第27話
ユリウスは、何かをつかもうと伸ばした手を、寝台の上で開いていた。
窓の向こうはまだ薄暗い。夢の花も月も消えていたが、胸の奥に残った冷たさは、目を覚ましても消えなかった。
死ぬのは怖い。
そのことは、昨夜までと何も変わらない。夢をひとつ見たくらいで、怖くなくなるはずもなかった。
けれど、限りがあるからこそ、今の務めは形になる――あの声だけは、朝の静けさの中でもはっきり思い出せた。エルシアの問いが、夢の中で別の言葉になったのかもしれない。あるいは、自分がようやく自分に言えたのかもしれない。
ユリウスには、その違いを確かめる方法がなかった。
身支度を済ませると、夜のうちに積んだままになっていた書類を執務室の机へ運ばせた。始業の鐘を待たず、当直の書記を呼ぶ。
「まず、都市同士を結ぶ街道の補修費を王国へ申請します。傷みのひどい区間と、冬の間に通行を保つための費用を今日中にまとめてください」
紙の上に、最初の期限が書き込まれた。
「次に、凶作の時に領内の都市同士で備蓄を融通する規則を作ります。各都市に保有量と搬送に使える荷車の数を照会し、代表者を集める日を決めましょう。一つの町だけで抱え込まないための規則です」
総督官邸だけで、どの都市からどれだけ出してもらうか決めるつもりはなかった。倉庫を管理する者と都市の代表が同じ表を見て、出せる量と必要な量を確かめられる形にする。
「都市参事会の救貧策については、内容は参事会に任せます。ただ、財源が年ごとに途切れては続きません。地方の予備費から一定額を回せるよう、王国の承認を求めます。参事会には必要額の見積もりを出してもらってください」
市場や町なかの道、困窮者への支援は参事会の仕事だ。総督が代わりに指図するのではなく、地方全体の予算と王国への申請で支える。それなら役割を奪わずに済む。
最後に、返答が滞っている請願の束を机の中央に置いた。
「受け付けた日と内容を一覧にして、担当部署と返答期限を一件ずつ決めます。私の机で止まっているものも隠さず入れてください」
書記の羽根ペンが一瞬だけ止まり、また動き出した。
「かなりの量になります」
「ええ。私が長く生きても、積んでおくだけでは減りませんから」
口にすると、情けなさが先に立った。長く生きる方法ばかり求め、今日できる仕事まで明日へ先送りしていた。
街道の申請も、備蓄規則の策定も、救貧財源の確保も、請願の整理も、ユリウス一人で抱える必要はない。手順と期限を残せば、別の誰かが続きを引き受けられる。
自分の後にも残る仕事は、ある。
それでも、死は怖かった。指先に力を入れないと、羽根ペンを落としそうだった。ユリウスは震えが収まるのを待つ代わりに、申請書の一行目を書いた。
「自分に残された時間を、まず民のために使います」
誰に聞かせるでもなく言い、次の書類を開いた。
朝、店が開く時刻になると、ユリウスは自費で厚い毛布を一枚買わせ、ベルフルール館へ届けさせた。添えた書き付けには、昨夜の夢をエルシアの助言として受け取ったこと、長く生きることだけに心を奪われていた自分を恥じていること、対話への礼であって返答を求める品ではないことを短く記した。
夢を誰が見せたかは、書かなかった。分からないことを、エルシアの術だったと決めつけるつもりはなかった。
同じ朝、ベルフルール館へ届いた包みは、両腕で抱えるほど厚かった。
エルシアが紐を解くと、濃い茶色の毛布がふわりと広がる。冷えた夜に一人と一匹で使っても余る大きさだった。
「大きい」
ルルが端に乗ると、丸い体が毛足に半分埋まった。
