その後の村で
静かな夜だった。
薄い雲の向こうに浮かぶ三日月が、ぼんやりと頼りない光を放っている。生ぬるい潮風を肌に受けながら、僕は久方ぶりに訪れる地上を歩いていた。
訪れた村は、眠りに落ちているようだった。点在する家々は明かりを落とし、人の姿は見えない。漁村ならば夜釣りの船の一艘でも出ているかと思ったが、今夜はそれもないようだった。
目的の場所を目指し、柔らかな砂浜を踏んで歩く。ほどなくそこは見つかった。
村にある他の家より少し大きく、しかし記憶にある村長の家とは違う場所。ささやかなものではあるが、どことなく趣味の悪い豪華さが見え隠れする、貧しい漁村の空気からはやや浮いた家。
そこへ、僕はゆっくりと片手をかざした。
波の音だけが耳を打つ、長く静かな夜の中、変化は不意に訪れた。
目の前に建つ家の、使い込まれた玄関扉。固く閉じられたそれの下部から、じわりと漏れ出した水。
風の纏う潮の匂いが増した。密やかな海の気配は、閉ざされた扉も窓も意に介さない。
静かな夜だった。
どれほどの時間が経っただろう。徐々に東の空は白くなり、三日月は霞むように消えていこうとしている。
「あんた、そこで何をしとる?」
ふと、背中にかかった声に振り向けば、そこには老いた男が一人。
僕が問いかけに答えるよりも早く、僕の顔を見たその男は、さっと顔を青ざめさせた。
「海神様……!?」
おや、僕の顔を知っている。となると村長の血筋の人だろうか。人間はあっという間に見た目が変わるから、よく思い出せないけど。
「か、海神様が何故このようなところに……? も、もしや捧げものがお気に召しませんでしたか!?」
「違うよ~。……ああでも、気に入らないことがあった、っていうのはちょっとだけ」
そう言ってぼくが、ちらり、と家に視線を向ければ、彼もまたそれを追うようにそちらを向く。家に灯りは灯らず、静かなままだ。
「貰った贄の子が言っていたよ。自分は贄として育てられたから、名前すらないんだって。加えて、一通りの家事はできるのに、何をするにも自信がない。自分は役立たずだって言う。こんなの、家族として扱われていたのかも怪しいって思うよね」
この家は、そう。彼女の生家だ。
「別にね、虐げられていたものとか、邪魔だったものとか、そういうのを捧げられるのに文句はないよ? 捧げられたなら受け取る。僕らはそういうものだからね。だけどさ、今回に関しては、そもそも産まれたときから生贄だったわけじゃん」
いまいち要領を得ていない顔で、それでも黙って僕の言葉に耳を傾ける村長に、微笑んでやる。
「それってさ、『産まれたときから僕のもの』だよね?」
あ、と。掠れた声が聞こえた。
彼もようやく気づいたのだろう、僕が何に腹を立てたか。
「僕のものを勝手に傷つけられて、黙ってるわけにはいかないよ」
「……あの娘が、それを望んだのですか……?」
「いや? あの子は何の恨み言も言わなかった。ただ自分の役目を果たそうとだけしていたよ。……だから、罰は主犯格だけにして、この村そのものは許した」
彼女が復讐をと望むなら、こんな村、いつでも海に沈めてやった。彼女の境遇を見て見ぬふりをした者たちも、同罪とすることはできる。
でも、エニはそれを望まなかった。ただそれだけの話だ。
「だけど今日、ちゃんと伝えたからね。『僕のものを傷つけるな』。破ったら二度目はないよ」
「は……はい……!」
「あ、荒れた海は何とかするから心配ないよ。でも生贄はもういらなーい。とっても可愛いお嫁さんができたからね」
「は……ありがとうございます……!!」
「あの子の好きそうなおやつや飾りなら貰ってもいいけど! それじゃあね~」
深く深く頭を下げる村長を置いて、僕は海へと帰る。
遠ざかった村長が、やがてあの家の扉を開けるのがほんの少し見えたけど、あんなところに入ったって、魚やナマコやイソギンチャクがいるだけだ。
それらが何のなれの果てか、彼ならすぐにわかるだろう。
振り返るのをやめて、海へと潜る。ついさっきまでの出来事なんて、海面へ立ちのぼる泡のように弾けて、忘れてしまった。
うちで待つ僕のお嫁さんは、今日はどんな笑顔で「おかえりなさい」をくれるのか。帰路についた僕には、それしか頭にないのだから。
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