前編
人が、降ってきた。
長い黒髪が、海草のように漂っていた。たっぷりと海水を吸った服の合間から、血の気を失った白い肌が見えた。両の目は固く閉じられ、引き結ばれた口元からぷくぷくと泡が上っていて、それだけが彼女の生を物語っている。
僕は数秒、呆然として沈み来る娘を見つめた。海神だって、のんびりしてるときに急になんか落ちてきたらびっくりする。
人だと認識したあとは、まず海面を確認した。近くに船底が見えたのなら、そこから落ちてきたんだろうから帰してやればそれで済む。無い。
そもそもこの辺りは切り立った崖に近い海中で、わざわざそんな場所に船で近づく奴は少ない。そんならもう身投げか殺人の二択じゃないか? 事故もあるか?
人間て大変だなぁ……なーんて考えながら、娘に向けて手をかざした。娘の体が淡く輝いて、唇からこぼれていた泡が止まる。
死んだわけじゃない。むしろ逆で、海神の加護を得た彼女は、もはや海に傷つけられることはなくなった。水中で呼吸だってできるし、たとえ海底深くまで潜ったとしても、身体が潰れたりもしない。
それでしばらく様子を見ていると、彼女も自分の状況に気づいたのだろう。うっすらと目が開き、一度、二度、幼子が不思議がるような瞬きをする。思わず身体を起こそうとでもしたのか、海流に合わせて頭からくるりと回転なんかもしていた。
海中をうろついていた視線が、やがて僕を見つけて止まった。よくよく見れば、ぱっちりとした丸い目が印象的な可愛い娘だ。晴れた日の海の色をした瞳も気に入った。
「あなた、は……」
水中でも声が出ることを確かめるかのように、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。僕は背筋を伸ばし、可能な限り威厳のある声を出す。中身はこんなだけど、人間の前では見栄くらい張りたい。
「僕はこの海の神だ。人の子よ、何故、我が領域へと踏み込んだ?」
まあ聞いとくか一応、くらいのつもりで問いかけた。こっちからなんか振った方が話しやすいかなー、と思ったのもある。そこまで含みを持った発言ものつもりではなかった。
だが娘は、今以上に青くなる余地があったのかと驚くほど顔を青ざめさせ、必死の形相で僕に向かって頭を下げた。
「ご、ご無礼を働き、申し訳ございません……! わたくしは海神様のために捧げられた贄にございます。この身と命であがなう覚悟はできております、どうぞお怒りをお鎮めくださいませ」
「え??? ん???」
怯えと恐怖、そして諦め。この世の絶望を濃縮したかのような表情をした娘が、しかし淀みなく述べる言葉に首を傾げる。
お怒りって何? 僕なんかしたっけ?
記憶にない怒りの許しを乞われた僕の困惑をどう受け取ったのか、娘の顔に浮かぶ絶望が濃くなった。
「わたくしでは……不足でございましょうか……」
震える声に、勘違いの上塗りが始まる気配を感じる。不足とかじゃなくて、と言うより早く、彼女は土下座する勢いで僕に頭を下げた。
「お許しください! この身全て、あなた様の糧となる覚悟もできております! どうか……!」
「いや待って!! 食べないから話を進めないで!!」
「ですがわたくしはそのために」
「わかったじゃあ僕んちの片付け手伝ってくれる!?」
僕は人食いはしないタイプの神様です!! でもこれは、僕から何か言わないと落ち着いてくれないやつだ。
そう思って咄嗟に言いつけると、彼女は海色の瞳をぱちぱちと瞬かせた。うん、やっぱり普通にしてると可愛い子だ。
「お、お片付け? ですか?」
「そう。僕んち散らかってんの。着いてきて」
手招きして、すいと泳ぎ出す。彼女はしばし呆然としているようだったが、文句も言わず僕の後に従った。逃げ帰ってくれるならそれでも良かったけど、責任感の強い人間らしい。
ここからもう少し先に潜った海底に、僕の住居はある。何事だろうと様子を窺ってくる魚たちの横をすり抜け、砂と岩と珊瑚で作った小さな城へ。
