第5話 ホワイトファルコン
「この孤児院を、継いでいただけませんか」
食堂が静まり返った。
院長は穏やかに続ける。
「私も年を取りました。この子たちを守りたい気持ちは変わりませんが、いつまでも一人では続けられません」
窓の外では子供たちが遊んでいる。
「あなた方なら、この子たちを見捨てない。そう思ったのです」
リーシャはすぐには答えられなかった。
「私たちは旅人です。孤児院の運営なんてしたこともない。それに今はお金もありません」
「知っています」
院長はダミアンを見る。
全財産を差し出した張本人は、三秒ほど考えて言った。
「いいぞ」
「早い!」
リーシャが机を叩く。
「少しは悩みなさい!」
「悩んだ」
「三秒しか経ってない!」
子供たちが笑い、院長まで肩を揺らした。
だがリーシャは笑えなかった。
孤児院を引き受けることは、誰かを一度助けるのとは違う。毎日の食事、建物の修繕、仕事、教育。責任はこれから先ずっと続く。
「今日すぐに答えを出さなくても構いません」
院長の言葉に、リーシャは頷いた。
ダミアンだけは、もう答えを決めている顔をしていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
ダミアンは眠れず、中庭の古いベンチに座っていた。
孤児院の窓から淡い明かりが漏れている。
「お兄さん」
パンをくれた少女が、毛布を肩に掛けて立っていた。
「どうした。眠れないのか?」
少女は隣へ座った。
しばらく足元を見つめた後、小さな声で尋ねる。
「お兄さんも、いなくなっちゃう?」
ダミアンは答えられなかった。
「助けに来てくれる人はいるよ。でも、みんないなくなっちゃうの」
少女は笑おうとした。
「お兄さんたちは旅人だから、仕方ないよね」
その笑顔は、噴水でパンをくれた時とは違った。
何かを諦めることに慣れた子供の顔だった。
「おやすみなさい」
少女が立ち上がる。
ダミアンは遠ざかる背中を見つめた。
自分も知っている。
帰る場所を失うことを。
赤い瞳を理由に追われ、扉を閉ざされ、どこにも留まれず旅を続けることを。
助けられても、そこを自分の家とは呼べなかった。
だから誰にも期待しないようになった。
期待しなければ、置いていかれても傷つかないから。
「家って、大事なんだな」
「今さら?」
背後からリーシャの声がした。
「今さらだな」
リーシャが隣へ座る。
「さっきの話、聞いてたのか?」
「少しだけ」
ダミアンは夜空を見上げた。
「俺も昔、帰る場所がなくなったことがある」
リーシャは何も言わない。
自分も同じだからだ。
「今も、帰る場所がない奴はたくさんいる」
「私たちみたいに?」
「ああ」
風が中庭を抜けた。
屋根の上で、翼の欠けた白い隼の風見鳥が軋みながら回る。
「作りたい」
「何を?」
「家を」
ダミアンは孤児院を見た。
「呪い子でも帰れる家を。赤い瞳を見ても、追い出されない家を」
食堂に入れなかった日、見知らぬ少女がパンを分けてくれた。
その小さな善意に救われた。
今度は自分が、誰かへ渡す番だった。
「腹いっぱい食って、安心して眠れる。できる仕事を見つけて、出ていっても、また帰ってこられる」
ダミアンはリーシャを見る。
「そんな場所にしたい」
大きすぎる夢だった。
畑は荒れ、建物は古く、二人には金もない。
普通なら無理だと笑う。
けれどリーシャは知っている。
目の前の男は、困っているという理由だけで全財産を差し出した。
知らない子供たちのために、夜襲と魔獣へ立ち向かった。
この男なら、本当に始めてしまう。
「一人じゃ無理よ」
「ああ」
「絶対に失敗する」
「そうかもな」
リーシャはため息をついた。
そして笑う。
「だから、私もやる」
ダミアンの赤い瞳がわずかに見開かれた。
「助かる」
「勘違いしないで。あなたを放っておくと、子供たちの食料まで全部誰かにあげそうだからよ」
「それは困るな」
「あなたが言わないで」
二人の笑い声が、静かな中庭へ溶けた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
院長と子供たちが中庭へ集まった。
ダミアンはパンをくれた少女の前にしゃがむ。
「昨日の返事だ」
少女が首を傾げる。
「もう、どこにも行かない」
「本当?」
「ああ。ここを、お前たちが何度でも帰ってこられる家にする」
少女はしばらく動かなかった。
やがてダミアンの外套を強く掴む。
「約束?」
「約束だ」
少女の顔に、噴水で見せたものより大きな笑顔が戻った。
子供たちの歓声が中庭に広がる。
院長は目元を拭い、二人へ鍵と権利書を差し出した。
「この子たちと、この場所をお願いします」
ダミアンとリーシャは並んで受け取った。
風が吹く。
頭上で白い隼の風見鳥が回った。
「名前が必要ね」
リーシャが言う。
「この家の?」
「この家を守り、帰る場所のない人を助ける私たちの名前」
ダミアンは白い隼を見上げた。
欠けた翼でも、風を受けて前を向いている。
「ホワイトファルコン」
「白い隼?」
「ああ」
リーシャも風見鳥を見上げ、静かに頷いた。
「悪くないわね」
その日、古い孤児院は一つの家になった。
帰る場所を失った者を迎え、腹いっぱい食べさせ、安心して眠らせ、何度でも送り出すための家。
まだ金はない。
畑も荒れている。
仲間は二人しかいない。
それでも、始まりを告げるには十分だった。
ホワイトファルコン。
後に国境を越えて多くの命を救うその名は、一人の少女が分けた半分のパンと、「いなくならない」という約束から生まれた。




