6 プレッシャー
「彩葉、今日はちょっと残業になると思う」
「ご飯は?」
「んー…適当に済ませるから、今日は作らなくていいよ」
「そっか。毎日お疲れ様ね」
私は仕事へ行く長谷川さんを見送るために、玄関でそんな話をしていた。
「彩葉…パワーちょうだい?」
「パワー?
「そ。パワー」
長谷川さんはそう言うと、両手を広げた。
ハグ…ってことかな…?
私が少し戸惑っていると、長谷川さんは私の手を取り自分に引き寄せ、私の腰に腕を回した。
「…長谷川さんっ…」
「だめ?いや?」
子犬のような目でそんなことを言われたら…
「いや…では……ないです」
すると長谷川さんは私のことを抱きしめた。
「…彩葉…彩葉も俺のことを抱きしめて?」
私は言われるがままに長谷川さんの体に腕を回した。
細いと思っていたけど、案外ガッチリとしているように感じた。
…男の人だ…
なんだか久しぶりの感覚に、胸がドキドキとした。
これは…この状況にドキドキしてるの?
それとも相手が長谷川さんだから、過去の私が反応してる…?
「なるべく早く帰れるように頑張るからね」
「無理はしないでください」
「ははっ。敬語が戻ってるよ?」
「…ごめん」
いつもより近くに聞こえる長谷川さんの声が、また私の鼓動を速くさせた。
あれ…?
なにこれ…
私なんでこんなに…
「充電完了。それじゃ行ってくるね。また連絡する」
「うん。いってらっしゃい。気をつけてね」
私がそう言うと、長谷川さんは柔らかく微笑んだ。
病院で抱きしめられた時も、ここに来てすぐに抱きしめられた時もなんとも思わなかったのに。
なんなら少しだけ嫌悪すら感じていたのに…
今は…
ドキドキした。
嫌な感じはしなかった。
私は自分の胸に手を当てた。
この鼓動の速さ…長谷川さんにバレちゃったかな?心臓の音…聞こえちゃったかな…?
今度は火照る顔を両手で包み込んだ。
もしかして私今…顔赤くなってる…?
嘘でしょ?
中学生じゃあるまいし…
私はすぐに洗面所へ向かって鏡を見た。
最悪。
耳まで赤くなってんじゃん…
たかがハグだよ?
リビングに戻ると、私はソファに座った。
落ち着け。落ち着け私。
ただこういうことが久しぶりだったから…だからこうなっただけ。
それともやっぱり、長谷川さんのことを好きだった時の私が、心のどこかで疼いているのか…
だめだ…やっぱりなにも思い出せない。
長谷川さんはきっと、心のどこかで私の記憶が戻ることを願ってるよね?
そう思うと胸が締め付けられた…と同時に、それをプレッシャーに感じる自分もいた。
長谷川さんとの生活は、すでに1ヶ月が経っていた。
思い出せ…
思い出せ…
私は項垂れ、両手で頭を抱え込んだ。
それから今までに見てきた長谷川さんの色々な表情を頭に思い浮かべた。
だめだ…
やっぱりなにも思い出せない。
私は現実逃避をするかのように、子どもの頃に好きだったアニメをテレビに流した。
夜になり、長谷川さんが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま。ちゃんとご飯食べた?」
「うん。食べたよ」
「何食べたの?」
「…お茶漬け…」
「だめだよ?彩葉。買ったものでもいいから、もっとちゃんとしたものを食べなきゃ。デリバリー利用してもいいからさ」
長谷川さんはアウターを脱ぎながら、私を心配するかのようにそう言った。
「ごめんなさい」
「ははっ。素直だね。でもわかるな。自分のためだけに作るのって、なんだか面倒だもんね。俺もそういう時あるから、こんな偉そうに言えないんだけどさ。それでもやっぱり彩葉にはちゃんとしたものを食べて欲しいって思っちゃうんだよな」
優しいな。
そのまま少し会話をしたあと、長谷川さんはシャワーを浴びに行った。
出てくると、ソファに座っている私の隣に長谷川さんも座った。
「なんか今日、元気ない?」
「え?そんなことないよ?」
私はドキッとした。
今日は現実逃避を少しした後、やっぱり記憶のことが気になり、ネットで記憶喪失のことを色々と調べていた。
