46 狂ってる
呼吸が早くなる。
もうわけがわからない。
手は…さっきよりも震えていた。
どうしよう。
でも…やっぱり気になるところは、まだまだたくさんある。
長谷川律は私の“ホクロ”を言い当てた。だとしたらやっぱり、私たちは深い関係だった?
いや…
やっぱり私にそんな記憶はない。
ただ電車の中で見かけるだけの人だ。事故の時の記憶がそれを証明してる。私が長谷川律と話したのはたったの一度。スマホを拾った時だけだ。
ならなんで…
それに私のスマホにはちゃんと長谷川律の連絡先が登録されていた。私の性格や交友関係も熟知していたし、職場の上司にうんざりとしていたことも知っていた。
……
「ははっ」
私はある事に気がつき、思わず乾いた笑いが出てしまった。
あー…そうか…
私は1週間、眠り続けていたと医者から聞かされていた。その時に私の体を見ていれば、ホクロの場所なんて言い当てられる。
そう思うとまた吐きそうになり、急いでトイレへと向かった。
少し落ち着き、また自分の個室に戻ると考えた。
…だったら…色々と説明がつくかもしれない。
あの時…長谷川律は壊れたスマホを私に差し出した。でももし、そのスマホが壊れていなかったとしたら…?
あ……
その前にここを出ないと。長谷川律にはサキと居酒屋に行くと伝えていたから、いつまでもここにいたら怪しまれる。
私は適当な居酒屋に入ると、カウンターに案内された。薄めのレモンサワーと枝豆を注文し、スマホを手に取るとメッセージアプリを立ち上げた。
『今さっきサキと合流して、居酒屋に着いたよ。あとね、ネットカフェのことをサキに話したら、「私も久々に行きたい」って言ってたから、飲み終わったら2人でネットカフェに泊まるね』
…これで大丈夫だろうか。私は不安を抱えたまま、そのメッセージを送信した。
すると、すぐに着信があった。
心臓が飛び出しそうになった。
サキに代わってって言われたらどうしよう。でもこの電話に出ないと、長谷川律が違和感を覚え、来てしまうかもしれない。
私は通話ボタンにタッチをした。
「どうしたの?」
『……無事に合流できてよかったね』
そんなことでわざわざ?
あ…周囲の音を確認してるのか?
「うん。それを言うためにわざわざ電話してきたの?」
『ううん。今日は彩葉がいないから、“おやすみ”を先に言っておこうと思って。飲んだあと、ネットカフェに行くならもう電話できなくなっちゃうでしょ?』
「ははっ。そうだね」
『うん。サキちゃんと楽しんでね』
「ありがとう」
『それじゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
大丈夫だったかな?私、変じゃなかったよね?いつも通りだったよね?
心臓がバクバクとしている。
思わず胸元を手で押さえた。
……
もし……
もしあの事故でスマホが壊れていなかったら…?
そうしたら交友関係から私の思考まで、なんでもわかってしまう。なんらかの方法でスマホのロックを解除し、メッセージアプリや、連絡先を見られれば、私がサキやタツヤと仲がいいことなんかはわかる。SNSの裏アカを見れば、私が普段どんなことを考えているかもわかる。
それに…長谷川律自身の連絡先を入れることも…できる。
そういう情報を集めてから、長谷川律は私のスマホを壊した…と、こんな感じなんじゃないだろうか…
私が…長谷川律を頼らざるを得ないように。
あ…
それならきっとあれもそうなんじゃ…
クレカとキャッシュカード。それだけが綺麗になくなってるだなんておかしいもん。
長谷川律は、私のカバンを勝手に持ち帰り、中身を確認して…
私の家に勝手に入った…?
