2 ここで…
退院すると彼に連れられマンションへと来た。
…立派なマンション…。
どうやらここで一緒に住んでいるらしかった。
部屋の中もキレイ…
「ほら、これが彩葉のクローゼット。覚えてる洋服ある?」
彼は寝室のクローゼットを開けると、洋服を私に見せた。知らない服もあったけど、見覚えのある服もたくさんあった。
私は貧乏性なところがあり、シンプルな服は何年も気回す性分だった。その服がちゃんとあった。
それに…見覚えがない服もあったけど、私好みのもので、ちゃんと自分が選んだもののように感じた。
それから愛用していたコップやマグカップ。スキンケア用品や雑貨、寝る時に必要なクタクタになった大きなクマのぬいぐるみ…。
そういったものが全てこの部屋にあった。
本当に…私この人とここで暮らしてるんだ…。
この部屋にあるものを見たら、それは一目瞭然だった。
私が呆然と立っていると、長谷川さんは私を後ろから抱きしめた。
「彩葉…愛してる…」
いきなり抱きしめられて、体に力が入った。
「俺たちまたいちから始めよう?俺はそれでいいから。彩葉が忘れちゃったなら、また最初からやり直せばいいだけなんだから。だから俺と一緒にいて?」
そう言う長谷川さんの声は少し震えていた。
…私は…
自分のことしか考えていなかった。
でも長谷川さんは、こんな私を受け入れようとしてくれている。
記憶を失った私を…
きっと長谷川さんは辛いはずなのに…
長谷川さんの立場からすると、今の状況は辛いはずだ。
婚約者が、自分のことを忘れてしまっているだなんて…
彼は、私のことを繋ぎ止めようと必死になっていた。
「彩葉お願い…すぐに決断しないで?」
そう言う長谷川さんの声は、さっきと同じく、まだ少し震えていた。
私はそんな彼の声を聞いて胸がきゅっと痛んだ。
「…急に抱きしめちゃってごめんね。記憶がないのに、こんなことされても困るよね」
彼は私からそっと離れた。
それから長谷川さんはまた部屋を案内してくれた。
「ねぇ…」
「はい」
長谷川さんは辛そうにしながら私に話しかけた。
「…りっちゃんって呼んで…?」
「…」
「お願い。彩葉の口から聞きたい。安心したい」
そんなこと言われたって…
「彩葉…」
どうしよう…
「彩葉」
「…りっちゃん…」
私が遠慮がちにそう言うと、長谷川さんは私の手を握った。
「ありがとう。事故に遭う前に戻ったみたいで、なんだか嬉しい」
長谷川さんの表情は、泣き笑いをするような切ないものだった。
私はその言葉に、なんて返事をしていいかわからず、黙ったままだった。
「ごめんね。こんなことを言われても、彩葉は困っちゃうよね」
「いえ…」
長谷川さんは私の頭を、優しく2回ポンポンとした。
「焦らなくていい。思い出せなくてもいい。ただね?さっきも言ったけど今すぐに決断をしないで欲しいんだ」
「…はい…」
「一緒に生活をしながら、俺がどんな奴なのかを見極めて?判断するのはそれからでも遅くないでしょ?」
私は彼のその提案を、肯定するかのように頷いた。
「うん。ありがとね。それでもだめだったら、ここを出ていけばいいよ。ね?彩葉はまだ退院したばかりだし、記憶もない…だからここで少しゆっくりしてな?」
「…ご迷惑でなければ…」
「ははっ。何を言ってるの?彩葉。俺からすれば彩葉は婚約者なの。迷惑だなんて思うはずがないでしょ?」
彼はそう言いながら、優しく微笑んだ。
優しすぎるだろ…
……。
…こんなに優しい人が、本当に私のことなんて選ぶのだろうか…
そう思ってしまうほど、彼は優しくて、温かい人に見えた。
私からしたら完璧に近い。
優しくて、包容力もありそうで、それにこのマンション。
賃貸なのか購入したのかはわからないけど、私が住んでいた安アパートに比べたら、ここは楽園だ。決して高級マンションとかではないけど、整備の行き届いたキレイなマンションだった。
こんなところに住んでいるのだから、彼の収入はきっと安定しているのだろう。
…この人は…私の本性をまだ知らないのかな?
私は今まで上手く隠して付き合ってた?それともそれも承知の上で?
