14 怖い…
私の腕を掴む、りっちゃんの力は強かった。
たったそれだけで私の頭の中はまた真っ白になった。
「…痛い…」
「どういう意味?」
私が痛いと言っても、りっちゃんの力が緩むことはなかった。
話し方を間違えた。
ぬか喜びをさせてしまうかもしれないと思って、“婚約はできない”と先に言ってしまった。その後で、“好き”だとちゃんと伝えるつもりだった。
でも…
りっちゃんは今、怒ってる…
婚約できないって言ったからだよね?
そりゃそうなるよね。私は今、養ってもらってる立場なのに…
「彩葉?」
「…」
「ちゃんと話して」
「…」
「彩葉」
私が自分勝手だからいけないのに…だからりっちゃんを怒らせてしまったのに…
私は、りっちゃんから向けられる冷たい視線と、掴まれている腕の力強さに怖くなってしまった。
初めてそんな視線を向けられた。冷たく、怒りの込められた視線。いつもの優しい表情のりっちゃんを思い出せなくなるほどに、その視線が痛かった。
話したいのに声が出ない。
伝えたいのに声が出せない。
「黙ってないでちゃんと話して」
「…」
「彩葉」
りっちゃんの低く冷たい声が、部屋の中に静かに響く。
「…ごめんなさい…」
「…どういう意味?」
「…私…」
「出ていくつもり?」
私はそれを聞いて首を横に振った。
「好き…」
必死に声を絞りだして、私の気持ちを伝えた。
「……え…?」
「好き…りっちゃんのことが好き…」
私の腕を掴んでいた、りっちゃんの手の力が緩んだ。
「でも…」
「…でも?」
「りっちゃんからしたら、うんざりするのかもしれないけど…」
「けど?」
「婚約とか、結婚とかはすぐに考えられなくて」
「うん」
「まずは…恋人として…りっちゃんのことをもっと知っていきたい…」
私がそこまで言うと、りっちゃんの表情が一気に緩み、ホッとした様子になった。
それからりっちゃんは私の手を優しく握った。
「いいよ」
「…」
「いいよ」
「…いいの?りっちゃん、我慢してない?それにさっきすごい怒ってた」
「そんなの、彩葉が記憶を失った時から覚悟してたよ?それに怒ってない。不安になっただけ」
不安に…?私には怒ってるように見えた。
「本当に?」
「……逆に彩葉はさ、なんで俺が怒ってると思ったの?」
そう聞かれ、私はさっき思っていたことを伝えた。養ってもらってるのに、今は婚約は考えられないと言う私に、怒ってると思ったと…。
「ははっ。そんなんで俺が怒るわけないじゃん。彩葉が出ていくのかと思って、焦っただけ」
私はそれを聞いて泣いてしまった。
緊張の糸が一気にほどけた。
そんな私のことを、りっちゃんは優しく抱きしめてくれた。
「ごめん。怖かった?」
私はうなずいた。
「ごめん。…涙が落ち着いたらさ、また言ってくれない?俺のことが好きだって」
「…っ…すきぃぃぃ…っ…」
「ははっ。涙が落ち着いてからでいいってば」
「りっちゃんっ…っ…すきぃぃっ」
「うん。俺も好き。彩葉のこと大好き」
りっちゃんは前にもしてくれたように、私の背中を優しくトントンとしてくれた。
「さっきも言ったけど、彩葉にとってはまだ始まったばかりなんだから、別にすぐに婚約だの結婚だの、俺思ってないよ?」
「でもっ…りっちゃん辛いでしょっ…?」
「俺のことを考えてくれてたんだね?ありがとう。でも俺は大丈夫だから。前にも言ったでしょ?彩葉がそばにいてくれるだけでいいって」
「っ…でもっ…職場の人たちっ…いつ結婚するのってなっちゃうよっ?」
涙のせいで、上手く話せなかった。
まるで子どもが泣きながら話すかのように、呼吸を乱しながら私は話していた。
「うん。そうだね。でもそんなのなんとでも言えるよ」
「どうっ…どうやってっ…?」
「ははっ。とりあえず落ち着こうか、彩葉」
りっちゃんは、ずっと私の背中を撫でたりトントンしてくれたりしていた。「大丈夫だよ」と言いながら。
私の涙が落ち着いた頃、りっちゃんは私から離れ、優しく両手を握ってくれた。
さっきまで冷たく感じていたこの無音の部屋が、一気に温かくなったように感じた。
私はまたさっきの質問をした。すると「彩葉は両親からたっぷりと愛情を注がれて育ったから、今俺は彩葉の両親に見極められてる…とか?」と、りっちゃんは笑いながらそう言っていた。
「やっぱり大事な娘を嫁にだすなら、それくらいはするでしょ」
「…そういうもん?」
