第十四話 空の支配者
山は、明らかに変わっていた。
白い綿毛を踏む音だけが尾根に響く。以前なら、どこかで山の四本足が枝を鳴らし、小さな生き物たちが枯葉の下を走っていた。沢へ下りれば銀色が跳ね、水の匂いが流れていた。
だが今は違う。
静かすぎた。
風が木々を揺らす音ばかりが耳に残る。その静けさは冬の眠りではない。山そのものが、生命を絶っている気配だった。
鼻先へ流れてくる匂いも変わっていた。
煙、油、鉄。
そして、濃くなり続ける二本足たちの臭気。
老いたオスと出会ってから、山へ入る二本足は急に増えた。尾根にも沢にも足跡が残り、見慣れぬ匂いが木々へ染みついている。
腹を満たす為、綿毛を踏みしめながら、慎重に尾根を進んだ。
なんだ?
辺りを見渡す、羽虫か?いや…違う!
山に無い音が空気を切り裂きながら低く、頭上から響いた。
山の空を飛ぶ生き物ではない。
我は反射的に顔を上げた。
木々の隙間の向こう、空を滑るように黒い影が浮かんでいた。羽ばたきもしない。風にも逆らい、ゆっくりと山を舐め回すように動いている。
…黒い羽虫…。
腹の下には丸い目のようなものがぶら下がり、真っ直ぐこちらを向いていた。
見られている。
その感覚が、背中の毛を逆立てた。
咄嗟に木の陰へ身を沈めた、だが黒い羽虫は我を舐め回す様に近づいてくる。
低い羽音が、頭の奥を掻き回すように響いた。
山を見渡すのは主である我だけだ。
風を読み、匂いを追い、気配を探る。それは山に生きるものの役目だ。
なのに今は違う…。
二本足たちが空から山を覗いている。
黒い羽虫はさらに近づく。
羽音が大きくなるにつれ、胸の奥のざわめきが怒りへ変わっていった。
次の瞬間、巨木へ身体をぶつける。乾いた破裂音と共に木が軋み、傾いた幹が黒い羽虫へ叩きつけられた。
硬い音が山へ響く。
黒い羽虫は砕け散り、黒い破片を綿毛の上へまき散らしながら落ちた。羽音は止まり、静寂が戻る。
だが、胸のざわめきは消えなかった…。
沢を渡り、尾根を越え、深い森へ入る。だが、どこへ逃げても同じだった。
木には赤い目を持つ黒い箱が括り付けられている。
近づけば小さな光が灯り、こちらを見つめてくる。
二本足たちは姿を隠したまま、見ている…。
やがて遠くから声が響いた。
「こっちだ!」
「また壊されてるぞ!」
綿毛を踏み荒らしながら、何匹もの二本足が山を登ってくる。長い筒を抱え、辺りを警戒しながら進んでいた。
その匂いは、獲物を追う我と同じだった。
藪の奥へ身を沈め、風下へ逃げようとした。
…その時…。
山全体を震わせるような轟音が響いた。
空気が揺れる。
木々の枝から綿毛が舞い散る。
我は反射的に地面へ身を伏せた。
再び、あの音。
今度はもっと近い。
空を見上げた瞬間、巨大な影が尾根の向こうから現れた。
黒い鉄の鳥だった。
羽を回しながら空を裂き、山の上を低く飛んでくる。腹の横には赤い光が点滅し、轟音を撒き散らしていた。
雪煙が舞い上がる。
木々が激しく揺れる。
あまりの風圧に、細い枝が次々と折れていった。
我は耳を伏せ、牙を剥いた。
精一杯の威嚇だった…。
鉄の鳥は尾根の上で旋回し続けている。腹の横からは、何かを探すような視線を感じた。
「いたら絶対わかる!」
「この辺りだ!」
二本足たちの怒鳴り声が風へ混じる。
山が狭くなっていく…。
逃げ場が削られていく…。
沢へ下りても銀色はいない。牙の生えた四本足たちも姿を消えた。
飢えだけが腹の奥で暴れ続けている。
走っても、走っても、頭上では鉄の鳥が追い続ける。
空には黒い羽虫。
木には赤い目。
地上には長い筒を持った二本足。
どこへ行っても…。
見られている。
追われている。
胸の奥に沈んでいた畏れは、ゆっくりと形を変えていった。
今まで我を見ながら喰われたメス。
逃げ場を失い、絶望の匂いを撒き散らしていた姿が脳裏へ蘇る。
あれと同じだった。
山の主だったはずの我が…。
二本足たちの臭気が、また近づいていた。