私は変にプライドが高くて打算的なところがある。
結婚するなら安定した職に就いている人がいいし、優しい人がいい。
別に多くを望んでいるつもりはないけど結局、その“普通”というのが結構難しいのだ。
相手の仕事が安定していても性格が合わなかったり、性格が合ったとしても金銭感覚が違ったり…。
自分の中での“普通の人”と出会うのは、なかなか難しいと思っていた。
私は“そんな人”に出会ったのか…?
なんだか話がうますぎるような気がする。
「…長谷川さんは…その…私のどこが好きなんですか?」
思い切って聞いてみた。
「ははっ。なんかいいね、そういうの」
「え?」
「確認作業みたいなものでしょ?彩葉がそう聞いてくるってことは、俺のことを知ろうとしてくれてるってことだよね?」
確かにそうだ。
私は、ただこの現実を受け入れられずに終わらそうとはしていない。
真実をしりたい。ちゃんと確かめたい。
その上で判断したい。
「はい。そうです。長谷川さんのことを知りたいです」
私ははっきりとそう言った。
「んー…彩葉の好きなところ…たくさんあるな。例えばそうだな…嫌だ嫌だと言いながらも、仕事に一生懸命だったところとか、実はちょっと口が悪いところ…それから手を叩きながら大笑いするところとか、少し打算的なところも人間らしくて好きだよ」
…打算的…
彼は今、確かにそう言った。
それって、私が長谷川さんに素を見せていたってことだよね?
そんな私でも長谷川さんは私のことを好き…?
「驚いた?」
「え…?」
「彩葉はね、“素”を出せるのは俺だけだって言ってたんだよ?そんな人は俺が初めてだって」
「私がそんなことを?」
「うん。そうだよ?だから俺、彩葉からそう言われた時すごく嬉しかったんだ。なんだか彩葉が、俺に心を許してくれたようで、本当に嬉しかった」
長谷川さんは優しく微笑みながらそう言っていた。
もしかしたら私…本当にいい人と巡り会えたのかもしれない…。
でも…
やっぱり出来すぎている気もした。
「他に何か聞きたいことはある?俺、なんでも話すよ?」
「大丈夫です。とりあえずは」
「そう?また何かあったらなんでも聞いてね?」
「はい。ありがとうごさいます」
今日の天気も心地よく、この部屋の窓から見える景色は清々しいものだった。
でも…季節柄、ところどころに見える木々が、秋色になっているのが、私から少しだけ切ない感情を引き出していた。
私は…これからこの人と共に…
私は想像してみた。
長谷川さんとの生活を。
今私が見えている長谷川さんとの生活を…。
だめだ…
長谷川さんの悪いところや、情けないところをまだ知らないから、まるで夢物語のようなことしか想像ができない。
この部屋を見る限り、家事ができないだとか、だらしのない人ではないことはわかる。
家事分担?とかはどうなんだろう。
名もなき家事をちゃんとできる人かどうか?
いや…
そもそも長谷川さんは家庭に入って欲しいと言っていたから、家事は私に任せたいのだろう。
私はキッチンで何かしている長谷川さんに声をかけた。
「あの…」
「ん?なに?」
長谷川さんは柔らかく微笑んだ。
声をかけたのはいいものの、私はなんて言っていいかわからなかった。
さっき私が考えていたことはあまりにも現実的だし、なんだかそんなことを気にする自分を卑しくも感じた。
「どうしたの?なんでも答えるよ?」
「…その…家事とかは…」
「ん?家事?家事がどうしたの?」
なんて聞こう…。
「あ、家事分担のこと?」
「あ…はい…」
「特には決まってないけど、ゴミ捨てと、排水溝の掃除は俺がしてるよ。あとは2人でしたり、彩葉がしてくれたり…そんな感じかな?たまに俺もご飯は作ってるよ?彩葉が喜ぶからね」
…完璧なんですけど…
長谷川さん…私の理想そのものなんですけど…
え…?こんなことってあるの?
記憶を失くしている間の私、優秀すぎない?
こんなに私にとって理想的な人を恋人にしていただなんて…
「今日は彩葉が好きなえびグラタンにしようか」
えびグラタン…
確かに私の好物だ。
長谷川さんは、病院でも私の好物として言い当てていた。
特にえびの風味と優しい味付けのえびグラタンが私は大好きだ。
「…私が好きだって言ってたんですか?」
「そうだよ?それを聞いて作ってみたら、彩葉、“美味しい”って言いながら完食してくれたんだ。もしかしたら、俺が作ったグラタンを食べたら思い出すかもね」
弾むような声で長谷川さんはそう言った。




