31 崩れる
最近…彩葉の元気がない…気がする。
最初は寒くなってきたから、体調が不安定なのかなと思っていたけど、違う…。これは体調とかじゃない。
悩み…?
何か悩みがあるのか?
俺は洗濯物を干している彩葉を眺めて、そんなことを考えていた。
「彩葉…何か悩み事でもある?」
「えっ?」
「なんか最近、いつもと違う気がするから…」
「大丈夫だよ?」
いつも通りの彩葉だった。
俺の勘違いか?
ならいいんだけど。
「ねぇ、近所にさ、洋食屋さんができたの知ってる?」
「あー、あそこでしょ?パン屋の隣の」
「そうそう。今日のお昼、そこでしない?」
「おっ、いいね。行こうか」
彩葉からもこんな感じで、俺のことを誘ってくれることが徐々に増えた。自然だな…なんだかこういうのって、すごく自然だ。
俺たちの関係が本物になってきてる…
お昼ちょっと前に、家を出ると、俺たちはさっき話していた店へと向かった。
注文をすませ、彩葉と他愛もない話をし、料理が届くとそれを食べ始めた。
「ん〜美味しい。近所にこんな美味しいお店ができてよかったね」
「んっ、本当だ。美味しいね。あ、彩葉、俺のも食べてみ?こっちも美味しいよ?」
「じゃあ私の分も」
こんな感じでお互いの分を少しだけ分け合った。
でも…
俺はやっぱり彩葉に違和感を覚えていた。
何かが違う…
なんだ?
なんなんだ?
彩葉は、時折不安そうな顔を覗かせていた。
それを見て俺の心がざわついた。なんだ?彩葉は何を隠してる?何を不安に思ってる?
どうしよう…
衝動に駆られて問い詰めたい。無理やりにでも彩葉から聞き出したい。でも今はだめだ。今は大事な時期だ。婚約したといえど、まだまだ俺は慎重にならなくてはいけないんだ。
気づけば、フォークを握る手にぐっと力が入り、手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。
…もしかして…記憶が戻ったのか…?
全部じゃなかったとしても、一部だけ…とか…
それで困惑してる?思い出した記憶の中に、俺がいないから戸惑ってる…とか…?
でもそれに関してはちゃんと先手を打っているし…
ならどうして…?
気になりだすと、もう頭の中はそればかりになってしまった。
「なにか…俺に隠してることない?」
あー…まずったな…今の聞き方。
「…なんでそう思うの?」
この返答の仕方って…隠してるってことだよな?
「なに?話して?」
「なんでそう思ったの?」
やっぱり…彩葉は何か隠してるんだ…
「彩葉いつもと違うよ?」
「どこが?」
「俺にはわかる」
「…」
「彩葉?」
「…勘違いかもしれない」
「なに?」
「…ここじゃ話せない」
“ここじゃ話せない”?記憶のことじゃないのか?
俺は焦る気持ちを必死に抑え、食事をすませた。さっきと違って、もう味なんかわからなかった。
家に帰ると、すぐに彩葉に聞いた。
「どうしたの?何があったの?」
「勘違いかもしれない」
「いいよ。教えて?」
帰ってきたばかりの部屋は、テレビも何もついていない。
ただ張り詰めた空気だけが漂い、シーンとしていた。
「……生理が…きてない…」
……は?
いや…そんなはずは…。
俺は今まで気をつけていた。そんな間違いを起こさないようにちゃんとしていた。
なのになんで…
「でも…最近ちょっと寒かったりで、体調崩してたからそういうのが影響してるだけかも」
「どのくらい……どのくらい遅れてるの?」
「1週間…」
…なんで…?
俺は…ちゃんと…
こんな形で結婚なんてしたくない。俺は…
俺は彩葉にちゃんと愛されてから結婚がしたいんだ。こんな形で婚姻関係を結びたくない。そんなの危うすぎる。
子どもが理由で結婚して…その先に何がある?
子育てが終わったあと、そこに本当に愛情は残るのか?ただ単に“家族だった”…だけにならないか?
違う。俺が欲しいのはただの婚姻関係なんかじゃない。彩葉からちゃんと…愛されたいんだ。
「1週間経ってるなら検査できるよね?俺今から買ってくるから、検査してみよ?」
「…わかった…」
彩葉は泣きそうな顔をしていた。
「なんでそんな顔してるの?妊娠するの嫌?」
「……りっちゃん…不安そうな顔してる」
…顔に出てたか…。
「そんなことないよ?彩葉の体の心配をしてるだけ」
「嘘…」
「え?」
彩葉は目に涙を溜めていた。
「…りっちゃんなら…喜んでくれると思ってた…」
しまった…
しくじった…。
彩葉は…俺のことをそんなうふうに思ってくれていたんだ…。
「…言わなきゃよかった…」
呟くように彩葉はそう言った。
それって…どういう意味…?