「ルル、いなくなる」
「声は聞こえてるよ」
「じゃあ、いる」
エルシアは書き付けを読み、毛布を館の生活用品として、寝具を置く棚にしまった。使いの者には、受け取ったという返事と一緒に、短い伝言を頼む。
「まず、目の前の人々を大切に、と伝えてください」
それ以上の答えは添えなかった。
日が少し高くなると、一人と一匹は庭へ出た。
古いリンゴの木は葉をほとんど落とし、細い枝を冬空へ伸ばしていた。エルシアは幹の下に腰を下ろし、紙と絵の具、絵筆を広げた。ルルは毛布ではなく、いつもの丸い姿で向かいにいた。
「動かないでね」
「丸いまま?」
「今日は丸いまま」
エルシアは薄い青と灰色を混ぜ、半透明の輪郭を描いた。光の当たるところを淡く残し、影には庭の土の色を重ねる。丸い体が少し傾くたび、絵筆を止めて形を直した。
しばらくして、ルルが紙をのぞき込む。
「これ、ルルじゃない」
「まだ途中だよ」
「丸いだけ」
「丸いところは似てるんだね」
「丸いの、ほかにもある」
もっともだった。
エルシアは体の内側に見える淡い色を少しずらし、ルルが何かを見つけた時に尖る輪郭を描き足した。今度は、ルルが紙の左右から見比べる。
「ちょっとルル」
「残りは?」
「もうちょっと」
「厳しいね」
ルルは一度だけ弾んだ。絵の中の輪郭も、少し弾ませて描き直す。
「絵ができたら、次の魔法も教えるよ。昨夜の続きを考えた?」
ルルは館の窓へ体を向けた。窓の向こうにある、昨夜一緒に眺めた暖炉を思い出したらしい。
「火がいい」
「どうして?」
「あったかい。明るい。ごはんもできる」
「熱すぎると、触れたものを傷つけるよ」
「小さい火から」
「でも、まだ火は出せないよ」
「だから、教わる」
順番はきちんと分かっているらしい。
「分かった。ただ、その前にアルヴェン山岳修道院へ行こうと思う。そこに師の旧友がいるんだ」
「どんな人?」
「会ってからのお楽しみかな。私も、直接会うのは初めてだから」
「火、そのあと?」
「戻ったら、小さな火から始めよう。今は選んだだけ。勝手に試さないこと」
「ルル、まだ火ない」
「うん。そのままでいてね」
絵の輪郭を整え、最後に淡い光を重ねると、紙の上に丸いルルが現れた。顔はないのに、少し得意そうに見える。
「できたよ」
ルルはしばらく絵を見つめた。最初は左右に傾き、次に紙の周りを一周し、最後には絵の隣で同じ向きに傾いた。
「似てる」
「合格?」
「さっきより、ルル」
「それなら、合格かな」
ルルは答えず、体の表面を小さくふくらませた。透明な粒がひとつ盛り上がり、そのまま絵の具皿の横にぽたりと落ちる。一滴が離れると、ルルの表面はすぐに元の丸みへ戻り、体は変わらない大きさで揺れていた。
「これも入れて」
エルシアは絵筆を置いた。
「この一滴を絵の具に混ぜると、絵にルルの気配が少し残るかもしれない。この絵は、毛布への返礼としてユリウスへ贈るつもりだよ。混ぜた一滴も、絵と一緒にあの人のところへ行く。それでもいい?」
「うん。ルルがあげる」
「痛くない?」
「痛くない。もう丸い」
エルシアはルルがもう一度うなずくように揺れたのを確かめてから、透明な一滴を淡い青の絵の具に混ぜた。色は変わらなかった。ただ、絵筆を動かすと、絵の中の輪郭が一瞬だけ柔らかく揺れたように見えた。
仕上げの色を重ね、絵を完成させた。ユリウスへの返礼にすると決めたが、まだ館からは出さなかった。乾くまで庭の風が当たらない室内へ移した。厚い毛布と書き上げた手紙も、館内に保管したままだった。
旅支度は、まだ始めなかった。




