29 ホクロ
家に帰ると、俺はすぐに“あるもの”を取りに行った。
「…彩葉…これ…」
俺はそう言いながら小さい箱を彩葉に渡した。
「…なにこれ…」
「見せたいものがあるって言ったでしょ?開けてみて?」
彩葉はゆっくりと、その箱を開けた。
「…これ…」
彩葉はそれをじっと見つめていた。
「これを渡す前に、彩葉は記憶喪失になったんだ」
「…渡す前に…?」
「そ。俺ね?なんの準備もしないままで、その場の勢いで彩葉にプロポーズしちゃったの」
「ははっ。そうだったんだ」
「うん。だから、これをずっと渡せずにいたんだ。渡す前に…事故があったから…」
彩葉は小さい箱の中にある、ダイヤの指輪を眺めていた。
「俺の気持ちはずっと変わってない」
「…」
「…彩葉も…この先もずっと俺とって思ってくれたんでしょ?」
彩葉は静かに頷いた。
「だから今日、あんなことを言ってくれたんでしょ?」
彩葉は小さい箱の中を見つめていた。
その目が、ゆっくりと潤んでいく。
「…ねぇりっちゃん…」
「ん?」
「どうやって私にプロポーズしたの?」
「普通だよ?“俺と結婚してください”って」
「…」
「普通すぎてがっかりした?」
「ううん。もう一回言って…?」
何回でも言うよ。
「俺と結婚してください」
「……はい…」
え…?
「あっ、でもすぐにでは…なくて…」
「…」
「…りっちゃん…?」
…え…?
嘘…
本当に…?
「りっちゃん?」
「…嬉しい…」
「…」
「…それじゃあ…婚約…ってことでいい…?」
「…うん……でもそんなにすぐには色々進められない…ごめんね?」
うん…それでいい…彩葉らしい…。
「それでいいよ」
「…いいの…?」
「それでいい」
はぁぁ…
…進めた。
やっとここまで進めた…。
指輪…買っておいて良かった…
そう思うと、自然とあの日のことを思い出していた。
──彩葉が、病院で眠り続けていた頃を…
俺は彩葉が眠っている時に、こっそりと指のサイズを測っていた。
それは医者からあることを聞いていたからだ。
“命に関わるような緊急性はない”、“でも頭を強く打っている”、“記憶障害があるかも”、“後遺症として、数分前のことを思い出せないこともあるかも”…
そんなことを色々と説明された。
俺は切に願った。
どうか…
どうか…彩葉の記憶が消えていますようにって…
だって…こんなチャンス…なかなかないだろ?
ここで彩葉が記憶を失くしてしまえば、これから俺の物語が始まる…
やっと始まるんだ…“俺たちの物語”が…
俺は彩葉が記憶を失くした前提で、いくつかのシナリオを作り上げた。その中でも最も、自然なものを選び、彩葉の記憶が失くなってしまったことを想定して、妄想を膨らませた。
まぁ…そんな上手いことにはならないだろう…
そんな感じで、ちゃんと冷静な俺もいた。
でも…俺はそんな可能性を捨てきれず、指のサイズを測れるものをネットで購入した。
それから…
もしも彩葉が目覚めた時、現実味を帯びさせるために、眠り続ける彩葉の入院着をそっとめくった。
…左胸にホクロ…
次にズボンをずらした。
右の内太ももにホクロ…
この情報を話せば、彩葉は俺が婚約者だと思い込むかも知れない。俺たちが深い関係であったと信じるかもしれない。
この時の俺は、もう…彩葉が手に入る未来しか見えていなかった。
それから俺は眠っている彩葉の顔を覗き込んだ。
なんてかわいいんだろう。
俺は感動したんだ。
初めての距離で見る彩葉は、俺をうっとりとさせるほどにかわいかった。
次にそっと…
唇を重ね合わせた。
彩葉との初めてのキス…
俺は彩葉の頬をそっと右手で包み込んだ。
「彩葉…目を覚まして…?記憶を失った状態で目覚めて…」
何度もそう願った。
「…結婚しよ?…彩葉…俺、頑張るから…幸せにするから…」
願いを込めてもう一度キスをした。
本当にかわいい…
「彩葉…彩葉は俺の婚約者。俺たちは愛し合ってる。俺たちが一緒にいることは普通のこと。自然なこと。いい?わかった?」
眠り続ける彩葉の耳元で、俺は何度もそう呟いたんだ。
「りっちゃん?」
──…その声で現実に引き戻された。
俺は彩葉の手から小さな箱を取り、中から煌めく指輪を取り出すと、左手の薬指に通した。
これ…現実だよな…?
