第五話 我は主なり
水辺の主が山から消えてから、季節はいくつか巡った。
我の身体は大きく、厚くなった。
肩は張り、前脚は石を砕くほど重くなり、立ち上がれば木の枝へ鼻先が届いた。
毛は深く密になり、爪は黒く湾曲していた。
木々には爪跡を残した。
高く、深く、何度も。
ここは我の場所だと、森へ刻みつけた。
この山の生き物たちは知っている。
誰が主たるか?を。
腹を満たすには、もう果実も木の実だけも足りない。
肉が必要だった。
四本足で跳ねるもの。
牙を持つ四本足。
水辺で生息する生き物。
追い、倒し、裂き、喰った。
熱い血が喉を通る。
骨を砕けば髄が舌へ絡む。
それでも。
満たされぬものがあった。
あの二本足の血肉の匂いを忘れられない。
だが二本足に手をだしてはならない、二本足を襲えば大量の二本足が山に入り襲いかかるのを知っている。
水辺のに主はあれだけ大きな身体だあったがもうこの山には居ない。
今日も腐った木に生えた植物でも喰べるかと起き上がった瞬間。
巣穴の崖下からあの嫌な音が聴こえた。
チリン。
チリン。
耳が立つ。
あの音。
我は反射のまま藪へ沈んだ。
風下へ回る。
音を殺す。
息を細くする。
二本足だった。
ひとつ。
山へ一匹で入ってきた。
小さい、細い、身体の線は丸く、脚は軽い。
オスとは違う匂い。
だが頭から放つあの鼻を刺す臭いは同じだった。花の様な匂いだが二本足のメスは毛に匂いをつけている。
だが、草でも花でもない。
二本足だけが好む、濃く湿った臭い。
私は藪の奥から見ていた。
「綺麗な景色。この辺りなら、たくさんキノコが採れそうね」
小さく鳴きながら、だが甲高くはない。
山へ響かせる吠え方でもない。
柔らかく、流れる声だった。
この二本足は叫べぬのか。
それとも、まだ危険を知らぬのか。
そいつはしゃがみ込み、倒木から私の食べ物を採り始めた。
我の縄張りで我の食べ物を採るというのか?
このまま襲ってはどうだろう?
四本足たちの様に周囲への警戒すらしていない。
背を向けている。
首が見える。
細い。
毛はなく、肉は剥き出しなままではないか。甘美な体臭が口中からよだれがあふれでる。
…喰いたい…
汗、体臭…
あの甘い肉の下にある、メスの肉の匂い。
胸が熱くなった。
首から背へ毛が逆立つ。
耳は立ち、鼻先が震える。
脚へ力が集まる。
飛び出したい。
押さえつけ、倒し、腹を裂きたい。
いや、尻から引き裂き温かいハラワタを引き摺りたい。
単純に身体が目の前にいる肉塊を欲した。
だが身体は動かなかった。
親の記憶が、頭の中で唸った。
二本足は危ない。
あの棒。
あの裂ける音。
山から水辺の主を消し去った。
目の前の一匹を喰えば二本足らは集団で我に襲いかかるだろう。
また群れが来る。
身体は知っていた。
喰えば、山が騒ぐ。
我は一歩、後ろへ下がった。
音を立てず。
もう一歩。
藪の影へ溶けるように。
それでも柔らかで簡単にへし折れそうな首からは目を離さなかった。
また…な。と。
我はゆっくりとその場を去った。
喉の奥で唸りを殺しながら。
振り返らず。
だが鼻先には、いつまでもあの肉の匂いが残っていた。