巻き貝をモチーフに作ってみたその城は、分厚い海水を通して差し込む光を浴びて、幻想的に映ったのかもしれない。背後の娘が小さく感嘆の声を漏らすのが聞こえた。
が。扉を開いて一歩そこに踏み込むと、彼女は確かに「うわ」と言った。
ここは海の中だから、海底の砂や貝、海草の切れ端なんかが度々流れ込んでくる。積もったそれらに覆い隠れた床は、正直に言えば見栄えが悪い。
加えて僕は、人に捧げられたものは断らない主義だから、供物と称して海へ投げられた様々なものがあちらこちらに散らばっている。
「ほら、散らかってるでしょ。僕、片付け苦手なんだ。めんどくさいから」
「は、はあ……」
「一人じゃやる気も起きないから、手伝ってくれると助かるな。ついでに君の事情も聞かせてよ」
どっこらしょ、と床の貝をひとつ拾い上げる。これだけでもう気が重いが、恐らく何らかの供物が入っていたのだろう空箱にそれを放り投げ、次は別の貝へ。
動き出した僕を見て、娘も慌てて手伝いに来た。最初は僕と同じように貝や海草を拾い集め、スペースが空いてきたと見ると、今度は供物だったものの整理を始めてくれている。助かる~。
「……わたくしは、ミズノハの村の者です」
そうやって作業をしていたら、彼女はぽつりと語り出した。
「我が村は古くより海神様を奉り、海の恵みを頼りに暮らしておりました。ですがいつからか、海は荒れ、不漁が続くようになり……このままではいずれ、村は滅んでしまうでしょう。その前に海神様のお怒りを解くために、捧げものとしてわたくしが選ばれました」
なるほど、神に贄を捧げる経緯としては、まあよくある話だと思う。ただ、僕に心当たりが全くないだけで。
「別にお怒りしてないんだけど……確かにちょっと海の管理をサボッてた時期はあったけど、滅ぶとかそんな大げさじゃない?」
「わたくしが生まれる以前のことは伝聞ですが、もう20年近く続いていると聞きます。村を出る者も多く、村民も半分以下に減ったと……」
「20年くらいでそんなになるの!? それはごめんね!!?」
やばい、それだとやっちまったかもしれない。
僕はこの辺りの海を管理する神だけど、確かにちょっと、20年くらいぐうたらしていた。とはいえ海が死に絶えるほど管理放棄したわけじゃないし、その間にも海に命は生まれ続けている。
多少海が荒れたところで、ほんの20年少し、あっという間だし大したことはないと思ってた。人と僕らでは時間の感覚も、それが及ぼす影響も違うことを忘れてた。
と、いうようなことを順を追ってゆっくりと話したら、彼女はポカーンと口を開けて僕を見ていた。でも片付けの手は止まらなかった。ちょっと真面目すぎんか。
「では本当に……お怒りではない……?」
「そう言ってるよ! むしろ、その『怒ってるから生贄』はどっから出たの?」
逆に問い返すと、彼女は床の砂を外へと追い出しながらも答えた。
「60年ほど前に大雨が続いた際、贄の娘を海へと捧げたら雨が止んだという言い伝えがあり……」
「雨は僕の管理外だからめっちゃ偶然。てか、捧げられた娘さんてのも知らないし……あっ、でもひょっとしたらあの子かな。海の前で恋人と逃げてた気がするよ」
「100年ほど前には、海を穢された神の怒りで村が危うく水没するところだったとも……」
「そ、それはごめん。やりました。当時の村長が調子に乗って好き放題してて……でも、村ごと沈めようとしたのには反省してます。悪いのは個人だもんね」
「そう……なのですか……」
ゆっくりと、僕の言葉を噛みしめるように彼女は呟く。その間にも、その手は高級そうな壺の砂を丁寧に払っているのがすごいと思う。
「うん。だからさ、間違いで捧げられたってことで帰っても大丈夫だよ。僕がちょっとサボり過ぎてたのが悪かったし、贄がなくても海のことは何とかするから」
向こうからは言い出しづらいかな、と思って、促した。彼女も覚悟の上で来てたみたいだけど、なんか色々な勘違いがあったみたいだし。一旦なかったことにしてもいいかなって。




