7 子猫
「ねえ彩葉」
「ん?なに?」
「ハセガワさんって呼び方さ、やっぱり俺気になるんだよね。それに長いし」
仕事から帰ってきた長谷川さんと一緒に、ご飯を食べている時に唐突にそう言われた。
あ…確か私は“りっちゃん”って呼んでたんだっけ…
私は仲のいい男友達や、今までの彼氏は呼び捨てか“くん”づけしていた。
りっちゃんか…
私らしくないな。
「リツくん…」
私は小声でそう呟いてみた。
確かに言いづらい。
りっくん。
こっちのがしっくりくるんだけどな。“ちゃん”づけか…
「だめかな?俺のこと、りっちゃんって呼ぶの」
「それって私から呼び始めたの?」
「え?」
「私なら“りっくん”って呼びそうだなって…」
「あー…それね」
長谷川さんは、箸でつかんでいたハンバーグの付け合わせのブロッコリーを口に運び、それが食べ終わってから教えてくれた。
「俺の趣味がカフェ巡りだったから」
そんな趣味あったんだ。
「最近は全然行ってないんだけどね、そのことを彩葉に話したら“女の子”みたいって笑いながら言って」
私っぽいな。
「あ、最初は“りっくん”って呼んでたんだよ?でもその件で、彩葉はたまに俺のことを“りっちゃん”ってからかうようになって、それが定着した感じかな?」
その話を聞いて納得した。
カップル同士の呼び名ってそんなもんだよな。なんなら名前の原型を留めていない人たちもいるし。
なんか勘繰るようなことしちゃったな。
「そうだったんだね。じゃあこれからは“りっちゃん”って呼ぶね」
「ありがとう」
目の前の長谷川さ…りっちゃんは嬉しそうにしていた。
「ちょっと距離が近づいたみたいで嬉しいな」
りっちゃんは、たまにこういうことを言う。
“ま、その前に彩葉と恋人同士になるのが先なんだけどね”
だとか、今みたいなこととか。
そういうりっちゃんの本音が漏れるたびに、罪悪感で胸が締め付けられた。
バイトでもしようかな。
りっちゃんもパート程度でなら…と前に言っていたし、体に不調もでていない。
今の生活を退屈に感じているわけではないけど…このままじゃやっぱりだめだよね?
りっちゃんから「生活のものはこれで買って」とクレジットカードを渡されていた。
だから食費も日用品もそれで全て賄っていた。
洋服や化粧品なんかも、一緒に買い物に行った時に、全てりっちゃんが買ってくれていた。
りっちゃんが帰ってきたら、相談してみよう。
そう思いながら私はスーパーへと向かった。
あー…寒いな。もう年末か…
働くにしても、年が明けてからでもいいかな。
肌を刺すような冷たい風が、容赦なく吹きつけていた。
年末か…私はりっちゃんと年を越すことになるのか。
一瞬だけ、実家のことが頭をかすめた。
年末年始は実家に帰ろうか…
どうしよう。でもあれこれ聞かれるのも嫌だしな。
仕事も辞めちゃったし、約2年間の記憶もない。もし、その間のことを話されたら矛盾が生まれる。
やっぱり実家に行くのはやめておくか。
……今の私は、どんな顔をして帰ればいいのかわからない。
りっちゃんが帰ってきて、ご飯などをすませると2人でソファに座り、早速バイトのことを話してみた。
「あのね、来年からバイトしようと思って…」
りっちゃんは私を見つめ、一瞬黙った…かと思えばすぐに口を開いた。
「彩葉って猫好き?」
「え…?」
なんで猫?
私バイトの話をしたんだけど…ちゃんと聞き取れなかったのかな?
