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3 混乱


 夕方になると長谷川さんは「シャワー浴びてくるね」と言い、浴室へと向かった。


 私はその間、頭をフル回転させた。


 どうすればいい…?

 

 私はこれからどうすればいい?

 

 仕事はもうない。

 家はここしかない。

 実家には帰りたくない。

 頼れる友達はいない。


 私は…どうしたら…


 そんなことをずっとぐるぐると考えていると、タオルで頭を拭きながら長谷川さんがリビングに来た。


「彩葉もシャワー浴びてきな?」

「…はい…」


 私もシャワーを浴びた。

 

 リビングに戻ると少し切ない顔をした長谷川さんが私を見つめた。

 それからソファに座るよう促され、少しだけ距離をとって長谷川さんの隣に座った。


「…俺…頑張るから…」

「…え…?」

「また俺のことを好きになってもらえるように、頑張るから」


 そんなことを言われてしまうと、申し訳ない気持ちになった。


「ごめんなさい。私…」


 私がそう言うと、長谷川さんは体をこちらに向け、それから私の左手をそっと握った。


「ごめん…ごめんね。困らせるようなことばっか言ってごめん。でも俺は彩葉が好き。それは変わらない事実なんだ」


 長谷川さん…


「彩葉のことが好き…」

「…今は…まだ混乱してます」

「うん。わかってる。でも俺の気持ちを、彩葉には知っておいて欲しいから」


 長谷川さんはそう言うと、悲しそうな表情をしながら私の手を離し、今度は左頬にそっと手を添えた。


「不安だよね?」


 私は遠慮がちにうなずいた。


「俺もつい“好き好き”言い過ぎちゃった。彩葉がね、ちゃんと俺から愛されてるんだよってこと、伝えたかったんだ。俺たちはちゃんと恋人同士なんだよって信じて欲しくて」

「…それは…はい。なんとなく伝わりました」


 長谷川さんの表情は柔らかくなり、私の頬から手を離した。


「とにかく、彩葉が目を覚ましてくれて嬉しいよ。記憶は失くしちゃったけど、俺はそれでも嬉しい。あのまま目を覚まさなかったらどうしようって、気が気じゃなかったから」


 …そうだよね…。

 

 私は自分のことでいっぱいいっぱいだったから、そんなことまで頭が回らなかった。

 1週間も眠り続けていたことよりも、記憶を失くしてしまったことや、見知らぬ婚約者の存在に動揺するあまり、長谷川さんの気持ちを考える余裕などなかった。


「心配かけてごめんなさい」

「ううん。彩葉のせいじゃないんだから、そんな顔しないで?今こうやって、また彩葉がここにいることが嬉しいんだ。あの事故に遭った人の中にはね、未だに意識を取り戻してない人もいるんだよ。大きな怪我をしてしまった人もいる」


 そうなんだ…。


「俺も色々とまだ混乱してるんだろうな。冷静でいるつもりだったけど、落ち込んだり、喜んだり、不安に思ったりしてるもんな」

「…」

「だからね、俺もちょっと焦っちゃうこともあると思うし、それで彩葉を困らせちゃうこともするかもしれない。なるべくそうならないように気をつけるけど、もし俺が彩葉の負担になるような言動をしたら、その時は遠慮しないではっきりと言ってね?」

「そんな…長谷川さんは、私が入院している時から色々と親切にしてくださっていました」


 私たちはそんな話をしばらくしていた。


「よし。じゃあ俺は今からえびグラタン作るから、彩葉はゆっくりしてて?テレビ見ててもいいし、サブスクのドラマや映画なんかも見られるからさ」

「お手伝いしますよ」

「いいのいいの。退院したばっかなんだから、ゆっくりしててよ」


 そんなこと言われても、なんだか落ち着かないな…。

 

 長谷川さんは、キッチンへと向かった。


 私は部屋の中をよく見渡してみた。


「ははっ」


 突然、長谷川さんの笑い声が聞こえてきたから、何事かと思い私はそちらを向いた。


「ごめんごめん。なんだか初めて彩葉をうちに連れてきた時のことを思い出しちゃって。その時もね、彩葉は今みたいに、物珍しそうに部屋の中を見渡してたんだよ」


 どうやら長谷川さんは、キッチンから私を見ていたようだ。なんだか急に恥ずかしくなった。


 当時のことでも思い出しているのだろうか。長谷川さんはニコニコと楽しそうにしていた。


 私は結局、ドラマなんかを見る気分になれず、だからといって曲もなにもかかっていない静かな時間を気まずく思い、テレビをつけた。

 内容なんて全く入ってこない。


 私はまた、色々と頭の中がぐるぐるとしていた。

 

