61 それでもやっぱり
あれはなんだったんだろう。
一瞬、訳がわからなくなった。
帰りの電車の中で、カメラの録画記録を念のために見てみると、彩葉がまた本棚を漁り、それからアルバムを手に取ると持ち出した。
え…
なんで…?
今日帰ったら、もしかして修羅場が待ってる?
俺は彩葉の行動の意味がわからなかった。
とりあえず…
“この前これ見つけたけど、一体なんなの?この写真はなに?盗撮?”
そんなことを言われるのだろうか。
彩葉はもうすでに記憶を取り戻してる。俺の中ではほぼ確定している。それは前に気がついた“トップス”だ。彩葉は気がついていないみたいだけど、あれを知ってるってことは、記憶が戻ったってことになる。俺は事故の日以降、あの服を着ていないんだから。
じゃあ…他に考えられることは?
俺は色々なことを想定し、様々なシミュレーションをした。
でも…今朝の彩葉も普通だった。
むしろ、俺のことが好きで仕方がないという感じだった。
可愛く笑い、「今日も頑張ってね」と言ってくれ、いってらっしゃいのキスをする。
そんないつもと同じ朝…。
怖い。帰るのが怖い。
帰ったら…なにが待っているんだろう。
もしかして…帰ると部屋は真っ暗で、テーブルにはアルバム、離婚届、外された結婚指輪、スマホ……それらが置いてあり、彩葉本人がいなくなっている……そうだったらどうしよう。
俺からの“帰るよ”メッセージに返事をしたあと、あの家を出て、友達に助けられながら逃げていたらどうしよう。
それは…ずっと俺が恐れていたことだ。水面下で何かがずっと進められていて、ある日突然、それが実行される…
俺はずっとそれが怖かった。
最寄駅で降りると、走って家まで向かった。
待って。
行かないで彩葉。
逃げないで……
だけど…
そんな俺の心配は杞憂だった。
彩葉はちゃんといた。
それから話してくれた。
“このアルバムは、私たちの歴史でしょ?”
と…──
彩葉は一体何がしたいんだ?
その後は普通に夕飯を食べ、いつものように過ごした。
ベッドに入り、また考える。
彩葉…
彩葉はもう記憶が戻ってるでしょ?なんでわざわざ、アルバムを引っ張り出してまで、そんな嘘をつくの?
……もしかして……
その方が彩葉にとって都合がいいのか?
俺にそう思ってもらう方がいい理由…
俺の正体に気づいた彩葉は、きっと俺のことを“異常者”だと思ったはずだ。俺だって最初からこんなことをするつもりはなかった。
それで俺の異常さに気がついた彩葉は、俺を刺激しないように、わざとそうしてる?
それは…記憶が戻ったことが俺にバレると都合が悪いことがあるから…
なんだ?なんで都合が悪い…?
監禁…
されると思った?
俺の思考をそこまで読んだのか?
実際にもう、ロープやチェーンは用意し、車に隠してある。家の中だと見つかるリスクが高いからだ。
ネットで買った手錠だけは浴室の天井裏に隠している。
それに映画やドラマなんかでも、愛の執着から監禁するシーンがあるもんな。そこまで考えついても…まぁ、おかしくはないか。
それにしても、そこまでして俺と一緒にいる理由…
逃げずに俺といる理由…
俺のことが…
好きだから…?
だとしたら、俺はこの上なく幸せだ。
彩葉はこの前も“捕まえてて”と言っていた。
もし俺の考えが正しければ、彩葉は今の関係を望んでいるんだ。きっとこのままでいたいんだ。
だったら…
俺はそうするよ。彩葉のその嘘を信じてあげる。
俺を欺こうとする理由がそれなら、俺は喜んで騙されてあげる。
もしも、それが本当なら……
彩葉…
最高だよ。
そう考えてしまうと、もうそうとしか思えなくなっていた。
だめだ。落ち着け。浮かれるな。
ただ俺を油断させようとしているだけかもしれない。
だけど…彩葉からの愛を、俺はやっぱり信じてしまう。
いや…信じたいんだ。
俺を欺くためだけに、あんなに愛情表現をしてくれるだろうか。
…彩葉はそんな器用ではないはず。
そんなことを考えながら、眠りについた。
「りっちゃん」
「ん?」
「明日さ…また迎えに行ってもいいかな?だめ?夕方の、まだ明るいうちにそっちに向かって、買い物して待ってるなら危なくないでしょ?周りに人がたくさんいればさ」
「なんで?」
俺たちは今、スーパーで一緒に食材を買いに来ていた。
「…あわよくば…」
「あわよくば?」
「また見たい。りっちゃんが仕事してるところ。やっぱり上司さんに怒られちゃうかな?」
…かわいい…
「鼻血出る」
「またそれ?」
「かわいい」
「なんでそうなるの」
「彩葉がかわいいこと言うから」
彩葉は少し照れた顔をした。
本当にかわいいんですけど。
「…いいの?だめなの?」
「いいよ。大丈夫だよ。俺が彩葉に溺愛してることも、俺が心配性なことも、みんな知ってるから」
「本当っ?嬉しいっ」
「ちゃんと明るい時間に出るんだよ?」
「うんっ。ちゃんと気をつけるから」
なにか企んでるようには見えないな。
「あ、そうだ。彩葉ごめん。ミオに会って来てもいいかな?ちょっとミオの部屋でトラブルがあって」
「……仕事なら…仕方ないよ。でも、そういうのって、管理人さんに連絡するものなんじゃないの?」
彩葉がムスッとした顔をした。
それに彩葉が言っていることは正しい。
「そうなんだけど、女の子の1人暮らしだから怖いって言ってて」
「…他に頼れる人はいないの?」
「んー…こっちに来たばっかだからな」
「……」
彩葉はさっきの顔のまま黙ってしまった。
かわいい。やきもち焼いてるの?
