36 桜が咲いているうちに
俺たちは定期的に飲みに行っていた。
『いつもの駅で待ち合わせね』
『りょーかいっ』
俺と彩葉はそんなメッセージのやり取りをしていた。
大丈夫…彩葉は俺を疑ってない。
「りっちゃんっ。お疲れ様ー」
ほら…大丈夫。
「彩葉もお疲れ様」
「私は今日、休みだったよ?」
「家事したでしょ?」
いつものやり取り。大丈夫。
キクチのことが気になるけど、きっと大丈夫。
店に着き、向かい合わせで座る。メニューを見ながら料理や飲み物を注文すると、俺は彩葉との他愛のない話を楽しんだ。
彩葉が少し酔ったところで、またキクチの話を聞いてみた。
「…キクチさんとはその後どう?」
「んー?その後もなにも、もうブロックしちゃったぁ。あははっ」
お酒で少し頬を赤くした彩葉は、笑いながらそう言った。
ブロック…そっか。彩葉はそいつの言うことに耳を貸さなかったのか。しまいにはブロック。それならもうキクチのことは気にしなくても大丈夫だろう。
「もう聞かないってこの前言ったけど、ちょっと気になるから聞かせて?」
「なにを?」
「キクチさんに会って、なんか記憶が戻ったりした?一部でも」
「あーなんもなかったよ」
「そっか」
「…りっちゃんには悪いけど、私もう記憶ないままでもいいや。ごめんね?そう思っちゃって」
「なんでそう思ったの?辛くなっちゃった?」
「ううん。今が幸せだから」
……。
胸がきゅっとした。
彩葉らしくないことを言っていた。
お酒が入ってるから恥ずかしくないのかな。普段の彩葉は甘い言葉なんかは照れてなかなか言ってくれない。幸せだなんて言っているのも聞いたことがない。
でも確かに彩葉は“今が幸せ”だと言った。
あれ…?
すごく嬉しい…。
思わず目頭が熱くなった。
「りっちゃん?」
俺は立ち上がると、彩葉の元へ行き抱きしめた。
「彩葉。俺も毎日彩葉と一緒にいられて、すごく幸せだよ」
すると彩葉も抱きしめ返してくれた。
こんな人目のある場所で…
酒に酔っていようがなんだろうがいい。俺はすごく嬉しかったんだ。
「ははっ。りっちゃん酔っちゃった?」
「うん…酔っちゃった」
彩葉の楽しそうな声が、鼓膜をくすぐった。
この日は帰ったあと、いつも以上に彩葉のことを愛した。
何度も…何度も…
両親たちとの顔合わせは無事に済んだ。
彩葉はお母さん似だった。彩葉もきっと、年を重ねたらこんな感じになるんだろうな…と、そう思い、とても心が温かくなった。
楽しみだな…これから俺は彩葉と一緒に、人生を歩んでいくんだ。笑ったり、美味しいものを一緒に食べたり、色々なものを見て、体験して、経験して、時にはケンカなんかもして…そうやって人生を共にしていくんだ…。
幸せだ…
「やだもう律ったら。幸せそうに、ぽけーっとしちゃって」
あの時の母はそう言って、俺の背中を叩いていた。
彩葉は緊張しながらも俺の両親に挨拶をすると、その後は仲良さそうに話していた。俺の両親は“娘ができて嬉しい”と言いながら喜んでいた。
家に帰ると、彩葉は疲れた顔をしていた。
「やっぱり疲れちゃうよね」
「んー…疲れたけど、なんか楽しかった。…胸がいっぱい…」
「…俺もだよ」
この日は、彩葉のことをしっかりと抱き寄せて眠りについた。
外を歩けばあちこちで桜が綺麗に咲き誇っているのが目に入る。今俺たちは、散歩をしながら「いつにしようか」などと言い、籍を入れる日を考えていた。
あともう一歩…
それで俺たちはちゃんと結ばれる。
「りっちゃんはいつがいいとかないの?」
…今すぐ…かな。
「んー…ベタだけど“大安”とか、語呂合わせとか?」
「じゃあ大安の日でいっか」
「んーーー…ロマンスがないな」
「りっちゃんが先に言ったんじゃん」
彩葉は笑いながら俺にそうツッコミを入れた。
ふと上を見ると、桜の花が穏やかな風に吹かれてキラキラと揺れていた。そんな俺に気づいた彩葉も桜を眺めた。
「…キレイ…」
「だね」
「……桜が咲いてるうちに、籍入れちゃう?」
え…?
「でも桜ってすぐに散っちゃうよ?」
「縁起が悪いってこと?」
「ううん。すぐにでも入れることになるよってこと」
「何か問題?」
問題なんてない。
「彩葉はそれでいいの?」
「別にいいよ?もう挨拶も済ませたんだし、いつでも。でもりっちゃんが“ロマンス”を求めるなら、もっとちゃんと考えた日でもいいし」
…嬉しい…
「なんで桜が咲いてるうちにって思ったの?」
「キレイだから。だから来年もりっちゃんとこうやって見れたらなって思って」
来年も…
「それロマンス」
「え?」
「その理由はもうロマンスだよ」
「ははっ。そっか。じゃあ桜が咲いてるうちの“大安”の日にする?」
「うん。そうしよ?」
今日、こうやって散歩してよかったな。天気が良かったから、何気なくそうしただけだったのに。
桜が彩葉の気持ちを動かした。
桜が…まるで俺たちを祝福しているような…そんな気分になった。
この日はそのまま役所へ行くと、婚姻届を数枚もらって帰ってきた。
このあと俺たちは家に帰ると、早速婚姻届に記入し始めた。
「あ…間違えた」
俺は緊張して、自分の名前を書き間違えてしまった。“長谷川”が“長谷川川”になってしまった。
本当に?本当に俺は彩葉と結婚できるのか?
「ははっ。苗字長っ。ねぇねぇ、これなんて読むの?」
彩葉は俺をからかってきた。
「…はせがわがわ…?」
「あははっ。じゃあ私は“長谷川川彩葉”になるんだねっ」
「緊張してるんだから仕方ないでしょ」
「数枚もらってきてよかったねっ」
「…そんなに笑うなら、彩葉は間違えないでよね」
俺はそんな感じで拗ねてみた。
「さすがに自分の名前は間違えないよ」
そう言っていたのに、彩葉は“彩”の右側の3本線のさんづくりを、4本書いていた。
「彩葉。自分の名前間違えてるよ」
「え?うそだぁ?」
「ほらここ」
俺は指を指して教えた。
「…」
「さっき俺のこと笑ったよね?」
「ふふっ」
「こら。聞いてるの?」
「あっははっ。間違えてるっ」
俺はそんな彩葉を見て、釣られて笑ってしまった。
「ほらもうっ。ははっ。さっきは笑ってっ…ごめんなさいって言ってっ?」
笑いながらそう言うと、「ごめっ、今はむりっ…はははっ」と、彩葉も笑いながらそう言っていた。
ふと窓の外に目をやると、遠くに桜が見えた。
桜か…
彩葉はあの時、“キレイ…”と呟いた。それは花火を見ていた時もそうだった。
確かに、俺もキレイだとは思う。桜も花火も。
でも彩葉はきっと…俺とは違う世界を見ている。彩葉の目には、今日の桜はどんなふうに映っていたのだろう。
きっと俺が見ている世界よりも、もっともっと美しいんだろうな。
なんとなく…俺はそう思った。