心理的に記憶障害になったのなら、精神科や催眠療法?などの方法があるみたいだけど、私みたいに頭を強く打って…となると、脳が回復するのを待つしかないようだった。
その情報を見た時、絶望した。
努力ではどうにもならないのか…
「彩葉?なにかあったなら話して?力になるよ?」
「…記憶が…」
「記憶が戻ったの?」
私は否定の意味を込めて首を横に振った。
「…そっか…」
「ごめんなさい…」
「ん?なんで?別にいいよ?それで落ち込んでたの?」
今度は肯定の意味でうなずいた。
「もう…おバカさんだね、彩葉は。そんなんで落ち込む必要ないよ?」
「だって…」
「無理しないで?俺はこのままでもいいから」
優しい長谷川さんの言葉が、胸を締め付けた。
そんなに優しくしないでよ。
「彩葉?泣かないで?」
気がつかないうちに私は泣いていた。
泣きたくない。
泣くのはずるい。
でも今日1日中、ずっと苦しかった。
思い出せないことへの苛立ち、焦り、長谷川さんへの罪悪感…
そんな時に優しくされると…
「ごめんなさい…」
私が呟くようにそう言うと、長谷川さんはそっと私を抱き寄せた。
「だからいいんだってば。今日はそんなことばっか考えてたの?」
「うんっ…っ…」
泣きたくない。
なのに私の涙は次々とあふれ、止まらなかった。
長谷川さんはそんな私の背中を、優しくトントンとしてくれた。
「俺もね、色々調べたんだ。だから一生彩葉の記憶が戻らないかもって、覚悟はしてる。でも希望も捨ててない。前にも言ったけどさ、俺たち今まであんまりデートしてこなかったんだ。でもこれからはいっぱいできるからさ?だから未来を見ていこう?」
私はうなずいた。
「ま、その前に彩葉と恋人同士になるのが先なんだけどね」
長谷川さんは笑いながらそう言っていた。
冗談混じりに言われたその言葉は、今の私にとってはとても重く感じた。
あれから長谷川さんと暮らし始めて2ヶ月が経とうとしていた。
私は毎日、家事をしたり、家の周りを散策するかのように散歩したり、食材や日用品を買いに行ったり、家でのんびりとして過ごしていた。
時間の流れが穏やかで、とても充実した日々だった。
長谷川さんは未だにソファで眠り、私との距離を無理に縮めてこようとはしなかった。
もう2ヶ月も経ったのか。
あっという間だったな。
1日1日の時間はとても穏やかなのに、日が経つのは早く感じた。
“大人になると時間が経つのはあっという間なんだよ”
子どもの頃、母がそう言っていたのをふと思い出した。
本当にそうだと思った。
あの日から長谷川さんならは“充電”を求められていない。
もし今したら、私はどうなるんだろう。
ドキドキとするのだろうか。
あの時は…なんであんなにドキドキしたんだろう…
そういえば…あの時私の顔は赤かった。
長谷川さんはそれを見ただろうか…。
なんだか恥ずかしいな。
試したい。
ハグをして私がどうなるのか試してみたい。
でも私からそんなことはできない。そんな思わせぶりな行動はできない。
でもそんなチャンスは数日後に訪れた。
「ただいまー」
「おかえり」
「あー疲れたー」
珍しく長谷川さんは、そうぼやいた。
長谷川さんは仕事の愚痴などはほとんど言わない人だ。今日はついそう漏らしてしまうほど、忙しかったんだろう。
「彩葉ごめん。充電させて?」
長谷川さんはそう言うと、両腕を広げた。
私は確かめたかったから、素直に長谷川さんに近づき、そっと抱きしめた。
「はー…癒される…」
いつもよりも近い距離で、長谷川さんの声が耳に届く。
…やっぱり…
ドキドキする…
耳が熱くなっているのを感じる。
好きかどうかはわからない。
でも…私は確かに長谷川さんのことを意識し始めている。
そう実感した。
長谷川さんはそっと離れると、私の顔を見た。
私は咄嗟に俯いた。
すると顎を掴まれ上を向かせられた。
「ははっ。かわいっ。赤くなってる」
そう言われて、さらに顔が熱くなったのを感じた。
見られた…
「もうっ。からかわないでっ」
私は逃げるようにしてキッチンへと向かい、夕食の支度をした。