そんなの必要ないのに。ミオなんかより、彩葉の方が何百倍も何千倍も可愛いのに。彩葉は俺にとって最高の女の子なのに。
「じゃあ彩葉も一緒に行く?本当はダメなんだけど」
「……部屋には入らない。外で待ってる。それならいい?」
うわぁ…かわいい…
本当について来ちゃうんだ。
「そこまで心配ならいいよ。一緒に行こっか」
「…ごめんね?仕事なのに」
「いいよ。それで彩葉の気が済むなら」
大丈夫だよ彩葉。
俺は彩葉が俺から逃げようとしないかぎり、今までと同じように、ずっと愛し続けるから。
でもな…気を抜かないようにしないと。
まだ確信が持てていないから。
そうわかってるんだけど…
やっぱり今の彩葉、すっごくかわいい。拗ねたり、少し怒ったり、抱きついてきたり、甘えてきたり…
俺はそんな彩葉を見るたびに、心が躍るよ。
胸が高鳴るよ。
まさかこんなに上手くいくとは…
この俺の考えが合っていればいいんだけど…
俺は今まで以上に彩葉のことをよく観察するようになった。
それでも彩葉は何も変わらなかった。
俺を避けることもない。
誰かに相談している様子もない。
毎日俺に笑いかける。
そんな日々を過ごしていくうちに、俺の警戒心が薄れていくのを感じた。
だめだ。
気を抜くな。
まだ確定したわけじゃない。
俺はそう言い聞かせた。
あ…いい物件見つけた。
自社管理物件の中で、もうすぐ退居予定の部屋があった。ここなら職場にも近いしキレイだし、申し分ない。
駅までは…徒歩7分か…まぁいいだろう。俺はすぐ上司に掛け合った。
とりあえず仮で押さえてもらい、退去後、彩葉を連れて、内見に行くことにした。
前に俺が見た時は好印象だった。きっと彩葉も気に入ってくれるはず。
あのアルバムの件から日々は過ぎていった。
俺たちはなんの問題もなく仲良く暮らしていた。
ミオの件も無事に済んだ。ミオからは寂しいからたまに会って欲しいと言われたけど、俺は“忙しいからそれは無理だ”と断った。
前に一度、俺から“うちに来るか”と言ってしまったことがあり、ミオはそれを覚えていた。あの時は家なら彩葉もいるから、会うならその方が都合がいいと思ってそう言った。元々2人で会う気はなかったし。それでミオからそのことについて聞かれたから、“どうやら猫のストレスになるらしい”と、にゃんずのせいにして断った。
だって彩葉が、やきもち焼きちゃうから。
ミオはあからさまに不満そうな顔をしていた。でも、俺からしたら、そんなのはどうでもいいことだった。
彩葉は不穏な動きをすることもなく、本当にいつも通りだった。
「彩葉、いい物件見つけたよ。今度一緒に見に行こう?」
「本当?どの辺?」
俺は説明した。
「あ、りっちゃん、職場近くなるね。ってことはもっと早く帰ってこられるようになるの?」
「そうだよ」
俺がそう言うと、彩葉は嬉しそうにしていた。
「…嬉しいの?」
「当たり前じゃんっ」
…本当に…嬉しいんだよな…?
この笑顔に偽りはないよな?
