃い茶色に変色していた。
お母さんに聞いても、何も知らないと言っていた。
――そして、学校ではこんな噂が流ながれていた。
「トイレで赤いちゃんちゃんこを着たいか?って三回聞かれんねん。
一回目は『いいえ』って答えると、逃げられる。でも、二回目はカーンカーンと大きな口をあけて少しずつ近づいて来る。それが聞こえたらもう逃げられへん。
『いいえ』って言い続けても、……着さされんねん。
『赤いワンピースを』」
時として、音の霊は物に宿る。それは言語が紡ぐ音が耳から、あるいは視覚を介して体内に侵入し、脳を静かに揺さぶる。
その音を振動に乗せている間は、呪いも耳を傾ける。――思えば、彼女は常に何かに怯えていた。そして、絶対に返事をしてはいけないと言っていた。
彼女は語る事で、一段ずつ階段を降りてくる怪異を遠ざけていたのかもしれない。私にも時折聞こえるあの金属音は、ち近くも遠くもなく脳裏に響く。本当に聞こえているのか、脳に刻まれた記憶の音なのか分からない。でも、聞こえる。しかし、今、こうやって言葉を紡いでいる間は音が聞こえてこない。
私は返事はしていない。
怪異は返事を待たない。耳を塞いでも、文字を追うあなたの視界から入った光の波は、脳を小刻みに揺さぶり続け、ずるりと体の奥底へと侵入する。
すぐさま血となり肉となり、内側から反乱さえ起こす。血の涙を流す石像のように、皮膚を突き破りひたひたと滲み、囁き始めるのだ。
だから、思い出してはいけない。私のように。
子供の他愛のない噂話、無邪気な幼少期の記憶。“それ”は無邪気さを利用し、無意識を媒体とし、常に変異する。あの、少しずつ尾ひれがついてディテールが変化する、怪談話のように。
あの山から見下ろす用途不明な四角い板も、静かに震えながら私たちに何かを届けている。目に映った景色すら言霊としてびりびりと放出される。
それはむしゃむしゃと体を喰み、例え首だけとなろうとも、内臓を引きずり出されようとも、潰されて事切れようとも……、命の叫びとして永遠の呪いとなって響き続ける。
“返事”してはいけない。しかし、いたずらに井戸の縁に手をかけ、深淵を覗き込んでもいけない。怪異は常に見えない形で忍び寄っている。赤く点滅する電波塔がそれ以上の意味を持った時、それは、形を得るのだ。
手段を変え、姿を変え、どこからともなく共鳴し続ける。ほら、もう脳裏に響いているはずだ。あのアマガエルの大合唱も、電話越しから聞こえる声も、井戸から這い上がってくる声も。家電のモーターが吐き出す熱の、その細い震えさえも。
――そして、行間に滲む、ヘタで、まちがいだらけの、わざとらしい文字のざらつきにも。
今、あなたの頭の奥で、あるいは部屋のどこかで、『あの金属音』が響いてはいないだろうか?カーン……カーン……と、遠くの工事現場の足場を叩くような、あの高い音だ。あるいは、トタンがカタンカタンとぶつかる音かもしれない。
いや、追いかけられるように見られている視線のような音なき音かもしれない。
絶対に、頭の中でも、声に出しても、それを思い描いて返事をしてはいけない。
彼女は言った。返事をしてはいけないと。
そういえば、学校で習った関数のグラフを覚えているだろうか?関数で表す音の周波数はX軸をきれいに半分ずらすだけで、山と谷が真逆になり音が消えるのだ。私が地獄の淵で足掻く命の音を、同じ解像度で必死に紡ぎ続けていた理由がこれだ。
ただ、私は混ぜてしまった。
雑音を。
つまり、あなたがこれから紡いでいく「音の関数」は元から狂い、歪んでいる。あなたの脳裏、耳の裏で聞こえ、そしてこれからもふと聞こえ続ける怪異の音から逃れたくば、地獄の淵で足掻く命の音を紡ぎ、波をずらしt続けるしかないのだ。
大半の読者は、一話二話辺りで誤字脱字の多さに呆rれ、淡々としたし進行から目を逸らし始める。ここまで来た選ばれたあなたにζ御礼を申し上げる。
ありがとう。私は役目を終えることができました。
【あとがき】
だから――次はあなたの番。あぁ、嬉しい。