それで荷物を自分の家に運んで、さも一緒に住んでいるかのようにでっちあげて…
仕事を辞めた違和感も、これで合点がいった。
これなら…
これなら全部辻褄が合う。もちろん証拠なんてない。でも今の私には、そうとしか思えなかった。
「ははっ」
ここまでくると、逆に私は面白くなってしまった。たぶん…もう思考がごちゃごちゃになって、おかしくなっていたからだろう。
なにが“俺が誰かわかる?”だよ。なにが“忘れちゃった?覚えてない?”だよ。
そもそも知らねーよ。ただの他人なんだから。
なにが“りっちゃんって呼んで?”だ。なにが“思い出さなくてもいいから”だ。
最初からそんな記憶なんてないんだよ。
とんだ役者だ長谷川律。
すっかりと騙された。
もしも記憶が全部戻ったと言ったらどうなるんだろう。あの事故の日に長谷川律の姿を少し遠くで見かけたと言ったら…通勤中にも見かけたことはあるし、私たちは決して、婚約者でもなければ恋人同士でもなかったと伝えたら、長谷川律はどうするだろう。
元々がストーカー。愛の重い男。
きっと逃げられない。もしかしたら暴力に走るかもしれない。もしくは監禁…されるかもしれない。
ここまでしたんだ。
仕事を辞めさせ、私のアパートを引き払い、スマホを壊して身動きを取れなくした。
ここまでする男だ。私が真実に辿り着いたと知った長谷川律に、何をされるかわからない。
そして何より…私はまんまと結婚までしてしまった。
…長谷川律は……
いつも…優しかった…
頭の中に長谷川律の笑顔が浮かんだ。
いつも私に優しく、気遣い、労わってもくれる。
……
今までに…こんなに私のことを大切にしてくれた人はいただろうか…
いや。
いない。
私は…愛されている…?
昨日まではとても幸せだった。
サキもタツヤもバイト先の人も、みんな私たちのことを仲良しだと思い、長谷川律のことを優しい夫だと思ってる。
全部、私が欲しかったものだ。
もし今別れられたとして、そしたらきなこと杏はどうなる?
再就職をしたとしても、私の給料なんてたかが知れてる。ペット可のアパートやマンションなんて、普通より家賃が高くてとても私では借りられないし、にゃんずにもし何かがあっても、治療代を十分に払えるかもわからない。
私ひとりで出て行くにしても、またボロアパートに住み、生活のためにただただ働く毎日。
それに、甘い蜜の味を知ってしまった私は、これから出会いがあったとしても、きっと昨日までの幸せな生活と比べてしまう。
だけど…
長谷川律という男が怖い。
逃げたい。
でも……
なんで…?
帰りたい。
会いたい。
抱きしめてもらいたい。
そして…
何よりも私は…
長谷川律を…
りっちゃんのことを愛してしまった。
そう思った途端に、無性にりっちゃんに会いたくなってしまった。
バカだ…
私は本物のバカだ…
さっき抱いた恐怖感、嫌悪感、それらはまだしっかりと頭に残ってる。
なのになんだか“帰らないといけない”ように感じでしまった。
愛してる。
心が…そう叫んでる。
矛盾してる…
わかってる。
こんなの狂ってる…
例えりっちゃんがストーカーでも何でも、愛されていることには変わりない…はず。
だって…
もしりっちゃんが危険な人なら、あんな顔で笑うだろうか。あんなに優しくしてくれるのだろうか。
私はこの生活を…続けたい。
きなこがいて、杏がいて、りっちゃんがいて…
あの家に…帰りたい。
私は荷物を手に取るとお会計を済まし、スマホを耳にあてた。
「サキ?」
『どした?』
「やっぱり今日、帰ることにしたっ」
『あんた今何してんの?走ってる?』
「走ってるっ。りっちゃんには、サキが具合悪くなっちゃったからって言うから、もし連絡がきたら、話合わせといてっ」
『わかった。あとでちゃんと何があったのか教えなさいよ』
「うんっ。ありがとうっ」
そう言って電話を切り、すぐりっちゃんに電話した。
『どうしたの?』
「今から帰るっ」
『走ってるの?サキちゃんは?』
「とにかく帰るからっ」
私は駅まで走った。
まだ頭の中はごちゃごちゃだ。ちゃんと整理なんてできてない。
でも今はただ…りっちゃんにものすごく会いたくなってしまったんだ。
りっちゃんに会って、“愛”を確認したくなってしまった。りっちゃんが本当に私を愛しているのか……その気持ちを確かめたかった。
あとで冷静になって、やっぱり逃げたいと思ったとしても、準備が必要だ。とにかく今は波風立てずに、今まで通りを演じないと…
そう思いながらも、今はやっぱり、ただただりっちゃんに会いたかった。
電車に乗り、スマホを見るとりっちゃんから数件着信があった。それからメッセージもきていた。
『何があったの?誰かに追われてるの?』
『違う。サキが具合悪くなっちゃって解散したの』
『なんで走ってたの?』
『りっちゃんに会いたいから』
『駅まで迎えに行くよ』
そんなやりとりをした。
バカだ。
わかってる。
そんなことはわかってる。
こんなの普通じゃない。りっちゃんは普通の男じゃない。わかってる。わかってるのになんでこんなに…
電車を降りると、私はまた走った。改札を出ると、すぐにりっちゃんの姿を探した。
どこ…?
