62 歪んでいたとしても
無事引っ越しが完了した。
りっちゃんと一緒に荷物の整理をして、新しい家具も買ったりした。
「新生活の始まりだね」
「そうだね。まだ少しダンボール残ってるけど、これはすぐに使うものじゃないから、ゆっくり片付けていこうか」
「残りは私がやっておくよ。りっちゃんが仕事の時に」
「1人でしなくていいんだよ?」
「だってこれ、早く片付けないとにゃんずのお気に入りの場所になっちゃうよ?すでにきなこ、隙間から入っていったし」
「えっ?うそ?」
りっちゃんはすぐにそのダンボールを確認していた。
「ははっ。本当だ。きなこ、そこはきなこの家じゃないぞ」
そんな感じで、きなこに声をかけていた。
新しいマンションは、前よりもリビングが広かった。
「またしばらくは、にゃんずたちの様子を見てあげて?きっと彩葉が家にいれば安心するだろうから」
「うん。わかった。まかせて」
りっちゃんはやっぱり、私に家にいて欲しいんだな。
「ベッド大きくしてよかったね」
「ね。きなこがでかくなっちゃったから、これくらいの方がいいよね」
「まだ杏の分も食べてるの?」
「気づいたら取り上げるようにしてるんだけど、あいつ、私の目を盗んで食べることを覚えたの」
「ははっ。悪知恵がついたんだね」
穏やかだな。時間がゆったりと流れているような感じだ。
春の暖かな柔らかい光が、新しく買ったレースのカーテンを透かして、差し込んでくる。
「りっちゃん」
「なーに?」
「いつもありがとね」
「んー?何が?」
「お仕事頑張ってるし、この家もりっちゃんが見つけてくれて…」
「だって不動産屋に勤めてますから」
「ははっ。それでもありがとうなの」
「この家気に入った?」
「うんっ。すっごく」
「それならよかった。彩葉のが家にいる時間が長いからね。彩葉が居心地のいい家がよかったんだ」
本当にこの人は…どこまでも優しい。
りっちゃんがもし…今後私以外に好きな人や、気になる人ができたらどうするんだろう。
確かりっちゃんは、私がスマホを拾って渡した時に、一目惚れをしたと言っていた。
だとしたら、またそんなことがりっちゃんの身に起きても不思議じゃないんだよね?りっちゃんは電車通勤だ。またいつ、誰に一目惚れをするかだなんてわからない。
「どうしたの?」
りっちゃんが私の顔を覗き込まながら聞いてきた。
「なにが?」
「…何考えてたの?」
私は今考えていたことを素直に話した。
「ははっ。大丈夫だよ」
「そんなのわかんないじゃん」
「大丈夫だって」
「だってっ…」
「だって?」
「私わかんないんだもん…一目惚れしたことないから…」
「俺にはもう彩葉がいるんだから、目移りなんてしないよ」
りっちゃんは優しく私を見つめた。
記憶がない時とは違う。
その時よりも、もっともっと優しい顔だ。
ホント…調子狂っちゃう…。
結婚をしてからもう1年が経つのか…。
今まで色々とあったな。
記憶を思い出しす前はすごく幸せだった。一緒にお出かけしたり、居酒屋に行ったり、旅行にも行った。ただ純粋にりっちゃんのことが好きだった。
でも……
記憶を取り戻してから、私は歪んだ。恐怖を感じ、嫌悪感を覚え、全身が震える思いをした。
だけど…
心はりっちゃんのことを愛してると叫んでいた。
そこから私は、その歪んだ愛をりっちゃんにぶつけることにした。
本当に色々とあった1年だった。
りっちゃんは1周年記念として、一輪のバラとケーキを買って帰ってきた。
私はいつもよりもちょっと豪華なご飯を作った。
「はい。お花」
「ありがとうっ」
「来年は2本になるからね」
「…」
「再来年は3本」
「どんどん増えてくの?」
「そう。毎年1本ずつ増えてくの」
…りっちゃんの中では、私はずっといるんだね。来年も、再来年も…その先もずっと。
「彩葉お花好きでしょ?桜にも釘付けになってたし」
「…よく見てるね」
「見てるよ」
そうやって……ずっと見てて……
私もりっちゃんだけを見るから。
「あ、あのね、改めてお祝いしようと思って、お店の予約を取ってるんだ」
「え?」
「1周年記念だから、ちょっと気合い入れてさ?」
「いーよ、そんな。お花とケーキだけで十分」
「いーのいーの。毎年そんなにしないから。節目の時はするけどね?」
ちょっと外にご飯を食べに行く…くらいでいいんだけどな。
だけど…りっちゃんがなんだか楽しそうにしていたから、私もつられて“その日”が楽しみになってしまった。
その日は2週間後だと、りっちゃんは言っていた。
そんなに先なの?