…本当に…ついにここまできたんだよな…?
俺の手は震えていた。
彩葉の指の奥まで指輪が到達すると、俺は泣きそうになった。それを隠すかのように、俺は目の前の彩葉を強く抱きしめた。
「…大切にする…俺…ちゃんと彩葉のこと大切にするから…」
彩葉も俺のことを抱きしめ返してくれた。
「もう十分、大切にされてるよ?」
「ううん。もっともっと…彩葉が、“幸せだな”って毎日思うくらい、大切にする」
「ははっ。すでに思ってるから」
あー…どうしよう…幸せすぎる…
胸の奥が温かい…
いつもより早く動く鼓動が心地いい。
彩葉の匂いが鼻の奥をくすぐる。
彩葉の体温が、これは現実だと教えてくれる…。
「…愛してる…」
「うん…」
彩葉からはまだ、“愛してる”の言葉はもらえなかった。
いい…それでもいい。
今は…まだそれでもいい。
寝る時に、そっと彩葉を引き寄せ、深く…キスをした。
次の日の朝、彩葉の左手を見た。
「指輪は?」
「箱にしまってるよ?」
「つけないの?」
「今日はバイトだから」
そっか。弁当屋だもんな。そういうのは身につけてたらだめだよな。
じゃあ…結婚指輪もだめってことになるのか…
それにしても…まだ気持ちがふわふわとしている。みんなに言いたい。俺たち婚約したよって。でもすでにみんなは、もう俺たちが婚約関係だということを知っている。
あー…この矛盾がもどかしい。
「それじゃ、いってくるね」
「うん。気をつけていってらっしゃい」
……。
彩葉から…“いってらっしゃいのキス”をしてくれた…。
俺は嬉し過ぎて、思わず目の前の彩葉を抱きしめた。
「いってきます。彩葉もバイト、頑張ってね」
「うん。りっちゃんもね」
俺はしっかりと彩葉の声を耳で捕まえながら、思い切り息を吸い込み、彩葉の匂いを肺に溜め込んだ。
「なにしてるの?」
「ん?変態的なこと」
「ははっ。なにそれ」
「彩葉の匂いを俺に取り込んでた」
「もーやめてよー」
今の彩葉なら、俺がこんなことを言っても軽く受け流してくれると思った。でも俺はもっと、彩葉と軽口を叩きたかった。彩葉が友達同士で話すようなあの感じ。冗談言い合ったり、彩葉がちょっと毒を吐いたり、少し口が悪くなったり…
今でも会話は自然だけど、もっと素の彩葉と会話がしたかった。
「それじゃ、ホントにいってきます」
「いってらっしゃい」
…それにしても…
幸せだなぁ…
俺はそんな気持ちを噛みしめながら駅へと向かった。
昨夜は結局、俺の気持ちが高まり、長く…深く彩葉のことを味わった。
終わると、彩葉は服も着ずにすぐに俺の腕の中で寝ちゃったんだよな。
俺はそんな彩葉のことを、しばらくの間見つめていた。
遊園地ではユイナちゃんとはしゃいでいたし、きっと疲れが溜まっていたんだろう。
あ、野良猫ちゃん。塀の上にきなこと同じ茶トラがいた。たまに見る子だ。よく見ると首輪がついていた。この辺りの子かな?
俺はその猫に向かって話しかけた。
「にゃんちゃん聞いて?俺ね、婚約したんだ」
その猫は興味なさそうに俺を見た。
「誰かに聞いて欲しかったんだ。すごく嬉しくて。昨日あれしたんだよ?ドラマとかでよくあるやつ。彼女の指に、指輪をはめるやつ」
猫はあくびをした。
「そんなつまんなそうにすんなよ」
「にゃっ」
猫はひと言そう言うと、立ち上がってどこかへ行ってしまった。
「ふふっ」
後ろから知らない人の笑い声が聞こえてきた。驚いて振り向くと50代くらいの女性がいた。
「勝手に聞いちゃってごめんなさい。でもさっきの猫ちゃんに代わって言わせて?」
「え?」
「ご婚約、おめでとうございます」
その女性は笑顔でそう言ってくれた。
俺は腹の底から何かが湧き上がってくるような感覚になった。
「ありがとうございますっ」
「お幸せにね」
「はい」
なんていい日なんだ…
空を見上げると、雲ひとつない青色が広がっていた。
まるで世界からも祝福されているような気分だった。




