44 特定の人だけ?
…夢を見た…
違う…
夢だけど夢じゃない──
記憶だ。
これは……
私の記憶だ…。
職場の上司…大嫌いだったキクチさんの記憶…
私は当初より、キクチさんのことを嫌ってはいなかった。いや…嫌いなことには変わりはなかったけど、なんとなく扱い方が分かり始めていた。他の先輩に頼ると怒るキクチさん。キクチさん本人に頼っても“バカ”だのなんだのと言ってくるキクチさん。でも…ある日サキの助言で気がついたんだ。
“それさぁ、自分はすごいんだぞっていうのを彩葉にアピールしてるんじゃない?”
サキはそう言っていた。
“彩葉はさぁ、あからさまにその上司に、敵対視してない?”
その通りだった。だって…仕事を教えてくれたのは最初の1ヶ月程度。それからキクチさんは態度をガラッと変えたんだ。
私は新人でまだなにもできないくせに、可愛げがなかった。機械的にキクチさんと接し、キクチさんが教えてくれないことは他の先輩に頼っていた。きっと…そんな態度の私を、キクチさんは面白く思わなかったんだ。
だから私は態度を改めた。
キクチさんにだけ頼る。それを徹底した。しばらくするとキクチさんは徐々に変わったんだ。それで私も仕事が楽しくなっていった。
でも…
りっちゃんは“いつでも仕事を辞められる状況になったから”と言っていた。“結婚が決まったから”と…
確かにその理由も納得がいく。
だけど…
私にはその記憶がない。
…やっぱり…りっちゃんだけが記憶にない…──
“特定の人”だけを忘れてしまうこともあると、りっちゃんは言っていた。私も自分で調べてみたら、やっぱりそういう症例はあった。
私は…これなのだろうか…
りっちゃんとの記憶だけが…すっぽりと抜けてしまっているのだろうか…
季節が移りゆく…
初夏から夏へと移りゆく…
もう窓を開けて、扇風機を稼働させるだけでは涼を感じることができなくなっていた。
夏の陽炎のように、私の頭の中はずっと…靄がかかったままだった──
「今日のにゃんずはどうだった?」
「いつも通り。きなこはやんちゃで、杏は甘えん坊だったよ」
「ははっ。杏はすっかり彩葉派になっちゃったな。最初は俺に懐いてたのに」
「仕方ないよ。私の方が家にいる時間が長いんだもん」
りっちゃんの記憶…思い出したいな…
「あいつ…俺のことを裏切りやがって」
「ははっ。なに?やきもち?」
「ちょっとね」
「まぁまぁ、杏も悪気はないからさ?」
「…だったら…その分彩葉が俺のことを愛して?」
思い出したい…りっちゃんのことを…
「あははっ。もうそんなの伝わってるでしょ?」
「んー?足りない…かな」
「もうっ、ご飯食べるよ?それとも先にシャワーにする?」
「彩葉にする」
「バカ」
「ははっ。本気だったんだけどな。それなら先にシャワー浴びてくるよ」
私はそれを聞き、りっちゃんがシャワーから出てくるタイミングに合わせて料理の仕上げをした。
「なんか最近、彩葉変だけど何かあった?」
りっちゃんにそう言われ、私は最近のことを話した。夢のこと、りっちゃんのことだけを思い出せないこと…
「…彩葉…もう思い出そうとしなくていい。俺は今のままで十分だから…」
りっちゃんは切ない顔でそう言った。
「でも…」
「いいから。もう思い出そうとしないで。頼むから…俺は今のままがいい」
…りっちゃんは…今のままでいいの…?
「でもそれだとりっちゃんが──」
「いいんだよっ。今のままでっ」
りっちゃん?