予約が取りづらいお店なのかな?どんなお店だろう。もし高級そうなところだと、私緊張しちゃうな。そんなところに相応しい服も持ってないし、テーブルマナーだってよく知らない。なにか粗相をしてしまいそうで少し怖くなった。
「りっちゃん」
「ん?」
「ドレスコードとかある?」
「…ある。俺が用意する」
「え?」
「大丈夫だから」
「でも…私テーブルマナーとかよく知らないし…」
私がそう言うと、りっちゃんは笑い出した。
「ちょっと、なんで笑うのっ」
「あははっ。ごめんっ。大丈夫。勘違いさせちゃったね。彩葉がどういうお店を想像しているかわからないけど、高級店じゃないよ」
「ドレスコードがあるのに?」
「気にしないで?普通のお店だから」
何か企んでる?
「教えて?りっちゃんに恥かかせたくない」
「大丈夫だって。フランクなお店だから」
だったらいいんだけど…
私は毎日カウントダウンをしていた。
あと13日…
あと12日…
りっちゃんはどんなお店に連れていってくれるんだろう。
あと11日…
あと10日…
私は子どものように、毎日その日を楽しみにしていた。
きっと、いつもとはちょっと違うデートになるんだろうな。
…期待しすぎかな?
ただちょっといい所で食事するだけだもんね。
それでも…デートだ。
りっちゃんが考えてくれたデート。
「ただいま」
「おかえりっ」
「……」
「なに?」
りっちゃんは私の顔をじっと見ていた。
なんだろう…
「彩葉、またご飯に行く日のこと考えてたでしょ」
なんでわかるの…
「そんなことないもん」
私は見透かされたことが恥ずかしくて、そう答えた。
「うっそだぁ。俺わかるよ」
「もーっ。なんでわかるのっ?」
「ふふっ。そういう顔してたから」
そんなにわかりやすいの?私…
そう思いながら夕飯の仕上げをし、りっちゃんと一緒に食べていた。
「ヤマダがさ、ユイナちゃんとケンカしちゃったんだって」
「あ、ユイナからすぐ連絡きたよ」
「なんてきた?」
「“アツシくんのバカー”って。ははっ」
「笑い事なの?」
そう言いながらも、りっちゃんも笑っていた。
「ただの痴話喧嘩だよ」
「だよね。俺もそう思ったから、あしらっといた」
「そこは寄り添ってあげなよ」
「だってあいつうるさいんだもん」
こんなに普通に会話をしてるのに、元はストーカー…
それを忘れてしまうほど、私はこの時間が好きだし、幸せを感じていた。
幸せ…?
そう…
私はちゃんと幸せを感じている。
目の前には表情豊かに、今日の出来事を話すりっちゃんがいて、ソファにはこちらを見ている杏と、テレビにたまたま映っていた鳥に夢中になるきなこ。
この空間にはまるでどこにも“狂気”なんてものはない。
“恐怖”や“嫌悪”も感じない。
ただただ、穏やかで和やかな空気が流れているだけだ。
本当に…誰が見ても幸せそうな夫婦だ。
だけど…
私は知っている。
目の前の男が異常者だということを。
それでも私は彼に笑いかける。
愛してしまったから。
また私も彼に愛されている。
そして彼は知らない。
私が全てを思い出していることを。
それでも私たちは笑い合う。
それでも愛してると言い合う。
例えそれが歪んだ愛情だとしても。
……私はもう、彼を手放せない。