「猫」
「いや、バイト…」
「うん。ちゃんと聞こえてたよ。それで?猫は好き?」
私にとっては大事な話なのに。
「…猫は好きだけど…実家にもいるし…」
「だよね。前にそう言ってたもんね。今ね、職場の同僚の実家の猫が、子猫を産んだからって飼い主を探してるみたいなんだけど、どうかな?そいつ困っててさ」
話が飛びすぎて頭が追っ付かなかった。
「どうって…?」
「うちに迎えない?子猫」
「子猫…」
「そ。子猫」
子猫…
「…にゃんこがいたら…嬉しいかも…」
「子猫だからお世話が必要でしょ?」
「うん」
「だからバイトは、その子猫が大きくなってからじゃだめかな?」
あー…そういうことか。
だったら先にそう言ってくれたらよかったのに。
私がバイトするのを反対してるのかと思った。
「りっちゃんがそれでいいなら」
「俺は別に彩葉が働いてなくても別にいいんだよ?」
「でも洋服とか買ってもらっちゃってるし…」
「だって彩葉はちゃんと家事やってるでしょ?そんなの当たり前じゃん」
本当に、さもそれが当然だというように、りっちゃんはそう言った。
それからスマホを手に取ると、さっき話していた子猫の写真を私に見せてきた。
「ほら、この子たち。かわいいでしょ」
「わぁ、ちっちゃー…かわいい」
「でしょ?気になる子いる?」
「…直接…会うことってできるのかな?」
「今聞いてみるね」
りっちゃんは早速、連絡をしたようだ。
すぐに返事がきたらしかった。
「大丈夫だって」
「ありがとう」
「明日は休みだから、少し気が早いけどペットショップに行ってみようか」
「そうだね。楽しみ」
次の日、早速ペットショップへ向い、子猫のお迎えをするために色々と見て回った。
一通り買い揃えると家に帰り、次に2人してネットでキャットタワーを探していた。
「ねぇ、これなんてどうかな?」
私はスマホの画面をりっちゃんに見せた。
「おっ。なかなかよさそうだね」
こんな感じで、気に入ったものを見つけるたびに、2人で見せ合っていた。
あれ…?
猫なんて迎えて大丈夫なんだろうか…。
私たちの関係って、そんなんじゃないよね?
なんで私…こんなにも自然に受け入れちゃったんだろう…
「どうしたの?」
「…あ…えっと…」
なんて言えばいいのかわからなかった。
「なに?」
「いや…私たち…」
「私たち?」
「…」
「…」
りっちゃんは、私の次の言葉を待っていてくれた。
「…もしかして、俺たちは恋人同士でもなんでもないのに、子猫を迎えてもいいのか…とか考えてる?」
なんでわかったんだろう…
私は静かに頷いた。
「ははっ。大丈夫だよ。俺元々、猫ちゃん迎えたかったし、いいタイミングだよ」
「でも…」
「いいのいいの。今まで子猫を迎えたかったけど、仕事であまり面倒が見れないでしょ?成猫だったらまだしも、子猫は無理だからね。でも今は彩葉が面倒みれるでしょ?」
「そうだけど…」
「それにね、もし彩葉が出ていく決断をしても、ちゃんと俺はにゃんこを可愛がるから安心して?」
それなら…いいか……?
「それにもう色々買っちゃったしさ」
それもそうだよね。
私はひとまず深く考えないことにした。
猫のお迎えが決まってから、私はその日が楽しみで仕方なかった。
猫の動画を見たり、子猫のお世話の方法を調べたりして過ごしていた。
子猫はまだ生後ひと月だから、迎え入れられるのは、あともうひと月先だ。まだどの子を迎え入れるかは決めていないけど、顔や色で選ぶのではなく、なんとなくのフィーリングで選びたかった。
私はりっちゃんに送ってもらった猫の画像を見ながら、そんなことを1人で考えていた。
いやいや…フィーリングって…
もしここを出ていくことになったら、私とではなく、りっちゃんとフィーリングが合う方がいいに決まってる。
私は…
私は一体どうしたいの…?
何がしたいの?
このままここにいたい?
それともりっちゃんといたい?
好き?
私はりっちゃんのことを好きなの?
どうやったらそういうのってわかるんだろう…
相談…してみようかな。
私は友達のサキが頭に浮かんだ。
サキとは高校からの仲で、今でも定期的に会っていた。
でもやっぱり私はサキにも本音を言えずにいた。前に付き合っていたカズヤの話もしていなかった。でも話さなくてよかったと思っていた。たったの半年しか続かなかったから…。
例え相手が悪かったとしても、私に男を見る目がないと思われるのが嫌だったし、私が振られたとしても、哀れだとか、惨めに思われることがすごく嫌だった。
本当にくだらないプライドだ。
必死さを見せたくなかった。
必死だとも思われたくなかった。
仕事に関しても、男に関しても…。
なんとなくのらりくらりと生きていたのに、ある日突然結婚の報告をする。
しかもそれが私にとっては申し分のないいい男で…なんて妄想することがよくあった。
だからきっと、りっちゃんのことも私は話していないだろう。
…前にサキから連絡がきた時、私はまだ頭が混乱していて、少しそっけない返事をしてしまった。精神的にも落ち着いていなかったから、誰とも連絡をとりたくなかった。
でも…今ならちゃんと話せる。
そう思って、私はサキにメッセージを送った。




