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38 嫌だな…


 桜はやっぱり、あっという間に散ってしまったけど、俺の心は穏やかだった。


 彩葉と夫婦か…


 俺は彩葉が寝たあと、仕事部屋のノートPCを開き、久しぶりに彩葉の写真を眺めていた。


 やっと…俺の夢が叶った…


 これからは、彩葉がいる人生になる…。


 俺はそれがすごく嬉しかった。


 あ…これ…俺が気に入って勝手に買ったワンピースだ。あの時の俺は、一目惚れしたこのワンピースを買い、彩葉のクローゼットに忍び込ませたんだ。記憶のない彩葉はそれを、俺との買い物の時に着てくれていた。それが嬉しくて、こっそりと撮った時の写真だ。


 本当によく似合ってる。買っておいてよかったな。それを選んで着るってことは、彩葉の好みにも合っているということになる。


 それからもしばらくの間、マウスをスクロールし、色々な彩葉を見ていた。


 一緒に過ごしてきた日々が甦る。


 ああ…楽しかったな。ヒヤヒヤとした時もあったけど、なんとかここまでこれた。


 あの時、ああしておいてよかった。


 彩葉を諦めなくて、本当によかった…。


 明日は休みだ。今日はウイスキーでも飲みながら、このままもう少し思い出に浸ろう。




 結婚をしてから2ヶ月が経った。


 日中は半袖で過ごせるほどに暑くなる日も増えてきた。


 職場に向かいながら、俺は桜の木を眺めていた。春はあんなに儚くもキレイな花を咲かせていた桜の木は、今では生命力に満ちあふれたみどりの葉を、キラキラと太陽の光を通しながら身に纏わせていた。


「はい。これお土産」

「なんの?」

「温泉。ユイナちゃんと日帰りで行ってきたんだ」


 温泉か…


 そういえば彩葉と旅行とかに行ったことなかったな。今日帰ったら、彩葉に提案してみようか。ヤマダのように日帰りでもいいし、1泊でもいい。でもどうせなら、やっぱり1泊したいかな。彩葉はどうだろう。


「楽しかった?」

「もう、めっっっちゃ楽しかったっ。温泉巡りして、貸切風呂もこっそり予約しておいたんだけどさ、ユイナちゃん、それを喜んでくれて──」


 貸切風呂か…いいな。

 

 でも彩葉、恥ずかしがるだろうな。前に“一緒にお風呂に入ろうと”と言った時、断られてしまった。“電気を消すから”と言っても“恥ずかしいから”と言って断られた。


 いいな…ヤマダは…


 俺も彩葉と一緒に、温泉に入りたい。



「ただいまー」

「おかえり。あっ、杏それだめだってばっ。それはおもちゃじゃないのっ」


 杏は彩葉の靴下を口に咥えていた。本当に彩葉のことが好きなようだ。やっぱり彩葉の匂いが安心するんだろうか。

 俺は試しに、自分の靴下を杏に近づけてみた。すると杏はフレーメン反応をした。目は見開き、口が半開きだ。


「ははっ。杏、臭かった?」

「なになに?」

「杏がフレーメン反応した」

「えー見たかった」


 俺はもう一度、杏の鼻に俺の靴下を近づけた。


「あははっ。ホントだっ。何その顔っ」

「お前なんで彩葉の靴下は良くて、俺のはだめなんだよ」

「ふふっ。でも確か、フェロモンの匂いを嗅ぎ分けてる…とかそんな感じなんだよね?」

「じゃあ彩葉も俺のフェロモン嗅いで?」


 俺は彩葉に脱いだ靴下を近づけた。


「やだぁっ」


 彩葉は笑いながら俺の靴下から逃げていた。

 

 なんだこれ…


 すごく幸せじゃないか…


 いつも通りに彩葉との夕飯を楽しんでいる時、俺はヤマダの話をした。


「ヤマダからのお土産預かってんだ」

「あっ、ユイナから聞いたよ。日帰り温泉行ったんでしょ?」

「そうそう。貸切の露天風呂とかも入ったみたい」

「ね。ユイナすごく喜んでたよ」


 この流れなら…


「俺たちも温泉行く?一泊で」

「…りっちゃん休み取れるの?」

「取れるよ」


 俺がそう言うと、彩葉は嬉しそうにしていた。


「…俺と一緒に温泉入りたい?」

「うん。せっかくだしね」


 ……。


「一緒にお風呂入るのも嫌がるのに?」

「…恥ずかしいけど、温泉に行くなら一緒に入りたいよ。同じ景色を見て、同じお湯に浸かって…それで色々2人で話して…その方が楽しいでしょ?」


 やっぱり…彩葉の感性が大好きだ。俺には無い感覚。

 

 ”同じ景色を見て“…か…。

 

 俺もそう思うけど、どちらかと言えば、ただ彩葉と一緒にいたい気持ちの方が大きい。


 それから俺たちは近場ではあるものの、温泉旅行の計画を立てた。

 

「あっ、あのね、りっちゃん。今日はりっちゃんが帰ってきたらすぐに話そうと思ってたことがあったんだった」

「なに?」

「それなのにね?杏が私の靴下を咥えちゃうから」


 なんだろう。彩葉はどんな話を俺にしたかったんだろう。


「それでなに?」

「少しだけ、ほんの少しだけ記憶が戻ったの」


 ……え…


「サキと水族館に行ったことと、サキとライブに行った時のこと。それだけなんだけどね?いい方向に向いてると思わない?」


 思わないよ。


 俺は…そうだとは全く思わない。


「でも…その記憶にりっちゃんはいなかった…まぁ、それもそうだよね。サキとの思い出だから。でもねっ?ライブの記憶が戻って嬉しいんだっ。サキからその話を聞いた時、すごく悔しかったから」

