第26話
「次は、どんな魔法を覚えてみたい?」
エルシアの問いに、卓の下のルルは動きを止めた。
追いかけていた羽毛が、丸い体の上から床に滑り落ちる。ルルが卓の上を見上げるように丸い体を傾けたので、エルシアは卓に残った小さなマントを下ろし、館内の棚から柔らかな布を取った。ルルはその下へ潜り、布を押し上げて頭と短い腕を作る。顔のくぼみは左右で高さが違い、手の先にはまだ指がない。下半分は床に広がったままだった。
「ルル、もう魔法できる」
「どんな魔法?」
「ムギトカゲ、追える」
エルシアは椅子に座り直した。暖炉の火が、ルルの半透明な頬を赤く透かしていた。
「地面を走る時の振動だね」
「うん。遠くでも、こっち、って分かる。麦畑を荒らす。穀物の袋も、紙もかじる。手のひらくらい」
「よく覚えているね」
「包むと、静かになる」
ムギトカゲは畑を荒らすだけでなく、穀物庫へ入り込めば袋を破り、記録の紙までかじる小さな魔法生物だ。以前、ルルは地面から伝わる細かな揺れを全身で拾い、その居場所を見つけていた。
「ほかにもある?」
「供え物、見つける。石の後ろでも分かる」
「匂いと温度を体全体で感じているんだと思う」
短い腕が、得意そうに横へ広がった。直後、片方が少し垂れた。
「それなら、ルルは地の魔法を覚えてる?」
「まだだよ。どちらも、ルルの体にもともとある感覚だね」
「魔法じゃない?」
「うん。足音を聞いた人が、風の魔法を使ったことにはならないよ。ルルは耳の代わりに、体で地面の揺れを感じている。揺れを作ったり変えたりする術とは別なんだ」
ルルは床に短い腕を当てた。足音を聞くというより、床板を伝わる細かな揺れを確かめているように見える。
「体、便利」
「とてもね。でも、できることを知ってから習うほうが安全だよ」
エルシアは卓を指で軽くたたき、木のカップに水を少し注いだ。それから暖炉と閉じた窓を順に示した。
「魔法を習うなら、まず五つの原初元素からかな。地、水、火、風、エーテル」
ルルは短い腕の先を何度もふくらませ、数えようとした。指は出ず、丸い手が五回上下した。
「五つ。冬は?」
「冬は元素じゃないよ。春も夏も秋も同じ。季節が変わると五つの流れや釣り合いも変わるけど、季節そのものが六つ目になるわけじゃない」
「冬、入れてもらえない」
「仲間外れではないんだけどね」
ルルの口の線がわずかに曲がった。納得していない顔だけは、さっきより上手だった。
「地は、形や重さを与え、石や建物を支える働き。水は流れ、汚れを落とし、傷を癒やし、少しずつ形を変える。火は熱と光を生み、ものを壊すことも鍛えることもできる。風は音や気配を運び、天気や移動に関わる」
「エーテルは、見えない?」
「見えにくいね。魂や夢に触れたり、ほかの元素を結びつけたりする。どれか一つだけで何でもできるわけじゃないよ」
ルルは水の入ったカップと暖炉を交互に見たあと、自分の短い腕を見下ろした。
「元素、覚えたら魔法?」
「元素は材料や働きに近いかな。それをどう組み合わせ、何にどう働きかけるか決めたものが術になる」
「煮込みと材料?」
「少し似てる。間違えても食べれば済む、とは限らないところが違うけど」
エルシアが挙げた最初の例は、魔法印だった。
扉や道具に決まった線を描けば、元素の働きをそこに留めやすい。ただし線が途切れたり、合わない材料を使ったりすれば、行き場を失った力が術者に返る。
「魔法印、怒る?」
「怒らないよ。間違いを直してくれないだけ」
「怒るより、困る」
「そうだね」
結界は、内と外を分け、こちら側にいるものを守る術だ。小さな部屋を短い間守るのと、館全体を何日も守るのとでは負担が違う。広く、長く保つほど、集中力も魔力も削られていく。
「大きい結界、いっぱい寝る?」
「その前に倒れるかもしれないから、無理をしない」
「寝るほうがいい」