…こんなに感情的になるりっちゃんを見るのは初めてだった。
「…どうしたの?怒ってるの?」
私がそう言うと、りっちゃんはハッとした顔をし、すぐに笑顔になった。
「ははっ。違うよ。ただ…彩葉がこれ以上混乱するのは嫌なんだ」
…りっちゃん…
「彩葉…もういい。もういいから。思い出せないことに対して、もう自分を責めるようなことも、俺に申し訳ないと思うようなこともしないで欲しい。未来を見ていこうよ。もう過去なんてどうでもいい」
りっちゃんは…未来を見ている…
“過去”じゃない。私との“未来”だけを見てるんだ。
「そうだね。ごめんね?私…りっちゃんの記憶を思い出したくて。それに思い出したら、りっちゃんが喜ぶと思ったから…」
「うん。そう思ってくれてありがとう。その気持ちは嬉しいよ?でも俺はもう、過去に囚われたくないんだ」
「…わかった」
私がそう返事をすると、りっちゃんは柔らかく笑った。
もう…私は…
過去に拘るのはやめた。
この日のりっちゃんは、いつもより長く私に覆いかぶさっていた。背中に腕を回され、しっかりと抱きしめたまま…何度も…
「彩葉ちゃん、なんか幸せそうだね」
そう言ってきたのはワカナさんだった。
「えっ?そうですか?」
「うん。すごく幸せそう。あ、今までも幸せそうに見えてたよ?でもなんか…」
「わかるっ。ワカナちゃんわかるよ。なんか彩葉ちゃんていつも幸せそうに見えてたけど、すこーしだけ、影があったよね」
そう言ったのはハシモトさんだった。
「そうそう。そんな感じ」
ハシモトさんの言葉に、ワカナさんはそう言っていた。
それはたぶん…記憶がないからだ。
私はそのことを2人に話した。この前りっちゃんが未来だけを見ているように思えたから、私はもう、前のように記憶喪失のことを後ろめたく思っていなかったからだ。
「まぁ…あの電車事故の…」
ハシモトさんは目を丸くしながら驚いていた。
「それなのに、長谷川さんは支えてくれたんだね」
ワカナさんは手を止めて、呟くようにそう言っていた。
「…少しだけ思い出したこともあるんですけどね、でも…そこにはりっちゃんの記憶はなくて」
2人は神妙な面持ちになった。
「あっ、でもっ、今は別に全然っ。もう吹っ切れたんです。りっちゃんが未来を見ているんで」
「未来?」
「はい。もう思い出さなくていいって。それで自分を責める必要はないって」
「本当に優しいね、長谷川さん」
「はい」
「私もそう思うよ?過去より、未来の方が大事だと思う」
ワカナさんはそう言ってくれた。
その言葉で、私の心がまた軽くなった。
いいんだ。
別に…今のままでいいんだ…──
それから私は、今まで以上に穏やかな日々を過ごしていた。
気持ちが軽くなった分、余計にこの日常を愛おしく思うようになっていた。
「きなこー、杏ー、遊ぶよー」
温かい陽が部屋いっぱいに広がる昼下がり、私はおもちゃを手に取りにゃんずに声をかけた。
「あははっ。きなこ上手だね。じゃあ杏はこっちね」
私は両手におもちゃを手に持ち、にゃんずと遊んでいた。
…のどかだな…
温かいな…
幸せ…だな…
しばらくそうやって遊んでいると、きなこが遊びに飽きたのか、ソファの上で丸くなった。そんなきなこに釣られるように、杏もソファに飛び乗り、きなこに寄り添った。
私はそんなにゃんずたちの写真を撮ると、りっちゃんに送った。ちょうどりっちゃんもお昼の時間だったのか、すぐに返事が帰ってきた。
『かわいい。早く帰りたいな』
そんな内容のメッセージだった。
私もそんなにゃんずに誘われるかのように、うとうととしてきた。
ソファに突っ伏しながら、2人のことを撫でていると、私はとうとう眠ってしまった。
…また…夢を見た。
私が作り出したものではない。
記憶…?
そう…
私の記憶だ。
思い出した。
全部…
全部思い出した──
今では手に取るようにわかる。
この…失った2年分の記憶が…
でも…
やっぱりそこにはりっちゃんはいなかった。
最初は焦った。やっぱり“りっちゃんだけ”を忘れてしまっているのかと。
だけど違った。
私は別に、“りっちゃんだけを忘れている”わけではない。
そもそも私は…
りっちゃんのことを…
知らなかったんだ…──




