第十二話 畏れ
巣穴へ戻っても、深い眠りは来なかった。
肩の傷は浅い。舌で舐めれば血は止まり、 肉もすぐ塞がる。それでも身体の奥が静まらない。
目を閉じるたび、あの老いたオスの目が浮かぶ。
小さく、老い、力も弱った二本足。喉へ牙を入れれば骨ごと砕けたはずだった。
それなのに、我は退いた…。
白い綿毛が巣穴の外で音もなく降り続いている。山は静かだった。木々も、岩も、水の流れすら眠っているようだった。
だが、我の内側だけが荒れていた。
腹の奥が熱い、落ち着かぬ。
巣穴の中を歩き回り、壁へ身体を擦りつけても消えない。爪で土を掘り返し、唸り声を漏らしても静まらない。
…何故だ…。
何故、あの老いたオスから目を離せなかった。
何故、我はあの場で飛びかからなかった。
長い筒を向けたまま、一歩も退かなかった二本足。
肩は震えていた。吐く息も乱れていた。畏れていたのだ。鼻先へ流れた匂いが、それを教えていた。
だが、それだけではなかった。
あの老いたオスの匂いには、別のものが混ざっていた。
覚悟、そして、殺意。
我を殺すという意思。
喰い物が、牙を向けてきた。
その記憶が、胸の奥を掻き乱していた。
低く唸りながら、我は巣穴の入口へ顔を向けた。
白い綿毛の向こうに、暗い山が広がっている。
この山は我の縄張りだ。
縄張りへ入った生き物はすべて叩き潰した。四本足も、牙を持つ獣も、二本足も何匹も裂き、喰らった。
逆らう者など、もう居ないはずだった。
それなのに…。
あの老いたオスだけは違った。
身体の奥がざわつく。
そして、不意に思い出した。
まだ身体が小さかった頃。
水辺の主と向かい合った時のことを。
巨大な影。濁った息。睨まれただけで脚が動かなくなった。喉の奥が震え、逃げたいのに動けなかった。
あの時の感覚…。
我はずっと忘れていた…。
だが今、同じものが胸の奥で蠢いている。
違う…。
違う違う違う…。
我は山の主、山の王だ。
二本足など喰い物だ。
それなのに…。
何故、胸がざわつく。
何故、牙が疼く。
若いメスの匂いが鼻の奥によみがえる。
甘い匂いだった。
まだ山の畏れを知らぬ肉。
あの柔らかな首へ牙を沈める瞬間を想像しただけで、腹の奥が熱くなる。
喰いたい。
あの肉を喰いたい。
だが同時に、老いたオスの目が浮かぶ。
真っ直ぐ我を見ていた目。
逃げぬ目。
殺す覚悟を持った目。
我は唸り声を漏らし、巣穴の奥へ爪を叩きつけた。土が弾け、乾いた石が転がる。
それでも静まらない。
眠れない。
白い綿毛は降り続いている。
山は静かなのに、我の中だけが騒ぎ続けていた。
そして、ようやく理解する。
あの時、感じていた畏れは、老いたオスのものではなかった。
我自身が放っていた匂いだったのだ。
理解した瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
怒りとも違う。
飢えとも違う。
もっと黒く、深いもの。
我は暗い巣穴の奥で目を開いたまま、白い綿毛が止むのを待ち続けていた。




