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深山の王  作者: 森村征爾
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第十一話 畏れの匂い

二本足のメスが山へ一匹で入る時、もう迷いはなかった。

風下へ回り、気配を沈め、逃げ道を塞ぐ。叫ぶ前に首へ牙を入れれば終わる。何度も繰り返した。


肉を喰らったあとも、すべては残さない。手や足、頭を山の奥へ運び、別々に埋める。四本足は匂いを辿る生き物だ。

ここを通った、ここに居た。そうして山へ匂いを撒き散らしてやれば、追ってきた二本足はその痕跡を拾いながら山へ踏み込んでくる。

 そして、山を畏れる。

 それが心地よかった。


山の四本足も水辺の銀色も、もう喰えない。

腹は満ちる、だが舌が喜ばなかった。


 二本足のメスでなければ。


今では、我を見て固まるものが良かった。逃げようとして転ぶもの。震えながら息を漏らすもの。涙と汗で匂いを濃くするもの。

その畏怖と絶望に満ちた肉は、他の生き物とは違っていた。

牙を立てる前から、絶望の眼差しが我の食欲を掻き立てる。

畏れの匂いは、なんと甘美なのだろう。

山を移動しながら、我はあの匂いを探していた。



 そして見つけた。


 喰い損ねた、あのメスの匂いを。


忘れられぬ二本足だった。

匂いの先には、古い木で囲われた二本足の巣があった。

獣の皮と煙の臭いが染みついた、長く山に居る二本足の巣だった。

綿毛に埋もれかけた小さな巣。その中に二匹いる。


 以前、喰い損ねた若いメス。

 そして、歩みの遅い老いたオス。

 我は岩陰へ腹を伏せ、風を嗅いだ。

 若く甘い匂いだ。


 今までの喰ったどのメスとも違う。まだ山の畏れを知らぬ匂い。警戒を知らず、怯えを知らず、生きている匂いだった。

やがて若いメスが巣から出てきた。木桶へ水を移しながら、小さく鼻歌のような声を漏らしている。白い息が冷えた空気へ消えていく。

周囲を見ない、警戒もない。

喉が鳴った。

ここから駆け下りれば、すぐ届く。

だが巣の中には、老いたオスがいる。

そして、長い筒の臭い。

以前なら、それだけで離れていた。


 だが今は違う。

二本足への畏れは、もう薄れていた。

あの水辺の主よりも我は大きくなった。縄張りを奪いに来た生き物もすべて退けた。二本足すら何匹も裂き、喰らった。


 負けるはずがない。


崖を下り、音を殺しながら木々の間を滑るように進む。白い綿毛が深く脚を沈める。それでもゆっくり距離を詰めた。

若いメスは、まだ気づかない。

あと少し。

風向きは我へ流れている。

その時だった。

巣の戸が開き、老いたオスが姿を現した。


 気づかれたか…。


だが構わない。

あのような小さき二本足など、問題にならぬ。

老いたオスは長い筒を手にしたまま、真っ直ぐこちらを見ていた。

目が合う、それでも逃げない、叫びもしない。


 何故だ。


畏れの匂いがしない。

いや、違う。

微かに畏れている。

だが、それだけではない。

覚悟の匂いだった。

老いたオスは若いメスを背へ隠すように、一歩前へ出る。長い筒が、ゆっくり我へ向けられた。


 山の空気が静まり返った。


我は低く唸る。

だが老いたオスは動かない。

その後ろで、若いメスだけが震えていた。畏れの匂いが濃く広がり、冷えた空気の中へ滲んでいく。

それなのに目の前の老いたオスからは、別の匂いが漂っていた。



 凄まじい殺意。


我を殺すという意思。

理解出来ぬ…。

この山で。我の縄張りで。我へ殺意を向けるなど。

喉の奥から唸りが漏れる。

柔らかな首へ牙を沈めたい。白い綿毛の上へ押し倒し、温かい内側を裂きたい。

 だが、その前にこの老いたオスを消さねばならない。

怒りが身体の奥からこみ上げた。

我は咆哮した、山が震える。

木々に積もった白い綿毛が崩れ落ちる。


 その瞬間だった。

 轟音が鳴り、長い筒が火を吹いた。

 空気が裂ける。


次の瞬間、肩へ熱が走った。

肉が弾け、衝撃で身体が揺れる。反射のまま後ろへ飛び退いた。

理解できなかった。


 喰い物が、逆らうというのか…。


老いたオスはなおも長い筒を構えていた。肩を震わせながら、それでも目を逸らさない。

その匂いが、さらに我を乱した。


 畏れ、殺意、覚悟。

弱き生き物の匂いではなかった。

我は低く唸りながら、一歩、また一歩と後ずさる。

若いメスの匂いが鼻先へ残る。

忘れぬ、あの肉は、必ず喰う。


木々の奥へ身を沈めながらも、視線だけは最後まで老いたオスから離せなかった。

空からは、また白い綿毛が静かに落ち始めていた。

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