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深山の王  作者: 森村征爾
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第三話 畏れ

暖かい日差しが、やがて暑さへ変わる頃。ようやく一人でも喰い物を捕えることが出来た。

もう待っていた親は穴には帰らなかった。


一人で生き抜く。そう決めてからは

喰えるものなら何でも食べた。

果実や木の実を食べ、時には腐敗した4本足の生き物も食べた。

飢えから解放されるには喰らうこと、自分の血肉に変えるためだ。

喉の乾きは水場で補える。


地を流れる水場で、親によく似た生き物と出会った。

大きい。

重い。

四つ足。

だが匂いが違った。

あの温かい匂いではない。

胸の奥を満たす匂いでもない。

冷たく、尖り、乾いた匂いだった。

離れていても、そいつはこちらを見ていた。

じっと、動かず、瞬きも少なく。

目を離してはならない。

身体の奥がそう叫んでいた。



鼻息が荒くなる。

肩が上がる。

毛が逆立つ。

私は水辺の石のように固まり、そいつを見返した。

そいつはゆっくりと水へ入った。

流れの中央で止まり、腕と口で水の生き物を挟み込む。

跳ねる銀をそのまま咥え、振り返らず去っていった。

しばらく身体は動かなかった。

やがて強ばりがほどける。


私は元の道を引き返した。

恐れということを初めて理解した。

喰われる。存在が消える…。

私は理解した。

その途中、木々がそいつの匂いを放っていた。

幹には深い爪跡。

樹皮は剥がれ、毛がいくつも残っている。

ここは我が場所。

そう刻みつけているようだった。

私は匂いを嗅ぎ、黙って通り過ぎた。

私の身体はまだ小さい。

まだ足りない。

身体がそれを知っていた。

それでも、この山を離れはしなかった。

生まれ、育ち、眠った場所。

木の根の匂いも、岩の冷たさも、風の通り道も知っている。

奪われたままにはしたくなかった。

だが今の身体では、そいつに牙を向けても風に散るだけだった。

悔しさは空腹より長く残った。


山の葉が枯れ始めた頃。

二本足たちが山へ入り始めた。


危ないものたち。


私は気配を殺し、藪の中で通り過ぎるのを待った。

山はいつも声に満ちている。

空を飛ぶものの声。

木を渡る長い手足のものの声。

土を掘るものの低い声。

だが、その日聞いた声は違った。

裂ける声だった。



「ぎゃーーっ!」



「くるな!」

意味は分からない。

だが恐れだけは、風より速く伝わった。

やがて静かになった。

山は何事もなかったように戻った。

私は寝床へ戻り、身体を丸めた。



だが翌朝。

目が覚めたときから、鼻先が騒いでいた。

濃い匂い。

木の実ではない。

果実でもない。

魚でもない。

腐敗した肉でもない、新鮮な肉の匂い。

甘く、深く、腹の奥へ直接落ちてくる匂い。

血が早くなる。

喉が鳴る。

我慢などできなかった。

足は勝手に匂いの方へ向いた。

寝床から少し離れた場所。

大きな木々が密に立ち、下には藪が絡み合っている。

鼻先が告げる。

この先だ。

私は身体を低くし、音を消して進んだ。

藪の奥に、ぽっかりと土の見える場所があった。

地面は赤黒く沈み、踏むたび粘りついた。

赤い体液だった。

乾きかけた膜の下で、まだ湿りを残している。

腹からこぼれたものと混ざり、甘く腐り、鼻先へまとわりついてきた。

白い骨が散っている。

骨には赤い筋が張りつき、噛みちぎられた端は毛羽立っていた。


周囲には指のついた細い骨。

半分ちぎれた腕。

皮の垂れ下がった脚。

噛み潰された顔。

その顔の片側から、丸いものがこぼれ出ていた。

鼻先がさらに濃い匂いを拾う。

まだある。

もっと大きな肉が近くにある。

身体がそちらへ向きかけた、そのとき。

風が変わった。

水辺の主の匂い。

全身の毛が逆立った。

ここは奴の食う場所。

これは奴の獲物。



…しまった…。


私は牙を閉じ、踵を返した。

藪を裂き、木々の間を駆け抜ける。

背後の森が、いつまでもこちらを見ている気がした。

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