俺は浮かれて痛い目を見るのが嫌だったから、目を光らせることは続けていた。
ある日…ふと思いついたことがあった。
これなら彩葉の本音がわかるかもしれない。
水面下で俺から逃げる計画を立てているのか、それとも本当に俺のことが好きなのか……
休みの日の昼下がり、彩葉とのんびりとソファでくつろいでいた。
俺は彩葉の顔を見ながら口を開いた。
「…ねえ」
「んー?」
かわいっ。
彩葉がこちらを向いた。
膝の上のきなこを撫でながら、彩葉は穏やかな表情で俺の目をしっかりと見ていた。
「子ども……作らない?」
俺から逃げようと思っている人が、こんなことを提案されたら顔は青ざめ、なんとか適当な理由を取り繕ってあやふやな返事をするだろう。
彩葉のちょっとした表情の変化を見逃さないように、俺はじっと見ていた。
すると…
彩葉は照れた顔をして、耳を赤くした。
……。
この反応は…?
「何想像してんの?彩葉」
その言葉を聞いた彩葉は、さっきよりも照れていた。
「違うっ。何も想像してないっ」
俺はそんな彩葉の反応が可愛くて、面白くなってしまった。
「えっちなこと想像したの?」
「してないっ」
あーあ。ほっぺまで赤くしちゃって。
ホントかわいい。
彩葉はこういう話が苦手だもんな。
でも……
俺は彩葉の気持ちが知りたい。なんて返事する?イエス?ノー?
「それで、どうかな?もう籍も入れたことだし」
「…私は…もう少しこの生活を続けたいかな…」
それは…俺を欺くため?
だけど彩葉は、顔を青くするどころか、まだ赤らめていた。だったら本音なのか?
「今は欲しくないってこと?」
「……まだまだりっちゃんと…居酒屋に行ったり、お出かけしたりしたい…かな」
「数年後ならいいの?」
「うん。でも…ずっと二人きりでもいい」
……どっちだ?
体よく拒否をしているようにも感じる。
もう少し具体的に踏み込んでみるか。
「…じゃあ…」
「……」
「避妊具なしで避妊するのは?」
こんなの“避妊”だなんて言えない。
ただ彩葉の反応が見たかった。
さっきと変わらず、俺は彩葉の表情の変化を逃さないように、じっと見ていた。
いつの間にか、きなこは彩葉から離れ、キャットタワーへと移動していた。彩葉はというと、ソファに両脚を上げ、膝を抱えていた。その膝に頭を預け、俺のことを見ていた。
その顔はやっぱり照れていた。
「…いいよ」
“いいよ”…?
彩葉は今そう言ったのか…?
彩葉だってわかってるはず。こんなのちゃんとした避妊ではないことを。
「…できちゃうかもよ?」
「そしたらその時はその時だよ。授かりものなんだから」
これは本気で言ってんのか?
彩葉は本気で俺のことを……
俺の正体を知ってもなお、俺と一緒にいる選択をしたのか?
「りっちゃん?」
「…あ…ごめん。それでもし、できちゃっても彩葉はいいってこと?」
「だからそう言ってんじゃん。私たち…結婚してるんだから、別に普通のことでしょ?」
……思わず口元が緩みそうになった。
嬉しい…
彩葉は俺のことを受け入れている。
本当に?
嘘じゃないよな?
それが本当かどうかを確認するために、少し照れた顔をして隣に座っている彩葉を抱き寄せた。それから唇を重ね、そのまま押し倒し…
実践した…──
彩葉は嫌がることなく、俺を受け入れてくれた。
何度も…何度も…
目に涙を溜めた彩葉は、必死にしがみつくかのように、俺のことを抱きしめている。そんな彩葉から少し離れ、見下ろすようにその姿を眺めた。
本当に…
最高だよ、彩葉。
俺は彩葉の両手を取り、指を絡めた。すると彩葉もしっかりと握り返してくれた。
鎖なんて必要ないんだよな?
そういうことでいいんだよな?彩葉。
鎖で繋がなくたって、彩葉は逃げない。
そう思っていいんだよな?
目を潤ませた彩葉は俺を見つめている。その目はやっぱり、俺のことを愛おしそうに見ているように感じた。
信じるよ?
信じるからね?彩葉。
胸が熱い。気持ちが高まる。
こんなに誰かに愛されたのは初めてだった。しかも俺のしてきたことを知りながら、彩葉は俺のことを受け入れる選択をした。
嬉しい……
それでもやっぱり…鎖やロープは処分しないよ。この件に関してでなくても、数年後、彩葉の心が俺から離れてしまう可能性もあるからね。普通に恋愛結婚をしている人たちだって、離婚を簡単に選択することだってあるんだから。
だから俺は、そうなった時のために、あれは取っておく。
もしそうなっちゃったら…ごめんね?
ソファが時折、ギシッと音を立てる。その他に俺の耳に届くのは彩葉の甘い声だけ。
俺は手を離すと彩葉の背中に腕を回し、しっかりと抱きしめた。
一生……捕まえててあげるからね。
俺にはもう一つ、進めないといけないことがある。
それは引っ越しが済んでからでいいだろう。
あの時咄嗟に言ってしまった言葉。
それを実現しないといけない。
さて…どうしようかな。