どこにいるの…?
私は立ち止まり周りをキョロキョロと見渡した。
あれ?迎えに来るって言ってたのに…なんでいないの?
すると…
後ろからふわっと抱きしめられた。
「おかえり」
りっちゃんの声だ。
私はくるりと回り、りっちゃんのことを抱きしめた。
「ただいま」
「どうしたの?何かあった?」
「何もない」
「でも変だよ?彩葉らしくない」
りっちゃんの優しい声、りっちゃんの匂い、りっちゃんの体温…
そういうものが全て、私を安心させてくれる。
「彩葉?もう帰ろう?ここだと人の邪魔になっちゃうし」
そう言われて、私はりっちゃんから離れた。りっちゃんはすぐに私の手を握ってくれた。
「それで?何があったの?」
「何もないってば」
「嘘はだめ。彩葉変だもん」
やっぱりりっちゃんは鋭い。下手な嘘なんかはすぐにバレちゃうんだろうな。
「夢を見た」
「夢?」
「記憶の夢」
「……それで?どんな夢だったの?」
りっちゃんは今、私が何を言うのか構えているのだろうか。
「前の仕事の夢。だからそこにはりっちゃんはいなくて、やっぱり思い出せないなって思ったら、なんだか悲しくなっちゃって」
私は嘘と本当を混ぜて話した。
「だからもういいって。思い出そうとしなくて」
りっちゃんはその方が都合がいいもんね。
「その夢、いつ見たの?」
「お昼寝してる時」
「それでなんで今、彩葉はこんな変な感じになってるの?」
探ってる…
「そんなに私変?」
「うん。変」
「どう変?」
「…かわいい」
「…え?」
「俺のこと“大好きです”って全身で言ってるみたいに見える。今までこんなことなかった」
…バレてる。なんでそんなにわかるの?
そうだよ?
私は今…この異常者のことを、とても愛おしく思ってる。
「考えてたから」
「ん?」
「ネットカフェでりっちゃんのことを考えてたから」
嘘は言っていない。
りっちゃんは私の顔を覗き込むと、ニッコリと優しく笑った。
そう…
私はこの笑顔が大好きだ。
「俺も考えてたよ?彩葉のこと」
太陽はとっくに沈んでいるのに、まだまだ空気は蒸し暑く、体のベタつきを感じていた。
だけど…それを全く不快とは感じなかった。
頭の中の不安や恐怖が消えたわけではない。
でも…今の私には安心感の方が勝ってしまった。
私の頭は…
もう麻痺してしまっているのかもしれない。
りっちゃんの甘い甘い蜜によって…
この日は帰るとすぐに、私はりっちゃんをベッドに押し倒した。
りっちゃんは目を見開き驚いていた。
それもそのはずだ。私からこんなことをしたことがない。
「…どうしたの…?」
私はのその声を無視して、いつもりっちゃんがするように、ゆっくり…丁寧に…
「…彩葉?」
「愛してるよ。りっちゃん」
しっかりと見つめながらそう言った。
その言葉を聞いたりっちゃんは、私から主導権を奪い、今度は私が押し倒された。




