第四話 山が騒ぐ
巣穴へ戻る前。
私は水の流れへ入り、身体についた匂いを落とした。
赤い体液、肉の脂。
腐りかけた甘い肉の匂い。
そして、奴の匂い。
流れに身体をこすりつける。
冷たい水が毛の奥へ入り、赤黒いものを剥がしていく。
岸へ上がると、匂いの強い草へ身体を押しつけた。
葉を折り、茎を潰し、汁を毛へ擦り込む。
土にも転がった。
消したかった。
あの喰い場へ、自分の匂いを置いてきた。
足跡を刻み、毛まで落としてきた。
踏み込んではならない領域に踏み込んでしまった。
私が肉塊になる理由はそれだけで十分だった。
私は巣穴へ潜り込み、耳を澄ませた。いつ匂いを辿ってこの穴に襲いかかるのか……。恐怖はやがて諦めにも変わった。
だが奴は来なかった。
日が昇り日が沈む。
二回目の日が昇り日が沈んだ。
…まだ来ない。
代わりに、山には違う音が響いていた。
チリーン。
チリーン。
乾いた、硬い音。
野山にはない音だった。
鼻先へ流れてきたのは、二本足の匂いだ。
二本足特有の身体から染み出ている匂い。だがそれとは別の…
あの嫌な匂いもする…。
長い筒を持ち、いくつもの二本足が歩いていた。
頭や胸に、丸い果実の皮のような色のものを付けている。
派手で、浮いていて、森の色ではなかった。
叫びながら歩いていた。
「おーい!」
「助けに来たぞー!」
「返事してくれー!」
意味は分からない。
だが落ち着きのない声だった。
二本足たちのそばには、四本足の吠えるものもいた。
細く長い鼻先。
速い脚。
忙しく揺れる尾。
そいつらは地面を嗅ぎ、藪へ顔を突っ込み、突然こちらへ向いて吠えた。
「ワン! ワン!」
身体が固まる。
鼻が利く。
耳も利く。
厄介なものだった。
ならばと風上には回らず見ていた。
そして二本足の手には、あの棒。
鼻を刺す匂いを吐き、山を裂く音を出す棒。
今、外へ出るな。
身体の奥で、親の記憶が唸った。
危ないものが満ちたときは、
籠れ、距離を取れ、動くな。
私は巣穴の暗さへ沈み、時が過ぎるのを待った。
遠くで吠え声が走った。
「ワンワン!」
「ワンワン!」
次の瞬間。
山が裂けた。
あの叫びは水辺の奴の咆哮だった。
腹の底を揺らす、怒りと痛みの混ざった叫び。
水辺の主。
あの大きな影。
吠えるものたちの声。
二本足の怒鳴り声。
枝の折れる音。
土を蹴る音。
山中がざわめいた。
いつもの山ではなかった。
一つ目の轟音で木々からは空を飛ぶ動物たちが一斉に羽ばたき、
また空気が震える。
「まだや!次撃て」
二本足の叫びが轟いた瞬間、また山中に鳴り響いたが木々は揺れるのをやめた。地面の虫まで黙った。
静寂の世界がしばらく続いていた。
私は巣穴の奥で身体を縮めた。
鼻先に届く風が変わる。
あの刺激の匂い、二本足らの匂い。
そして、薄れていく奴の匂い。
やがて。
すべてが止まった世界は動き始めた。
吠えるもの。
怒鳴るもの。
枝の折れる音。
しばらくして。
二本足たちの荒い息だけが残った。
何かを引きずる音。
濡れた肉が地を擦る音。
それも遠ざかる。
山にいつもの静けさが戻った。
だが前と同じ静けさではなかった。
水辺へ向かう風から、あの匂いはもう来ない。
大きく、冷たく、尖った匂い。
山から、ひとつの匂いが消えた。
自然の摂理、弱肉強食。
木々だけが、何事もなかったように揺れていた。