「私もそう思う」
夢に触れる術もある。眠っている相手の心に触れ、声を届けたり、見ている景色に少し働きかけたりできる。けれど、相手の記憶と願いを取り違えれば、事実ではないものを信じ込ませてしまう。深く入りすぎれば、術者まで相手の悲しみや恐れに引きずられる。
「夢の中で、迷子?」
「帰る場所を忘れる迷子だね。だから、できても簡単には使わない」
最後は、遠くへの呼びかけだった。離れた相手へ声や合図を送れるが、届けたい相手を正しく思い浮かべるか、その人につながる確かな目印を用意する必要がある。相手や目印を取り違えれば何も届かず、焦って何度も繰り返せば、声より先に魔力が尽きる。
「台所に呼ぶ時も?」
「台所なら、普通に呼んだほうが早いかな」
「エルシアー」
「ここにいるよ」
説明の合間に、ルルは何度か丸い姿に崩れては、布の下で頭と短い腕を作り直していた。ひと通り聞き終えると、しばらく黙り、頭を右へ、次に左へ傾けた。魔法印、結界、夢、遠くへの声を、体の中で並べているのかもしれない。傾くたびに顔は少しずつ崩れ、とうとう片方の頬がマントの襟に流れた。
「決めた?」
「長く一緒にいられる魔法がいい」
その答えは、四つの例のどれでもなかった。
「エルシアと、いっぱい旅する。ごはん食べる。帰って、また出る。ずっとできる魔法」
エルシアはすぐに答えず、垂れた頬を布越しに支えた。ルルの短い腕が、その手の甲にそっと触れる。
「ごめんね。老いを止める術は教えられない」
「むずかしい?」
「知らないんだ。隠しているわけじゃない。私がどうして年を取らないのかも、誰かの老いを止める方法も、本当のところは分かっていない」
「エルシアも、知らないことある」
「たくさんあるよ」
「じゃあ、知らないまま?」
「今はね。分からないものを、知っているとは言えないから」
「じゃあ、ほかのを考える」
「うん。一緒に考えよう」
エルシアが支えていた頬の輪郭が崩れ、ルルは小さなマントの中へ沈んだ。それでも、エルシアの手の下には丸い温かさが残っていた。答えを持っていなくても、今夜こうして一緒に考える時間まで消えるわけではない。エルシアはルルが元の丸い形に戻るまで、手を動かさなかった。
同じ夜、エストラ市の総督官邸では、ユリウスが寝室の机に向かっていた。
昼に片づけきれなかった書類が、燭台の下に積まれていた。街道の傷み、冬の備え、返答が滞っている請願。どれも来年まで待ってはくれない。ユリウスは一番上の書類を手に取り、数行読んでから元の場所へ戻した。
死ぬのが怖い。
劇場で口にした言葉は、夜になっても薄まらなかった。仕事が多いから時間が欲しいのか、時間が欲しいから仕事を言い訳にしているのか。考えるほど、机の上の文字が遠くなる。
やがて燭台の火を消し、寝台へ入った。眠りは浅く、紙をめくる音を何度も聞いた気がした。
夢の中で、季節外れの花が咲いていた。
白い花は開いたそばから花びらを落とす。拾おうとすると夜になり、細い月が満ち、丸くなった途端にまた欠け始めた。
ユリウスの手には、総督の印章があった。けれど次に目を落とした時には、見知らぬ誰かの手に移っている。足元には金貨と宝石が積まれ、月の光を返していたが、その山にも花びらが降り積もった。
「花も、月も、地位も、富も、時間を止めはしない」
静かな声がした。
聞き覚えがあるようにも思えたが、誰の声にも重ならなかった。誰かに語りかけられているのか、自分の考えが声になったのか、夢の中では区別がつかない。振り返っても、そこには誰もいなかった。
「限りがあるからこそ、今の務めは形になる」
声の主は、姿を見せなかった。
花びらの向こうに、開かれないままの書類が見えた。ユリウスは手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。