 明日からどうしよう。どうやって過ごそう。

 カバンはないしスマホもない。カバンは、事故の時に紛失してしまったのだろうか。病室には服しかなかったからきっとそうなんだろう。


「彩葉、もう出来上がるよ。少しだけ手伝ってもらってもいい?」

「はい」


 私は立ち上がるとキッチンへ向かい、長谷川さんに指示をされ、サラダやカトラリーなんかをダイニングテーブルに持っていった。

 長谷川さんもメインのグラタンやスープなどを次々と運んでいた。

 あっという間にテーブルが華やかになった。


「さっ、食べよ?」

「はい。いただきます」


 さっきまでは全く食欲はなく、せっかく作ってくれても食べられないのでは…と心配だった。

 でも目の前に並べられた料理を見て、思わずゴクリと唾を飲んだ。

 キレイに焼かれたグラタンは、食欲をそそるように程よく焦げ目がつき、いい匂いが漂っていた。


 私はスプーンを手に取ると、早速グラタンを口に運んだ。


「…おいしい…」

「ふふっ。よかった。ね?俺の言った通りでしょ?彩葉は俺のグラタンが大好きなんだよ」


 本当に美味しい。私の好きな味だ。

 

 入院していた昨日までは、信じられないという気持ちばかりだったけど…この家に来てからの数時間で、私は長谷川さんの話を、少しだけ受け入れつつあった。


 物理的な証拠?は揃ってる。私物が実際にここにあるのだから。

 それに私の性格や好みの味も知っている。


 でも…


 どうして何も感じないんだろう。

 懐かしいとも、安心するとも思わない。


 記憶がないから、そういう感情にもならないのかな?

 なんこう…魂で感じる…的なものは何かないのだろうか…


 夕食を食べ終わると、2人でソファに座った。


 ひとりになりたいな…


 1人で色々とこれからのことを考えたい。


「元気ないね」

「あ…ちょっと疲れちゃって」

「そうだよね。一気に情報が入ってきて、頭がついていかないよね」

「はい」

「明日はゆっくりしてて?夜ご飯も何か買って帰るから、何もしなくていいよ」

「それはさすがに…」

「いいからいいから。頭を強く打ってるんだよ?安静にしてて?前に“お家で1日中映画を観たい”って、彩葉言ってたからさ、明日はそうやって過ごしたら?」


 いかにも私っぽい。


「彩葉が観たいって言ってた映画、もうサブスクに上がってるよ」


 長谷川さんはそう言うと、リモコンを手に取り何かを検索していた。


「ほら、これ」


 記憶がないのだから「ほら」と言われてもわからない。

 私がなにもリアクションをせずにいると「あ、そっか。ごめんごめん。覚えてないんだよね。じゃあちょっと予告見てみて?きっと好きなタイプの映画だから」と言いながら、その映画の予告を流し始めた。


 本当だ…面白そう。私が好きなジャンルだ。

 さっきよりもまた信憑性が増した。


 それからも映画の話なんかを2人でした。長谷川さんはそのたびに、「この映画やこのドラマも彩葉は好きだったよ?明日見てみたら?」と、そう言っていた。


「よし。そろそろ寝ようか」


 私たちは洗面所へ向かった。

 手渡された歯ブラシは、私が愛用しているものだった。


 歯磨きが終わると、長谷川さんは毛布を持ってリビングに来た。


「俺はソファで寝るから、彩葉は寝室を使って?」

「いえ、私がソファで寝ます」

「いいのいいの。病み上がりの人をソファで寝かせるほど、俺は薄情な人間じゃないの」

「でも…」

「いい格好させてよ。俺はこれから彩葉に好きになってもらいたいんだから、格好つけさせて?」


 長谷川さんはお茶目に笑いながらそう言っていた。


 私は長谷川さんの言葉に甘えて、そうさせてもらうことにした。

 ベッドに入り、クタクタのくまのぬいぐるみを抱きしめる。


 あー…やっとひとりになれた。


 長谷川さんの厚意を、まるで迷惑だったかのように、私は心の中でそう呟いていた。


 疲れた…


 長谷川さんは優しい人だ。


 本当に優しい人だと思う。


 なのに…


 私はこの家を、どうしても自分の家だと思えなかった。

 

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