「きっとそうだよ。それに彩葉の親は近くにいないでしょ?だから余計に俺の存在を怪しむ。“本当にこの男に彩葉をまかせていいのか。彩葉を幸せにできるのか。婚約中に何事もなければ、結婚も許していいが…まぁ、とりあえず君という男をしばらく見させてもらうよ”的な?」
りっちゃんは小芝居でもするかのように、声色を変えながら私に説明していた。
「あははっ。なにそれ。どういうシナリオ?」
「やっと笑った」
りっちゃんは優しく微笑むとそう言った。
りっちゃんが笑うだけで、またこの部屋の空気感が変わった。柔らかくなった。
次の日、私はふわふわとした気持ちだった。胸の“つかえ”がやっと取れたような…そんなスッキリとした気持ちと、初めて恋をしたような感覚。
今まで…あんな感情的に、誰かに好きだと伝えたことはなかった。
もしかしたら本当に私の初恋はりっちゃんなのかもしれない。
今まで付き合ってきた人にも、ここまで感情が揺すぶられたことはなかった。
きっと…記憶を失くす前の私もそれを感じ、プロポーズを受けたのだろう。
“好き”って…伝えたくなるもんなんだな。
記憶を失くす前の私はこうやって、少しずつ愛情表現ができるようになっていったんだろうな。昨日りっちゃんに“好き”だと伝えたのに、今もう伝えたくなってる。
こんなの私らしくない。
それなのに…今がとても楽しい。
そんなことを考えていた昼下がり。
「きなこー、あんー、遊ぶよー」
にゃんずたちにそう声をかけると、おもちゃを手に取り軽快に腕を動かした。その様子を動画に撮ると、すぐにりっちゃんに送った。
早く帰って来ないかな…
早く会いたいな…
「ねー?きなこと杏も、そう思うよねー?」
にゃんずたちは私のそんな言葉をよそに、目を丸くしながらおもちゃの動きを、顔を動かしながら追っていた。
夜になり、りっちゃんから“これから帰るよ”と、メッセージがきた。
あと1時間…あと1時間経てばりっちゃんは帰ってくる。
私はキッチンに立つと、夕食の支度を始めた。
あ…その前ににゃんずたちのご飯。
私がその準備をしていると、2匹とも私の足元に寄ってきて、スリスリとするようにした。
「すぐ用意するからね」
「「みゃ〜」」
ははっ。今ハモッてた。さすがきょうだいだな。
時間を確認すると、まだ5分しか経っていなかった。
あれ?まだそんなもん?
時間が進むの…遅いな…
そう思いながらも、私は冷蔵庫から食材を次々に出し、調理を始めた。
ふと部屋の時計を見る。
まだこんな時間なんだ…もしかして遅れてる?電池が少なくなってきてるのかな?私はスマホを手に取り時間を確認した。
あってる…
今日は時間が過ぎるのが、いやに遅く感じた。
早く帰って来ないかな…
頭の中はそればかりになっていた。
ある程度準備を終えたところで、また時間を確認した。
…まだ20分もあんじゃん…
駅まで迎えにいっちゃおうかな…
私はエプロンを外すと、コートを手に取り家を出た。
はぁ…寒い…
早く春が来ないかな…
ポケットに手を突っ込みながら、私は駅へと向かった。
あ、スマホ忘れてきちゃった。
でも大丈夫だよね?ちゃんと会えるよね?
駅に着くと、改札が見える位置でりっちゃんのことを待っていた。定期的に改札に流れ込んでくる人の波の中を、じっと見ていた。必死になってりっちゃんの姿を探していた。
あ…
「りっちゃんっ」
「彩葉?わざわざ迎えに来たの?」
「うん」
「てっきり家にいるもんだと…」
「へへっ。そうだよね」
「スマホは持ってきてる?」
「え?」
「スマホ」
「家に忘れちゃったんだ」
「だめだよ。特に夜は。もし変なやつにでも遭遇した時に、連絡手段がないのは怖いでしょ?」
確かに…それもそうだ。
「はい。ごめんなさい」
「でも彩葉はかわいいから、明るい時間帯でも心配だな」
「子どもじゃないんだから」
「防犯ブザーでも持っとく?」
「りっちゃん心配しすぎ」
「俺、心配性だから。それにこんなに寒い中、迎えに来なくても別によかったのに」
「…早く会いたかったから」
「ははっ。俺も。俺も一緒だよ。ほら手ぇ貸して?」
そう言われて私はりっちゃんの手を握った。
「冷たい。どのくらい待ってたの?」
「そんなに待ってないよ?10分くらい?」
「なのにもうこんなに冷たいの?しょうがないから俺があっためてあげる」
「うんっ。あっためて?」
なにこれ。こんなの私じゃない。
幸せ…




