後編
でも、それを聞いた彼女の表情は暗い。しばらく何かを考え込んでいるみたいだったけれど、僕が黙って待っていたら、やがて再び口を開いてくれた。
「わたくしは……生まれたそのときより、贄として育てられました。死ぬために育った命ゆえ、もはや帰る場所もございません。……もし、ご無礼をお許しいただけるのなら、このままわたくしの役目を全うさせてくださいませ」
わたくしは、そのためだけに生きているのです。
静かなそれは、親を亡くした海鳥の鳴き声にも似ていた。
元より、ただの村娘にしては行儀を知っているようだった。加えて、もうとっくに村の仕事にかり出されるだろう年頃なのに、肌や髪が日に焼けた様子もなく、手足はやせ細っている。そのくせ、掃除の手際はやけに良い。
神に無礼のないように作法を叩き込まれ――しかし、外へ出ることは禁じられていたし、彼女自身が尊ばれることもなかった。そんな過去が、冷静に見ていれば容易に想像ができた。
『役目』を必死なまでに果たそうとするのも、それだけが彼女の生きる意味だったからか。
「なら、貰おう」
それが何であれ、捧げられたものは受け取るのが神というものだ。
娘の身体が小さく震える。腕を伸ばして、細いその手首をそっと取る。
そして。
「じゃ、君は今日から僕のお嫁さんね」
宣言。
娘が俯いていた顔を上げた。驚きに丸くなった瞳と、目が合う。
「南の海の姉さんがさ、会う度に結婚はいいぞ~ってのろけてくるんだよ。だから僕もお嫁さんほしくて。ちょうど良かった」
「わ、私が!? 海神様の!? なんで!?」
「なんでも何も。僕への捧げものなんだから、どう扱おうと僕の自由でしょ」
「恐れ多いです! 私などなんのお役にも――」
「お掃除上手じゃん。僕は細かいこと苦手だから、すごく助かる」
驚きすぎて口調が崩れてきてるのが面白い。言うと戻っちゃいそうだから黙っておいて、代わりに周囲を示して見せた。
戻ってきたばかりの頃は散らかり放題だった部屋の中が、ぴかぴか……とまではいかないけれど、それなりに秩序を取り戻してきている。埋まっていた床は見えるようになり、バラバラに落ちていた供物は、大ざっぱではあるけど分類されて、何箇所かに纏められている。
これらはほぼ全て、話しながらもテキパキと手を動かし続けていた彼女の功績だ。僕は大体貝と海草拾ってただけだから。
「それに君からは……僕に気に入られようとか、僕に何かをして欲しいとか、そういった欲を感じない。一緒に居て悪い気分はしない」
僕に直に会いに来ようという人間は大抵、繁栄だの復讐だの、我欲に目をぎらつかせている。別にそれが悪いとは思わないものの、なんか疲れそうで傍に置く気にはならない。まあ、向こうにだってそんな気はないだろうけど。
でも彼女からは、僕の機嫌を損ねないように、という意識は感じるけど、その根っこは神への畏れと敬いだ。そういった人の想いは、僕ら神の力となる。
けど、言うなればそれだけで。大したことを言ったつもりなんてなくて。
それなのに。
「……私」
小さな小さな、声。
「そんなこと、初めて言われました」
これまでずっと、絶望や緊張にこわばっていた表情が緩む。ほんのかすかではあるけれど、彼女の口元が弧を描いている。
どこまでも蒼い瞳が、僕を見ている。
「わかりました。……ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願い申し上げます」
ぼんやりと声を聞いていた僕の前で、彼女がそっと頭を下げた。よろしく、ってなんだっけ。どうしてかよく回らない頭で、二度三度と聞こえた音を反復させる。あ、そうだ、お嫁さんにするんだ。
「う、うん。よろしくね」
小さく細い手を握ってみる。一瞬ぴくりと震えたけれど、振り払われることもなく、控えめに絡められる指先。
やっぱさ、この子、可愛いって。
「ところで君、名前はなんていうの」
海鳥が立てる波のようなふわふわとした気持ちのまま、そういえば聞いてなかったなと思い出した。すると彼女は、少しばかり困ったように眉を下げる。
「ありません。皆からはずっと、『贄の娘』と呼ばれておりました」
「マジで? えー、それで呼ぶのもなんだかなーだよね。えーとじゃあ……エニ、エニでどう」
贄、をひっくり返して、エニ。
……僕としては、咄嗟に思いついたにしては可愛いかなって思ったけど、後に南の姉さんに「由来があり得ん」「デリカシーがない」とバチボコに貶されることになる名前だ。
それでもこのときの彼女は、えに、と数回その名を唇に乗せて――嬉しそうに、頬を赤らめた。
「お名前をいただけるなど……光栄です。ご恩に報いられるよう、精一杯努めさせていただきます」
僕は、良いお嫁さんを貰ったのかもしれない。
そんなことを思うのは、神様としてチョロすぎるのかもしれないけど。その儚げな笑みを見たとき、確かにそう感じてしまった。
大事にしなくちゃ。守ってあげなきゃ。僕は神様なのだから。
――そう思っていた時期もありました。
「海神様、いつまで寝床にいらっしゃるのですか? そろそろお目覚めくださいませ。そろそろ北東の潮の流れを整えるとおっしゃっていたではありませんか!」
「ええ~~~、もうちょっと寝たい~~~」
「ですが、先日のタコとイカの諍いについての結論も出していないでしょう?」
「うっ、それは……そう……」
そう、彼女は本当に頑張り屋さんだったのだ。
「細かいことが苦手」と言った僕のため、細かいことに気をつけて、今僕が何をやるべきかを丁寧に知らせてくれるようになった。
大変ありがたいことだと思う。エニが元気になったのも、すごくいいことだ。だけど、僕は仕事からぼんやり逃げられなくなったし、これじゃあお嫁さんというよりお母さんみたいで……
「難破船より流れ着いたものは仕分けておきましたので、そちらは最後のご確認だけお願いいたします」
「エニさん好き」
「まあ」
でも、言った通りに精一杯、僕の苦手を補おうとしてくれて。こんな僕の一言に、嬉しそうに頬を染める。そんな彼女が、今日も可愛くて仕方がなかった。