「ははっ。そうだったね。あの時の彩葉、悔しそうにしてたもんね」


 頼む。もうこれ以上は思い出さないでくれ。


「このまま少しずつでもいいから、ひとつひとつ思い出せるといいな」


 嫌だ。


 俺はそんなのは嫌だ。


「そうだね。急に記憶が戻ったの?」

「うーん…曲を聴きながら家事をしてた時。そのライブのアーティストの」


 それが“鍵”になったのか?


「そっか。頭は痛くなったりしなかった?ドラマみたいに」

「ううん。そういうのはなかった。いきなり映像が浮かんだ感じ?」


 そっか…そんな感じなのか…


 今回は“曲”がきっかけか。それを聴き続けると、そのうちに全てを思い出すのか?それとも…


「少しだけ光が見えたねっ」


 光…


 俺にとっては“闇”だ…


 せっかくここまできたんだ。


 例え全てを思い出したとしても…それで彩葉が不信感を抱いたとしても…


 俺は絶対に彩葉を手放さない。

 

 この日、彩葉が眠ったのを確認すると、俺はウイスキーを片手に仕事部屋に向かった。


 考えないと…


 彩葉が全てを思い出してしまった時のことを。


 もし…彩葉が記憶を取り戻したとして…その記憶の中には俺はいない…


 彩葉には“特定の人物のみを思い出せないこともある”と伝えてある。


 ただ…それがどこまで通用するか…


 彩葉が全てに気がついた時、どう思うのか…どんな行動をするのか…


 別れたいと思うのか…

 パニックに陥るのか…

 

 この家を出て行くのか…


 もし…


 そんなことになるようだったら…




 ロープでも鎖でも、なんでもいいから彩葉のことをこの家に縛り付ける。


 文字通りに──

 



 玄関にも窓にも、鍵を取り付けて出られないようにして…食事や風呂の面倒は全部俺がみる。


 彩葉を繋ぐ鎖の長さは、トイレに行けるくらいにして…その鎖の範囲内には、刃物や工具類はなにも置かないようにしよう。でもトイレまでってなると、結構な長さになるな……だったら変な感じになるけど、トイレに近いところに彩葉の生活スペースを作ろう。そうなると模様替えが必要だな。

 

 もちろんスマホも取り上げる。いっそのこと解約しちゃおうか…


 あー…それだとだめだ。サキちゃんなんかが心配しちゃう。解約はせずに、俺が彩葉に代わって返事をすればいっか。


 バイトは…俺が直接ワカナさんに適当なことを言えば簡単に辞めさせることができるだろうし、あとは……何か見落としてないか…?


 あー…もしそうなった時のために、監視カメラでも買っておくか?ペット用の見守りカメラなんかも今はあるし……でもあんなあからさまなものじゃない方がいいか?いや…あからさまな方が、彩葉は変なことを考えなくなるかもしれない。だけど……隠している方が、彩葉の行動で、何を企んでいるのかがわかるかもしれない。その方が先回りをして策を打てる。

 

 …でも…


 俺はそれを望んでいるわけではない。

 今の関係が望ましい。


 彩葉の無邪気な笑顔、彩葉の自然な振る舞い、何気ないこの日常…


 俺はこれを大切に思っている。


 だから彩葉の記憶が戻って、不穏な空気になることは避けたい。 

 できれば彩葉のことを縛り付けるようなことはしたくない。


 だけど……


 もしそうなってしまったのなら、そうせざるを得ない。


 俺は何がなんでも、彩葉を手放すようなことはしない。


 絶対に──


 それでもそうなったら…


 もう洗脳するしかないか。


 飴と鞭…


 彩葉にはまた、罪悪感を覚えてもらわないとならない。それで彩葉は自分を責め、俺と一緒にいることを選択させないと。


 きなこと杏の話を持ち出し、それから今までのことも…


 俺は今まで彩葉の生活を支えてきた。こんなことを言うのはモラハラっぽくて嫌なんだけど、毎月の保険関係、年金関係、スマホ代、洋服代…全て俺の給料で賄ってきた。


 俺が彩葉のことをどれほど愛しているかも、もちろん伝える。


 そうやって彩葉を責めつつも、愛情もしっかりと与える。


 あ…


 彩葉の体も…しっかりと愛さないとな。


 もし…それでもダメだったら…


 食事や飲水をギリギリまで制限して…肉体的にも、少しダメージを与えないといけなくなるかもしれない。


 ああ…


 嫌だな…


 そんなことはしたくない。


 でも人間…そんな極限状態になれば、もう正常な判断なんてできなくなるだろ?


 暴力なんてもちろん振るわない。


 俺は彩葉が可愛くて仕方がないんだから。


 彩葉の体に傷をつけることなんてしない。


 ただ…そうやって食事と飲水を制限しなければならない日が来るかもしれない。


 そう考えると、俺は胸が苦しくなった。


 でも…仕方ないよな?


 彩葉には悪いけど、それしか方法はない。

 

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