「なんで?」
「…」
「なんで?教えて?」
「…りっちゃんが…困るから…」
「困らないよ?」
「…だから嘘言わないでよっ。りっちゃん…今自分がどういう顔してるかわかってるのっ?りっちゃん“すごく困ってます”って顔してるよ?」
「違うっ。彩葉、それは違うっ」
あー…最悪だ…。
これまで積み上げてきたものが、音を立てて一気に崩れていくような感覚に陥った。
「だったらなんでそんな顔してるのっ」
「それは…」
「…わかんない」
「…え…?」
「りっちゃんが何を考えてるのかわかんない」
「何って…彩葉のことだよ?」
「嘘ばっか…」
「嘘じゃない」
彩葉は不安が大きいのか、いつもと様子が違った。
「彩葉…」
「……もう黙って」
彩葉はひと言だけそう言うと、寝室にこもってしまった。
あれ…?
なんでこうなった…?
こんなはずじゃなかったのに。
ああ…
俺が動揺したからか…。
俺が動揺なんてしなければ、今きっと…こんなことにはならなかった…。
「彩葉…」
俺は寝室のドアに向かって話しかけた。
「…彩葉…」
「…」
「俺は別に…彩葉が妊娠したかもしれないということに、困ってたわけじゃないんだよ?」
俺はなんとか自分を取り繕い、彩葉にそう声をかけた。
彩葉は何に不信感を覚えてる…?
「…」
「もし妊娠していても俺は嬉しいし、ちゃんと支えるよ?」
「…」
「彩葉…」
「…」
「…彩葉…」
するとドアが開いた。
彩葉は涙を流していた。
「本当?」
「もちろん。なにが不安?」
そうならちゃんと受け入れるし、生まれてくる子を可愛がれる自信しかない。
でも…違うんだ。
これでは俺のシナリオから逸れてしまう。
俺は…
こんなのいやだ…。
「とりあえずさ、今から検査薬買ってくるから、ちゃんと確認してみよ?」
「…うん…」
スマホだけを手にすると、急いで薬局へと向かった。
俺は全身に変な汗をかいていた。
妊娠?いやでも…そんなことはないはずだ。確率があまりにも低すぎる。
きっと…ただ遅れてるだけだ。
俺は検査薬を手に取ると、すぐにお会計を済ませて家へと帰った。
「はい…検査してみて?」
「うん…」
彩葉はそれを手に取ると、トイレへと向かった。
いやに時間の流れが遅く感じる。
まだか?まだ結果は出ないのか?
彩葉は1人で結果を見てるのか?
ドアが開く音が聞こえた。
「彩葉?」
「…りっちゃん」
「どうだった?」
頼む…陰性であってくれ…頼む…
……
「…陰性だった」
彩葉はその場で崩れるように座り込んだ。
「…ごめん…私の早とちりだった」
俺は内心、すごくホッとしていた。
彩葉に近づくと俺もしゃがみ、手を握ろうとした。
でも…彩葉はそんな俺の手を避けるようにした。
──え…?
「りっちゃん…」
「ん?」
「…初めて見た…」
「なんのこと?」
「あんなに動揺してるりっちゃん…」
…俺…そんなに動揺してたのか…
「…そんなに嫌だった?」
「…違うよ。気をつけてたのに、なんでって動揺しただけ」
俺は本当のことを話した。
「それとも私のこと疑った?」
疑う?
…浮気…とか?
彩葉がそんなことをしてないのはわかってる。
「疑ったことなんて一度もないよ?」
「…本当?」
「うん。本当」
「…もし妊娠してたら嫌だった?」
「嫌じゃないよ?ただね、そういうことは計画的に進めたいんだ。彩葉の気持ちがちゃんと俺に向いて、結婚して、それからがいい」
これも本当のことを話した。
「私はちゃんと、りっちゃんのこと好きだよ?なのになに?“私の気持ちがちゃんと俺に向いて”って」
あ…またしくじった…。
彩葉が俺のことを好きなことくらい知ってる。でも…まだ愛されてない。その本音がつい出てしまったんだ。
ここも…変な嘘はつかない方がいいだろう。
「ごめん。俺…彩葉から愛してるって言われたことがないから。でも無理して言って欲しくない。彩葉がちゃんと、俺のことを愛してるって思った時に、その言葉を聞きたい。だから子どもは、お互いにそう思ってからの方がいいんだ」
俺がそう言うと、彩葉は照れた顔をした。
だからもう一度手を握ってみようとした。今度はちゃんと、握らせてくれた。
「………るよ…」
彩葉はごにょごにょと何か言った。
「ん?ごめん。聞こえなかった」
「…愛してるよ」
…え…?
俺の心臓が大きく跳ねた。
「ごめんね?私、そういうこと言うの…慣れてなくて、恥ずかしいんだ」
「俺も愛してる」
「…」
「愛してるよ、彩葉」
俺は恥ずかしそうにしている彩葉を抱きしめた。
また…一歩進むことができた…。




